緊張感などどこにも見当たらなかった。ただ、その場に居る二人のうち、一人の懐には銃が入っている。その事を知っていた皆守は、しかし彼が此処でその銃を抜くような真似はしないと信じていた。仮に裏切られたとしても、舌打ち一つで済む程度の信頼ではあったが。
 その男は時々この場所にやって来て、皆守の縄張り意識を刺激しないギリギリの間合いで腰を下ろした。言葉を発する事は少なく、それもまた皆守の許容を助けていた。かと思えば、歌うように進化論だか分子生物学だかにも聞こえない事はないような不思議な説を持ち出して一人で喋り続ける。皆守はこの奇妙な男を、その時には既に敵だと断じていた。深入りするつもりも無く、行動を監視するだけの関係は、皆守の怠惰な精神に如何なる影響も与えなかった。
 共通の知り合いが、話題に上りさえしなければ。

「可哀想だと思わないのかい?」
「俺の方が可哀想だ」
「まあ、それも一理あるね」
「あいつは毎日楽しそうだし」
「彼は、キミに会わなければ、きっと自分が人間だなんて気付かずに死ねただろうに」

顔を見る度に新しい表情を作ってみせるその子供は、皆守に多大なる影響を与えていた。四六時中どこからか見ている日もあれば、数日ほど姿をくらます事もある。そんな風に彼がどのように振舞っていても、皆守は結局のところ彼を気にせざるを得なかった。地上三階の窓の外から手を振られても、不法な手段でこの《學園》に滞在する彼が見付かりはしないか、と心臓が鼓動を早める。かといって姿が見えない日も、身動きが取れないほどの怪我でも負っているのでは、或いはどこぞで野垂れ死んでいるのでは、というような想像が脳裡をちらついては心臓を圧迫する。監視という職務を逸脱した感情である事は分かっていても、溢れてしまった水はもう戻らない。
 必死に生きようとする彼を、目の前のこの男は貶めているように感じた。彼が人ではないなら、何物だというのだ。

「あいつは産まれた時から人間だろう」
「違うよ。少なくとも自分を人間だとは思ってなかった」
「どうして断言できる」
「見れば分かるじゃないか」

当然のように言われて、皆守の機嫌が僅かに傾いだ。興の乗ってきた喪部が、唇を笑みのように歪める。

「求める事を知ってしまったんだ」
「欲求なんてもんは誰にでもあるだろう」
「そう、生きる為にね」
「だったら別に」
「でも、彼が生きるのにキミは必要ない」
「・・・まあ、そうなんだが」
「それなのに、彼はキミに自分を見てもらいたくてしょうがないんだ」
「ああ、そんな感じだな」
「分かっててやってるのかい?」
「何を?」

怠惰をベースに不機嫌と眠気をブレンドした表情で、皆守が喪部を見た。その喪部は、自己顕示欲をベースに疑心と侮蔑を浮かべていた。複雑な表情で暫し見詰め合い、二人同時に目を逸らす。始業の鐘には反応せず、皆守が不意に大口を開けた。肩の関節を鳴らしながら欠伸をして、緩慢な動作で床に寝転び、涙の滲んだ目を閉じる。
 一連の動作を見守っていた喪部は、目蓋を閉じて丸くなった男から数歩の距離を取った。懐の鉄に触れ、取り出しながらセーフティを解除する。照準を合わせる前に、手首に衝撃が走った。無様に武器を取り落とす事はどうにか回避したが、それは皆守が力を加減したからだろう。
 皆守の靴底が、喪部の右手に触れていた。

「昼寝の邪魔するなら出て行け」
「・・・此処はキミの部屋なのかい?」

眠たげな目で銃口を見詰める皆守に、喪部が薄く笑った。自意識過剰なこの男は、自意識を持たずにただ獣のように生きる事に憧れている。それを察し、皆守も口角を上げた。嘲りは無音のまま、真っ直ぐ彼の自尊心に届いたらしい。このような感情の伝達は、往々にして容易く行われる。伝わったところで何も生み出さず消えてゆくばかりの感情だけなら、実に容易く。












 一方その頃、頭上で一触即発の空気が立ち込めている事など知る由も無く、葉佩は音楽室を物色していた。気弱な友人に教わって少しだけ解読が可能となった記号に目を走らせ、知らない記号につまづいて書類を元の場所に戻す。これは、あの長い指と繊細な心を持った人が持つべき物だ。こんな小さな手が持っていても意味が無い。
 次に目に付いたのは、細い棒状の物体だった。それが如何なる目的で存在しているかは分からなかったが、細長い棒は何かと便利だ。手の入らない細い隙間を探るのに使える。葉佩はそれをポケットに仕舞った。
 一時期はまった黒板消し収集もそろそろ飽きてきたので、その部屋の探索はそれで終了。次の探索対象を探して壁の突起を歩き、ふと目に留まったのは焼き菓子だった。一階の部屋の窓辺で、今まさに焼き上がったとおぼしき甘い香りを発している。誘われるように、葉佩はその物体に近付いた。それが危険な物ではないと、葉佩はもう知っている。不思議な事に、ほぼ毎日こんな風に窓辺に菓子が置かれているのだ。有害な物質は含まれていなかったので、葉佩はそれを遠慮なくゲットレしている。罠のような物も発見できなかった。腑に落ちないものを感じるが、助かっているのも事実だ。甘い物は人を幸福にする。例外はあるが。
 とある女性教師が空になった皿を見て微笑んでいる事など、葉佩は知らない。

 焼き菓子を咀嚼しながら、葉佩はいつものように屋上に向かった。保健室には居なかったので屋上だと判断したのだ。そろそろ風が冷たくなってきたのに、あの男はまだ吹きさらしの場所で眠るような愚を犯す。ほんっとしょうがねぇ奴だな。今度は毛布でも持って行ってやろうかな。そしたら喜ぶかな。いや別に、喜ばせたい訳じゃないけどさ。胸中で誰にともなく言い訳しつつ、その場所に向かう。その耳に、銃声が届いた。屋上からだ。コンマ以下の速度で導き出された発信源に、葉佩の心臓が音を立てて跳ね上がった。

 走り込んだ其処には、二人の男が居た。一人はたったいま葉佩が思い描いていた男。もう一人の名前は、まだ知らない。唐突に柵の向こうから飛び込んできた葉佩を見て、微かに笑った。

「ああ、銃声が聞こえちゃったかな?」
「皆守!」
「あーうるせー」

相変わらず寝言のような口調だったが、皆守の表情は覚醒していた。視線は銃口を見詰めている。目を見開き、体を斜めに構え、敵と対峙する姿勢で銃と向き合っている。その足が血に染まっている事に気付いた時、葉佩の精神が一色に塗り潰された。












 全弾を撃ち尽くし、身を翻して地上へと飛び降りた喪部を追う事も忘れ、葉佩がシャツに縋り付いた。何事か喚き散らし、嗚咽と罵倒を同時に吐き出す。強く引かれ、皆守はそれに抵抗せず腰を下ろした。

「葉佩」
「うるせぇ喋るな!」
「いや、あのな」
「黙ってろ動くな触るなぁ!」

叫びながら皆守の体を押し倒し、血に濡れた箇所を掴んだ。
 ほとんど皆守から誘ったような威嚇射撃は、予想以上に鋭く、素早かった。咄嗟に軌道を読み損ない、一発だけ躱しきれなかったのだ。だが掠っただけのその傷は、もうすでに出血も止まっている。保健室にでも行けば消毒ぐらいはしてくれるだろうが、心配されるほどの傷ではない。そう言っても、葉佩は顔を上げなかった。震える手でシャツを掴み、もう片方の手で傷に触れようとしたが、少しだけ戸惑うように揺れて裂かれた裾の端を掴む。乾き始めていた血液が、握り締められた小さな手に移った。
 しゃくり上げる子供を宥めるのも億劫になって、皆守が全ての努力を放棄する。押し付けられる拳も、腹の辺りを濡らす涙も、傷の近くで震える手も、何もかもが面倒臭かった。息苦しそうに喘ぐ背中を所在無げに撫でながら、皆守はこの子供の感情の、あまりの激しさに辟易していた。
 可哀想だと、ただ思った。身に余るほどの激情を宿し、誰かの所為でこんな風に泣かなければならないなんて、酷い話だ。自分が傷付いた訳でもないのに、只ではない銃弾を無駄にして、非力な自分を憎んで、嘆いている。皆守になど会わなければ、葉佩はきっとそんな思いをする事も無かったのだろう。ただ自分を生かす為に生き、その意味すら知らずに死んでいただろう。野の獣のように、ただ純粋に、生きているという事実だけで満たされていたのに。

「葉佩」
「・・・うっせぇ。呼ぶな」
「まあ、運が悪かったと思って諦めろ」
「・・・なに言ってんのか分かんねぇ」
「俺も、ちょっとそう思った」

出会わなければ、こんな面倒臭い感情は知らずに済んだ。どうしたら泣きやむだろう、とか、俺の所為で泣いてるんだな、とか、そんな感情は要らない。投げ出したい。関係ないと嘯いて、微睡みと芳香と時々スパイスだけで満足したい。俺がどうにかしなければ、なんて思いたくない。こいつを救えるのは、もしかしたら俺だけかも知れない。そんなの冗談じゃない。

「泣くな」
「泣いてねぇ」
「いや、さすがにそれは無理だろ」
「あんな顔するな」
「どんな顔だって?」
「だから、あんな・・・表情ってゆーか」
「さっぱり分からん」
「俺にだってあんな顔しなかったくせに」
「どんな顔してた?」
「・・・」

どうやら怪我の心配だけで泣いているようではなさそうだ。しゃくり上げる声が小さくなり、鼻をすする音が聞こえた。ティッシュでも差し出してやりたかったが、生憎そんな気の利いた物は持ち歩いていない。仕方が無いので、皆守はシャツが犠牲になる事を甘受した。
 皆守が遠い目でお気に入りのシャツの行方を悲観している事など知る由も無く、腹に頭を押し付けたまま葉佩が探し当てた言葉を口にした。

「あんな・・・エロい顔」
「いや、ちょっと待て」
「誰彼構わず誘ってんじゃねぇよ」
「おい、待てっつってんだろ暴走小僧」
「このインラン野郎!」
「どこで憶えたそんな言葉」
「言い訳してんじゃねぇよ!せっそーなし!」
「せめて漢字で言え」
「うるせぇ!いんま!」
「いんま?」
「お前みたいな奴の事だよ!」
「さっぱり分からんが違うと思う」
「ほんっとお前ってどうしようもねぇ!」

 真に呪わしいのは、それでもこの子供に見詰められる事を心の底では望んでいる、自分自身だ。
 無心に野を駆ける美しい獣は、この手が殺してしまった。
 人ではなかった頃には、どれほど望んでも二度と戻れない。