仕事場から自宅に帰る道すがら、一通のメールが届いた。
高校時代から愛用している(変えるのが面倒臭かった)携帯に送られてきたそのメールは、見憶えの無いアドレスからの発信だった。タイトルは『from Habaki』。思わずその場で、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
高校生活最後の年の初秋、その子供は現れた。いとも容易く遺跡に侵入し、皆守の寝室にまで侵入を果たしたその子供は、皆守が卒業する前に姿を消した。予想していた事態だ。彼はただ、通り過ぎただけ。目の前にあった温もりに手を伸ばし、初めて知ったその心地好さに驚いただけ。傷だらけの幼い体を、いつか自分ではない誰かに癒してもらえればいい。そんな風に皆守は考えていた。だから、別離を悟って溢れた涙には驚いた。
癒せるなどとは思っていなかった。ただ、伸ばされた手は温かかった。それが皆守を癒していたなどと、認められたのはつい最近になってからだ。つまり皆守は、つい最近まで葉佩の事を悶々と思い悩んでいた。実のところ、今でもまだ思い出しては眠れぬ昼夜を過ごしている。
救えるなどとも思っていなかった。それほど皆守は傲慢ではない。ただ、向けられる醜い執着が、まるで必要とされているような錯覚をもたらした。小さな強奪者を守ってやりたいと思うぐらいには、皆守は寂しかった。それだけだ。
予告どおり皆守を泣かせたが、当の葉佩はそれを見る事なく旅立った。
メールは簡潔だった。
『I'll arrive at Naritakuko at 14:20 of tomorrow』
明日の14時20分に成田空港に着く。
それだけだった。だから何だ、と、思わず呟いた。往来で座り込んだまま低く呟いた皆守を、道行く人々が避けて通る。漸く自分が社会から外れた行動を取っている事に気付き、何食わぬ顔で身を起こす。社会を構成する一端である自分を認めるのは、皆守にとって難しい事ではなかった。摩擦を抑え、衝突を避け、自我を殺す事なく流れに乗る。要はいくつかの顔を使い分ければいいのだ。あの頃の葉佩のように。
雑踏を巧く躱しながら、発信されたアドレスに目を通す。アルファベットと数字が不規則に並んだそれは、しかし皆守に何の情報ももたらさなかった。どうしろってんだ。今度は胸中で呟く。「迎えに来い」とでもいわれれば、了承にしろ拒否にしろ返す言葉もあっただろうが、ただ所在だけを伝えるというのは、一体なにを求めているのだろう。そこまで考え、ふと思い立った。
委ねられている。
つまりは、そういう事なのではないか。葉佩は所在を明らかにした。皆守が会いたいと思ったのなら、其処に行けばいい。ちょっと待てあの餓鬼。何だそれは。要するに、その場所に行った時点で葉佩に会いたかったと判断されるという事か。会いに行っただけで、敗北が決定するのか。いや、落ち着け。別に戦ってる訳じゃない。勝敗とかそういう事じゃない。敗北というのなら、皆守は疾うに完敗している。
もやもやしたまま帰宅し、昨日の残りを温めて夕食にする。シャワーを浴びて床に就く。目を閉じる。いつもと同じ行動だ。違うのは、妙に煩い自分の心臓。そして、払っても払っても纏わり付く昂揚感と不安感。
成田空港に着く。何処から。あれから何年経った?あの頃あいつは幾つだったんだろう。背は伸びただろうか。泣き虫は治っただろうか。傷はもう癒えただろうか。どうして今になって連絡を寄越したのか。俺がもう忘れているとは思わなかったのか。それとも、知っているのだろうか。今もまだ、温かい手の感触が肌に残っている事を。知ってる訳ないだろう。落ち着け俺。成田まで家からどのぐらい掛かるだろう。いや、まだ行くとは決めてない。
気付けば夜は白んでいた。
目覚めると同時に時計を確認し、皆守は慌てて布団を跳ね除けた。シャツを肩に引っ掛けたまま洗面所に向かい、髭を剃りつつベルトを通し、携帯を引っ掴んでから、ふと思い当たった。今日は日曜日だ。今まさにドアノブに掛けた手を、ゆっくりと下ろす。そのままベッドに直行した。
更にその二時間後。再び目覚めた皆守は、冷蔵庫を開けて絶望した。そういえば、最近は買出しを怠っていた。辛うじて残っていた米を磨いで炊飯器にぶち込んでスイッチを入れる。棚の奥底に眠っていたレトルトカレーを温める。
備蓄もこれで最後だ。今日こそは買出しに行かねば。時間どおりに到着するなら、そろそろ家を出なければ。あ、胡椒が切れてたな。何で黒胡椒だけ早くなくなるんだろう。俺が見当たらなければ諦めるだろう。まさか、泣きはしないだろうな。野菜も買っておくか。他に何かあったかな。ああそうだ、電球が一つ切れてたんだ。まあ、あそこは暗くてもいいか。帰る場所は、もう見付けたんだろうか。あと洗剤とシャンプーと歯磨きと、ああくそ、大荷物になりそうだな。車が欲しいな。置く場所ないけど。会ってどうするってんだ。俺はもう、あの頃とは変わっちまった。きっと、あいつも。こんなところか、あーめんどくせぇ。ん、煙草も最後の一箱だったか。
財布と携帯と煙草とライターと鍵。それだけ持って、皆守は部屋を出た。
空港に着き、到着ロビーに向かう。時間は15時45分。そういえば便名も聞いていない。それ以前に、定刻どおりに便が到着していたのなら、もう此処にはいないだろう。ベンチに座っているのは、老夫婦と若い女の二人連れ。男女六人ほどのグループに、柄の悪そうな男が一人。しかも、どう見ても堅気ではなさそうだ。服の上からでも分かる、鍛えられた体躯。冷たく尖った、表情の無い目。皆守の視線に、剃刀のような視線を返した。慌てて目を逸らす。
探しているのは葉佩だ。彼は今、幾つだったか。皆守より十歳ほど年下だった。皆守が二十代である以上、まだ少年と呼ばれる年齢を脱していない筈だ。だが、それらしき人物は見当たらない。まあ当然だな。買出しに来た筈なのに、随分と遠回りをしてしまった。
数分後の自分の姿を思い浮かべる。一人で電車に乗り、一人で帰路を踏む。いつもの事だ。それが何故、こんなにも耐え難く感じられるのか。彼は今、どんな気持ちでいるだろう。案外、あっさり諦めて帰ったのかも知れない。そうだといい。皆守にはもう、彼と向き合う理由が無かった。監視も排除も必要ない。彼は全てに勝ち、去って行った。残された敗者は、惨めに傷跡を慰めながら生きてゆく。空洞に蝕まれ、いつか消え失せるだけだ。
先程ベンチに座っていた男が立ち上がった。荷物は足元に置いたまま、真っ直ぐ皆守に向かって歩み寄る。硬い靴が床と擦れ合い、不快な音を発する。既に歩調は、走ると表現しても過言ではないほど速まっていた。
「皆守いいいいぃぃぃぃ!」
同時に聞こえた音は、気が遠くなるほど耳障りだった。あ、挽き肉も買わないと。皆守が咄嗟に出来たのは、視覚と聴覚で得た情報からの逃避だった。そういえば、隙を見せると追突してきたな。思い出した時には、もう手遅れだった。
恐ろしいほどの力で肩を掴まれ、引き寄せられた。回した手で、背中をバシバシ叩かれた。髪を滅茶苦茶に掻き回され、痛いほど強く胸に抱き込まれた。そんな二人を、通り過ぎる人々が微笑ましそうに見ている。誰かが口笛を吹いた。あの、すいません、お手数ですが助けてください。皆守が発した救難信号など知る由も無く、男は只管に皆守の名を呼んでいる。両頬を大きな手で挟まれて、上を向かされた。傷だらけの顔から、皆守の鼻先に涙が落ちる。ああ、何も変わっていない。ただ一つを除いて。
「おい葉佩」
「皆守ぃ!」
「お前、デカくなりすぎじゃないか?」
「皆守ー!」
「何で俺よりデカいんだ」
「みーなーかーみー!」
「うるせぇ!」
「会いたかったぁ!」
「ああ、まあ、それはいいんだが」
「俺もって言えよぉ!」
ベチっと頬を叩かれた。何だこの仕打ち。しかも顔が近い。息がかかる。熱い。ちょっと待て。此処は公衆の面前だぞ。違うそうじゃない。それ以前の問題がある。
ああ、でも、こいつが笑ってるならいいか。
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