郵便受けに入っていた封筒を取り出し、皆守は笑みを浮かべた。差出人の名前に見憶えがあったからだ。

『取手鎌治』

控えめな字体で、そう記されていた。キッチンで鍋を掻き回していた葉佩にもそれを見せる。葉佩は、皆守が浮かべたように笑みを浮かべた。共通の知り合いから届いた手紙に、喜びを隠さず表情に乗せた結果だろう。封を切り、出て来たのは短い文章がしたためられた便箋。記された内容は簡潔だった。舞台に立つから、見に来て欲しい。そんな手紙だった。

「ピアノ、だよね?」
「バスケだったら舞台とはいわないだろ」

比喩的にそのような表現をしない訳でもないが、同封されていた地図には、路地裏と思しき場所に印がついていた。指定された日時は、土曜日の19時。小さな店で、歌うたいのバックバンドとして演奏するらしい。クラシックを好んでいたように記憶していたので、抱いていた印象には相応しくない舞台のように思われた。だが、友人の晴舞台には違いない。前祝と称し、晩餐には少々張り込んで、発泡酒ではなくビールで乾杯した。ささやかな贅沢だと苦笑した皆守に、葉佩はそれでも嬉しそうに笑った。

 土曜日の夕方、皆守は着古したジャケットを羽織ってその場所に立った。葉佩も似たような格好だ。気安くはないが、正装でもない、大人の夜遊びを心得た服装だった。小さな看板に導かれて入った地下一階のその店は、狭いが手入れの行き届いた、管理者の美意識に基づいて作られたような雰囲気がある。大衆ではなく、一握りの個人の為の場所。少なくとも、学生が気安く入れるような店構えではない。奥には僅かな段差に仕切られただけの、ステージと思しきスペースがある。その更に奥に、褐色のグランドピアノが静かに佇んでいた。
 手紙に記されていた時間まで、十五分ほど残されている。カウンターに座り、皆守が黒ビールを注文した。その横でジントニックを注文した葉佩が、実は未成年なのは忘れる事にする。酔って醜態を晒すような真似はしないだろう。グラスを合わせ、口を付ける。その瞬間に、良い店だ、と皆守が確信した。冷たすぎず、甘味と苦味を最大限に引き出す最良の温度。鼻腔をくすぐる芳香が心地好い。ラークに火を点け、皆守はその時を待った。
 葉佩が、さり気無く他の客を一瞥している。ただの習慣だろう。葉佩は危険と安全という単純な二分化ではなく、危険度の高さという尺度で状況を認識している。難儀な奴だ、と胸中で呟き、皆守は提供された黒ビールの魅力が軽減しないうちにそれを口に入れる事に専念した。

 やがて出てきた女が件の歌うたいだろう。カウンターの端に座っていた妙齢の女が、満面の笑みを浮かべた。それに、はにかんだような笑みを浮かべ、歌うたいがマイクに手を掛ける。影のように現れた黒衣の男達の中に取手の姿を見付け、皆守も微笑んだ。取手も、それに気付いて笑みを浮かべた。だが、すぐにピアノに向かい、姿勢を正す。気負いは感じられない。心地好い昂揚感が、場を包む。
 流れ出したイントロは「スターダスト」。きらめく音々が、狭い空間に満ちた。一曲を歌い上げ、続けて「ルート66」、「サヴォイでストンプ」。軽快な歌声が、酔いを緩やかに引き伸ばした。耳元で葉佩が「取手、カッコイイね」と囁く。聞き慣れたものより低い声に耳朶をくすぐられ、皆守が音を立てずに笑った。

 「マック・ザ・ナイフ」を歌い終え、歌うたいが舞台を下りた。バンドマンはまだ楽器から離れない。化粧直しを兼ねた休憩だろう。取手が立ち上がり、皆守に歩み寄った。久し振りの再会に大声で喜びを表現するかと思われた葉佩は、しかし予想に反して低くひそめた声で久闊を叙した。葉佩に笑みを向けられ、戸惑ったように取手が皆守を見る。無理もない。取手が知る葉佩は、頭部が腰ぐらいの高さにあった。皆守が目を逸らしたまま、呟くように言った。

「葉佩だ」
「は?」
「取手、俺のこと忘れちゃった?」
「葉佩君?」
「うん、久し振り」
「・・・葉佩君?」
「うん、葉佩」
「・・・本当に?」
「うん、本当に葉佩」

取手の顔が、喜びとも悲しみとも取れる形に歪んだ。葉佩がその肩を抱き、パシっと音を立てて手の平を打ち付ける。背を叩かれた取手は、呆然と目を見開いていた。如何なる労力も必要とせずに目線を合わせ、葉佩が微笑みの形に唇を上げる。

「あ、あの、葉佩君」
「うん、取手、かっこよかったぜ」

囁くような音量で話す葉佩に、皆守がふと眉根を寄せた。普段から、葉佩は大音量で喋る。感情に任せて、大きな動作で、皆守に全身で語りかける。思い返せば、出会った時からそうだった。しかし今、葉佩は低い声音で、まるで大人のように取手と会話を交わしている。片手には、既にジン・ストレートが満たされたグラスを持っている。おい未成年、と思わないでもなかったが、それ以前に皆守は、その態度に驚いた。口の端だけで笑う、その表情。喉の奥で発する、低い笑い声。軽く肩を竦めて見せる、その仕草。皆守が知る葉佩からは、想像も出来ない所作だった。
 表情を抑えた横顔が、見知らぬ男のように見える。年齢を考えれば、葉佩は早熟といっていいだろう。彼がもう既に男である事を、皆守が漸く悟った。立ち上がったその姿は、皆守よりも大きい。空港で見た時、なんて冷たい目だろう、と思った。その硬い手の平に、頬を撫でられた感触を思い出す。力強い腕で、胸に引き寄せられた痛みを思い出す。いつの間に、彼はこんなにも男になったのだろう。
 そして取手の言葉に、更なる衝撃を受けた。

「変わってないね、葉佩君は」

思わず、友人の顔を凝視してしまった。だが思い返してみれば、葉佩が他の誰かと話している姿を、皆守は見た憶えがなかった。自らが破った《執行委員》達とも接触している事は知っていた。だが、そこでどのような会話が為されたのかなど、皆守に知る由も無い。真っ直ぐに自分だけを見詰める瞳が、即ち皆守の思う葉佩だった。狂ったように冷徹な目を確かに見た筈なのに、それは彼の本質ではないと、無意識のうちに思い込んでいた。少々邪気の多い、よく泣き、よく笑う子供。違うのか。
 葉佩は、ずっと前から大人だったのではないか。初めて皆守を見上げたその時から、ずっと。

 取手が、再びピアノに戻った。流れたのは、「バードランドの子守唄」。前半とはうって変わった緩やかな曲調の旋律を、切なく震えるサクソフォンが彩る。少し掠れた女の声が、不思議な韻律を空間に染み込ませる。
 隣でグラスを傾ける葉佩を、そっと窺う。盗み見たつもりが、葉佩も皆守を見ていた。柔らかく、蕩けるように顔中で笑う。見慣れていると思っていた。葉佩はいつだって、体中で感情を表現した。嬉しい、楽しい、悲しい、悔しい、全て、煩いほどに全身で伝えてきた。そう思っていた。
 葉佩が笑ったまま、悲しげに表情を曇らせた。そんな顔は知らない。葉佩が意図的に秘めていたのか、それとも、皆守が気付かなかっただけなのか。葉佩が、まるで愛するが故の哀しみのような表情を浮かべた。だが、すぐに表情を隠してグラスを呷った。喉が、流し込まれた液体を通す為に上下する。呆然とそれを見詰めながら、皆守は自身の中で急速に浮かび上がった、一つの疑念を見詰めていた。
 葉佩は、ずっと前からそんな目で皆守を見ていたのではないか。
 哀しみを押し隠して、ずっと、今まで。

 子供だったのは、俺の方なのか。
 呟いた独り言に、葉佩が哀しそうに、嬉しそうに、目を細めた。