育ち盛りの腹が昼食を消化し終わり、空腹を訴え始める。そんな時刻に、葉佩は皆守を屋上に誘った。授業を放棄して彼が罰せられる事は無いと確信していたし、窓辺で遠い空を一人見詰める影が、あまりに寂しかったから。
 彼は寂しいなどと間違っても口にするような人間ではなかったが、誰よりも孤独に見えた。或いはそれは、葉佩自身の願望が見せた幻だったのかも知れない。世界に見捨てられて、自分だけが彼を見詰めていたらいい。そんな事を、葉佩はふと考えた。その欲望がどれだけ罪深いのか、葉佩はまだ理解していない。

 誘いには乗ったが、やはり皆守は寝る気のようだ。彼が目を見開くような話題を探したが見当たらなかったので、葉佩は思い付くままに探索の進捗状況を話した。自分を監視する相手に手の内を見せているような気もしたが、報告の義務があるのなら一応それなりに聞きはするだろう。時折かくりと首を傾けたが、今も目は開いている。耳はどうだか分からないが。

「取手は楽譜だったよ」
「ふうん」
「死んだ姉ちゃんがくれたんだって」
「ほお」
「あとね、オルゴールとか、鏡ってのもあった」
「ああ」
「皆守は?」
「さあな」

この話題はお気に召さなかったらしい。靴底でアロマの火を揉み消し、皆守は緩慢な動作で床に寝そべった。寝顔を見るのも悪くないのだが、やはり葉佩としては会話したい。つまらなそうに相槌を打つだけでもいい。時折、呆れたように笑うだけでも。完全に寝る体勢に入った皆守に、夢路を遮断しようと声を上げる。

「みーなーかーみー!寝るなよー!」
「寝てない」
「どう見ても寝てんじゃねぇか」
「あ、葉佩もうちょっと右」
「ん?右?こっち?」
「ああ、お前から見たら左か」
「人を日除けに使うな!」
「気が付いたか。察しのいい奴だな」
「そーゆー科白は隠す努力してから言え!」

などと言いつつ、望みどおり移動して日陰を作ってやる。拒否したところで怒りはしないだろうが、些細な望みが叶った時の、緩やかに浮かぶ微笑が見たかった。期待していたとおりに、皆守は目を閉じたまま緩やかに笑みを浮かべた。そればかりか、薄目を開けてふわりと葉佩に向かって手を伸ばし、指先で優しく髪を撫でた。その感触に全神経を集中させる為に、葉佩が動きを止める。叫びだしたいような気持ちを抑え、何故か速度を上げた鼓動に気付かれまいと拳を握った。
 触れた時と同じように空気中を漂うような軽さで離れていった手に、葉佩が思わず溜息を漏らす。小さな隣人の懊悩など気にも留めず、皆守が再び目蓋を閉じた。

「皆守」
「んー?」
「皆守はさ、何を忘れてんの?」
「それに答えられたら、忘れてるとはいわないだろ」
「でも忘れてんのは分かってんだ」
「・・・そうだな」
「思い出せたら、嬉しい?」
「そんなの、思い出してみないと分からない」
「そうだね」

床に落ちた手に触れようとして、寸前で止める。振り払われるのが怖かった。
 魂を取り戻した誰もが、葉佩に謝意を示した。晴れやかに笑い、嬉しそうに、取り戻したものを大切そうに手の平で包んだ。あんな風に、皆守も誰かの記憶を取り戻すのだろうか。愛しむように、誰かをその胸に抱き締めるのだろうか。
 無防備に晒された白い首筋が、葉佩を無性に凶暴な気分にさせた。それを押し隠し、笑みのように唇を上げて見せる。皆守が目を閉じていても、そうしなければならないような気がした。

「きっと、皆守も嬉しいって思うよ」
「そうか?」
「うん。だってさ、記憶って大事じゃね?」
「そうとも限らない」
「忘れたかったって事?」
「そういう記憶もあるだろ」
「でも忘れたいからって忘れるって、逃げてるみたいだよ」
「知った風な口きくな。子供のくせに」

その言葉が侮辱ではなく、況してや憐憫でも嘲笑でもなく、まるで慈しむように、或いは懐かしむように吐き出された事が、葉佩に耐えがたい苦痛をもたらした。
 葉佩はその言葉に、肯定も否定も返せなかった。認めてしまえるほど大人ではないが、完全に否定できるほどには子供ではない。結局、葉佩は唇を噛み締めて湧き上がる衝動に耐えた。
 彼の空洞を理解できない幼い自分が憎くて、自分ではどうしようもない事実を敢えて口にする彼が憎くて、認めない訳にはいかず、認める訳にもいかない。溢れる涙を飲み込んで、喉がひくりと鳴る。それが余計に無様に思えて、そんな自分を見せたくなくて、葉佩は奥歯を食い縛ったまま身を翻した。背中で皆守が何事か声を発したが、振り向く事など出来る筈がない。
 彼の無邪気な残酷さは、幼さに起因するものではないのか。灼熱のような怒りに紛れて、そんな言葉が浮かんだ。

 墓石に凭れ、呼吸を繰り返す。視界に自分の手の平が入った。小さな手だ。精一杯に伸ばしても、彼を包み込む事など出来ない。思い出した事実に、また打ちひしがれる。止まらない涙を止めようとするのは諦め、顔を覆って座り込んだ。
 世界は彼の好む黄昏だ。太陽光は遠くなり、風が首筋をすり抜けて体温を奪う。喉の奥で嗚咽を繰り返しながら、温かい手を思って余計に苦しくなった。
 去り際に、彼は何を言ったのだろう。振り向いていれば、ちゃんとその言葉を受け取れたかも知れない。そうしていれば、こんな場所で一人凍える事は無かったかも知れない。立ち止まっていれば、今頃は彼の体温を感じていられたかも知れない。後悔と、収まらぬ怒りと、認めたくない悲しみ。入り混じった感情が、また喉元を上がってきた。

 耳に触れた音が危険を知らせている事に気付き、葉佩が腰を浮かせた。予想以上に接近していた人影に、慌てて顔を拭う。その男は、薄闇の中で白刃のように笑みを浮かべていた。あからさまな侮蔑に頬が熱くなる。素早く銃を構えた葉佩に、喪部は更に笑みを深くして見せた。

「なに笑ってやがる」
「いや、気にしないでくれ」
「じゃあ消えろ」
「此処に用があるんだ」
「そんなの知らねぇ。死にたくなかったら失せろ」
「苛められたのかい?」

揶揄する口調で泣き顔を指摘され、羞恥を紛らわす為に発砲した。感情にまかせた攻撃を難なく躱し、喪部が滑らかな動作で銃を取り出す。二人が同時に、互いの眉間に照準を合わせた。僅かな動きも見逃さぬよう、目を凝らして息を殺す。
 ふいに、喪部が心底から憐れむように言った。

「自分を殺す人間に、そんなに執着してるのか」

葉佩の心臓が、音を立てて冷えた。忘れていた訳ではない。皆守は墓守で、侵入者を排除する義務を負っていて、葉佩のような異分子を抹殺する為に存在している。最初の夜に突きつけられた、それがこの《學園》にとっての皆守という男だ。同時に、微笑みかけ、隣で微睡み、気紛れに手を伸ばしてその温もりを分け与える、葉佩にとっての灯火のような人でもあった。

「馴れ合えば、それだけ殺しにくくなりそうだけどね」
「殺さねぇよ」
「それは、敗北を認めたって事だね?」
「ちげーよ。知った風な口きいてんじゃねぇ」
「ちょっと用法がぎこちないね」
「うるせぇ!」
「まあ、憶えたての言葉は失敗を恐れず積極的に使った方がいい。それが習得する早道だ」
「ほんと黙れお前」

嘲る仕草で銃を下ろした喪部から、それでも葉佩は目を逸らさなかった。見当違いの優しさ(ではない)を見せる眼前の男に、決然たる意思を叩き付ける。

「俺は殺さねぇし、死なねぇ」
「そうかい?」
「そうだよ。俺はあいつに勝つんだから」
「殺さずに?」
「だって殺しちゃったら勝っても意味ねぇじゃん」
「・・・」

なんとも表現しがたい表情で、喪部が虚空に視線を飛ばした。逸れた視線に勢いづいて、葉佩が畳み掛けるように言葉を発する。銃を手にしたまま拳を握り、宣言するように大声で。

「そんでもって泣かす!」
「・・・へえ」
「泣いて謝ったら、許す!」
「・・・で?」
「で、ええと、終わり」
「キミは聖人だったのか」
「ん?何星人?」

葉佩が発した疑問には答えず、喪部が銃口を上げた。警告のように唇の金属が光る。緩やかに、いっそ優しげに喪部は微笑んだ。その表情は、決して葉佩を温めるものではない。葉佩がよく知る、暗く冷たい世界を見詰める目だ。其処だけが、葉佩の思う帰るべき場所だった。郷愁に似た風を感じて目を細めた葉佩に、喪部がゆっくりと照準を合わせる。

「それだけじゃないよね、キミはもっと強欲だ」
「ごーよく?」
「分からないならいいよ」
「いや、いいよって言われても」
「気付いて苦しむ前に、殺してあげようか」

 銃声が耳に届くよりも早く、葉佩は地を蹴った。走りながら、そういえば、と思い出す。喪部もこの遺跡を狙っている、いわば同業者だった事を。すっかり忘れていた。夜陰に紛れて身を潜めつつ、舌打ちと共に吐き捨てる。この暗さでは、追跡は困難だ。しかも喪部は、昼間は一般生徒を装っている。銃を所持していた事が明るみに出れば、遺跡に近付く事さえ難しくなるだろう。予想違わず、追ってくる気配は無い。
 耳と口を縫い合わされてしまったのかアパシーなのか判断しがたい羊達は、いつものように我関せずとばかりにさざめいている。そもそも銃声ごときで驚いていては、この《學園》で平穏になど暮らせない。学校って怖い所なんだなぁ、などと胸中で呟きつつ、周囲が無人である事を確認して身を起こした。時刻はまだ宵の口だ。夕餉に向かう羊達は、無関心という、時に害意よりも悪質な精神を以って与えられた平穏を謳歌している。
 耳を澄まし、念の為もう一度だけ気配を探る。その耳に、土を踏む音と話し声が届いた。慌てて物陰に入る。

「どーせまたあの暴走執行委員でしょう?」
「だからって放置していい理由にはなりません」
「言って聞くとも思えないっすけど」
「愚痴る暇があったら薬莢の匂いでも感知しなさい」
「生憎、鼻は人間並みなもんで」
「おや、他は人間未満だとでも言いたげな口ぶりですね」
「あんたその前衛的にねじくれた性格どうにかなりませんか!」
「難しい相談ですね」

近付き、横切り、遠ざかる二人の音を聞きながら、息を殺して耳を澄ます。地上では羊達に混じっている執行委員が地下でどのように変貌するか、葉佩はもう知っている。気弱なピアノ弾きが皮製の凄い服に身を包んでいた事など、誰も知らない。微睡みとカレーをこよなく愛するあの人が、あの場所でどんな表情をするのか、きっと誰も知らないのだろう。それでいい。
 誰も、彼を知らないといい。