走り去った小さな背中を思い、その寸前に交わされた言葉を脳内でもう一度だけ再生した。いつものように一人で喋り続けていた葉佩が、唐突に泣き出すのはよくある事だ。彼の脳内でどのような作業が行われているのかは分からないが、時々葉佩は酷く悲しそうな顔をする。そのまま泣き出す事もあれば、唇を噛み締めて身を翻す事もあった。その度に、いつも皆守は後悔と自責の念に駆られる。小さな子供を苛めたような気分になるのだ。まったくもって理不尽だ。
形の定まらない思考に気を取られていた為に、夕食の味は憶えていない。惰性で自室に戻り、それでも自動的に再生される記憶が鬱陶しくて、逃げるように浴室へと向かった。
逃げるのは罪悪なのか。壊れたくないからと背を向けるのは、責められるべき行動なのか。死にたくないと叫ぶのは、恥ずべき行為なのか。湯を浴びながら、繰り返し胸中で自問した。自分の世界に浸るあまり、隣で顔を洗っていた後輩に泡を飛ばしてしまい、危うく乱闘になりかけた事はこの際どうでもいい。湯船が氷風呂になったのも、もうどうでもいい。俺の所為じゃない。文句あるか。あっても胸に秘めとけ。
沈みすぎて底が抜けてしまった精神を持て余し、こんな日はとっとと寝るに限るとばかりに再び自室に戻り、皆守は気付いた。地上三階の窓の外に、あからさまに不審な人物が立っている事に。カーテンの隙間から見える、やけに重そうな靴を睨み付ける。勢いよくカーテンを開け、何故か開錠済みの窓も開け放つ。立っていたのは予想どおりの人物だったが、彼が驚いて足を踏み外したのは予想外だった。思わず叫んで、落ちかけた体に手を伸ばす。
「何してやがるこの不法侵入者!」
「皆守がいきなり開けるから!」
「俺の所為か!」
咄嗟に差し出してしまった手を、汚れた手が固く握り返した。必死に縋り付いてきた体の冷たさに、皆守の心臓が無音の悲鳴を上げる。葉佩が、耳の近くで息を止めたのを感じた。足は床に付いているのに、強く皆守の服を握り締める。その手が心臓の近くにある事が恐ろしくて、葉佩の襟首を掴んで引き剥がそうと引っ張った。
「おい、空き巣野郎」
「空き巣じゃねぇ」
「じゃあ強盗か?それとも殺人未遂か?危険物所持か?」
「ちがっ・・・わない、けど違う!」
「どうでもいいから離せ。これ以上伸びたらどうしてくれる」
葉佩を引っ張ると自分の服も伸びてしまう法則を発見した皆守が、苛立たしげにまた溜息を吐いた。腹の辺りで固定された頭部に手を振り下ろし、それでもしがみ付く葉佩を途方に暮れて見下ろす。風呂に入った直後にも拘わらず、泥まみれの葉佩の手を振り払う事もせず、ただ途方に暮れて立ち尽くした。顔を皆守の腹に押し付けたまま、葉佩が吐き出すように言葉を落とす。
「俺は餓鬼だけど、《宝探し屋》なんだよ」
「ああ、そうだったな」
「強欲なんだよ」
「まあ、そうだろうな」
「そんなこと言われたの、初めてだ」
「何が言いたいのか分からん」
「・・・秘宝は協会に提出する」
唐突に喋り始めた葉佩に、皆守が首を傾げた。真面目に聞くにしても聞き流すにしても、この体勢はどうにかしたい。そう考え、葉佩を引き摺ったままベッドまで移動して腰を下ろした。それでも手を離さない葉佩に、もういっそ尊敬の念すら浮かぶ。余談だが、毛布を決して手離そうとしない朝の皆守も、葉佩に同じ感想を抱かれている。
皆守の心中など知る由も無い葉佩は、彼がベッドに座った為、中途半端な中腰の体勢で喋り続けている。さすがにそれは辛いだろうと、皆守もベッドから降りて床に座る事にした。
指令が完遂されたら帰還する。その際、所持品は全てチェックされる。だから、自分が何かを所有するなど在り得ないと思っていた。何かが欲しいなんて、考えた事もなかった。自分は所有される立場だから。
セーターを握る手が、強く力を込めた。泣いているのかと思ったが、声は無表情だ。葉佩には、自分の境遇を嘆いて涙を流す事など無いのだろう。漠然とそう思った。
「ねえ皆守、俺って強欲?」
「違うのか?」
「分かんねぇから訊いてんだよ」
「まあ、どっちかっつーと」
「強欲?」
「そうだな」
「それって悪い事?」
「・・・どっかの宗教倫理では、確か大罪だったな」
「皆守は?皆守もそう思う?」
「まあ、欲は少ない方が気楽に生きられるんじゃないか?」
「・・・そうだね」
やはり無表情に同意を落とし、葉佩がやっと手を離した。顔は上げずに、じっと床を見詰める。年の割りに思慮深い面も持つこの子供は、何やら複雑な悩みを抱えているようだ。察したが、皆守には為す術が見当たらない。ただ、自分の内面を見詰めるような瞳で自分を見る葉佩が、無痛症の筈の心臓をざわめかせた。
本当に、葉佩は強欲なのだろうか。我知らず独白に耳を傾けていた皆守は、今更になってそんな根本的な疑問を発見した。葉佩が何かを欲しがった事があるだろうか、と考え、秘蔵のカレールウを持ち出された過去に思い当たる。校内で噂になった黒板消しの大量紛失事件も、未だ記憶に新しい。最近では被害件数は減少しているらしいが、保健室などでは今でも備品の盗難が頻発しているようだ。
さり気なく皆守が問い質したところ、悪びれもせずに葉佩はそれが自分の仕業である事を認めた。しかも会計の憤りを伝えると、じゃあ戻しとく、と、あっさりと返却を承諾したのだ。所有が目的でないのは明らかだ。物欲に起因する行動だとは思えない。
「ああ、やっぱり違うかも」
「ん?何が?」
「お前は強欲じゃない」
「そーかな?」
「じゃあ訊くが、いま欲しい物あるか?」
「んーとね、靴下」
「ああ、子供用の靴下なんて売店には無いからな」
「そうそう」
「じゃなくて」
「おお、ノリ突っ込み?」
「違う」
「くそ、違ったか」
「実用品じゃなくて、使い道は無いが、欲しい物」
「んん?難しいな」
「って事はつまり、お前は物欲に関しては淡白だ」
「・・・そっかー」
納得したようなしていないような表情で、葉佩が口を閉じた。だが、と、皆守が胸中で続ける。
与えられた物の少なさを鑑みるに、欲するという行為そのものを自覚していない可能性もある。奇癖ともいえる黒板消し収集も、その抑圧された物欲の現われと見る事も出来るだろう。しかし、没収される事を前提に置いているとも考えられる。何かを得るという事を、実感として理解していないのではないか。「必要」以外の価値観を持っていないようにも感じられる。
そろそろ面倒臭くなってきた。口には出さずに並べた考察を投げ出し、アロマに手を伸ばす。パイプを唇で挟み、ライターを擦って点火する様子を観察していた葉佩が、ふと口の端を上げた。
「物じゃなかったら、欲しいものあるよ」
「あ?」
「皆守」
「・・・は?」
「皆守が欲しい」
「・・・へえ」
予想外の言葉に、皆守の思考が止まった。何故か足の間でくつろぐ葉佩を見下ろし、真っ直ぐに向けられる視線を凝視する。邪気の欠片も無いように見えるのは錯覚だ。葉佩は皆守を害する意思を宣言している。そこに幼稚な独占欲や支配欲が同居しているのも知っている。まあつまり、そういう意味だろう。やはり、こんな子供がそれほどまでに罪深いとは思えない。今度はさっさと結論付け、丁度いい位置にあった額を、ばちっと音を立てて弾いた。
「ってーなー!第三眼が失明したらどうしてくれんだよ!」
「あるのか」
「あったらいーなーとは思う」
「何に使う気だ」
「いろいろ」
「夢見がちは強欲か?」
「・・・俺はきっと強欲だと思う」
「そりゃ厄介だな」
皆守は、望まれるのがあまり好きではない。望むのも苦痛だ。自分の意思で手離した魂を思いながら、膝の上で目を閉じた葉佩の髪を撫でた。この温もりも、求める声も、どうせいつかは失われる。そんな恐れも知らず、子供はただ欲する。伸ばされた手が震えている理由など考えもせず、皆守はすり寄る温もりに手を伸ばした。
どうせ夜が明けたら消えているのだろう。
それならば、誰も知らないのならば、これは罪ではない。
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