円空の提案に、蓬莱寺は心の奥で笑みを浮かべた。
緋勇に刃を向ける機会は、既に遠くなってしまった。今現在、緋勇は蓬莱寺と肩を並べる龍閃組の一員だ。身内に向ける刃は持ち合わせていない。出会った初めならば為し得たかも知れぬその一瞬を思い、蓬莱寺は臓腑が沸騰するような錯覚を感じた。
共に戦う事も、本意ではあった。その比類無き拳と己の刃が、同じものに向かっていると考えるだけで誇らしかった。緋勇と同じ道を踏む事が、蓬莱寺の心を強く在らしめた。それもまた事実だ。だが、同時に蓬莱寺は剣道者だった。猛者と仕合い、己の剣の鋭さを確かめ、高みへの道を一人で歩き続ける覚悟を終えていた。旅人が地図を広げるように、蓬莱寺は己の強さを確かめる。頂までは、あとどれほど歩けば辿り着けるのか、と。
半ば諦めかけていたその一瞬が、老翁の一言で実現された。沸き立つ蓬莱寺の心を察して、醍醐が苦い顔で近付いて来る。
「おい蓬莱寺、物騒な顔になってるぞ」
「あ?んなことねぇよ」
「それで隠してるつもりか・・・」
溜息混じりに吐かれた言葉も、蓬莱寺の冷静さを取り戻してはくれなかった。しかし、蓬莱寺には見えていなかったが、他の面々も似たような表情をしている。風祭など、満面の笑みを浮かべながら関節を伸ばしている。唯一戸惑っているように見えるのは九角なのだが、それでも瞳に陰りは無い。彼もまた剣道者だった。
開始の合図と同時に、蓬莱寺が地を蹴った。それに負けじと風祭が吠え、桜井が矢を番える。連携など有り得なかった。誰もが緋勇を見詰めている。
緋勇の後に控えていた美里が驚き、次いで呆れたように眉尻を下げた。幼子のはしゃぐ様を見るような目は、奥底の決意を垣間見せる。意思の強さでは誰にも負けないと、彼女はそう決めている。
予想違わず、蓬莱寺の刃が真っ先に緋勇に届く。その切っ先を流し、重心を移動させた緋勇に桜井の放った矢が襲い掛かる。手甲でそれを弾き、その勢いで風祭に回し蹴りを突き刺す。咄嗟に腕でそれを受けた風祭が、威力を殺せず後ろに跳ぶ。少し離れた場所で醍醐が印を結び、九桐がそれに呪を乗せる。気付いた美里が鋭い気合いと共に浄化の氣を放ち、発生した力を相殺した。緋勇の視線が謝意を含んで美里に届く。強い笑みで美里が頷く。言葉は必要なかった。
冷めた目で一点を見ていた九角が動いた。柄に手を置いたまま走り込み、蓬莱寺の脇をすり抜けて緋勇に辿り着く。
「緋勇!勝負!」
鯉口を切る寸前に、大きく激しく声を張った。直後に放った刃は、既に体勢を整えていた緋勇にあっけなく躱された。思わず桔梗が叫ぶ。
「言ってる暇があったら斬ってください天戒様!」
「しかしっ・・・」
「名乗りとか上げなくっていいですから!」
「いや、名乗りは上げていないぞ!」
微笑ましい掛け合いを横目に、九桐が槍を突く。受身を取り地に転がった緋勇を、醍醐が低く払う。捻った体を炎の矢が掠める。龍の刺繍が僅かに焦げ、煙を出した。しかし皮膚には到達していない。回転の力を殺す事無く利用し、緋勇が高く跳んだ。目標を見失った桜井が手を止める。風祭が迷わず地を蹴り、緋勇を追う。
体が宙に浮いた瞬間、風祭は自分の失策を悟った。緋勇の跳躍は重力を凌駕し、まるで着地のような音を立てて太い枝を撓らせた。同時にバネのように膝が曲げられる。落下のエネルギーと緋勇の脚力が、風祭の腹に激突した。辛うじて無様に墜落する事だけは避けられたが、寸分の狂いも無く打たれた水月から嘔吐感がせり上がる。衝撃を逃がす為に転がりつつ、溢れた胃液で襟と大地を濡らした。充分無様だ。屈辱が行き場を失い大地を叩く。
「くっそぉ・・・」
地に伏したまま歯を食い縛る風祭に桔梗が駆け寄り、骨に異常が無い事を確認する。涙を流して地に拳を打ち付ける風祭の手を、そっと包む。緋勇にとってはじゃれ合いなのだろうが、風祭はいつだって本気だった。滑稽なほど、真っ直ぐに上を見ていた。それを知らぬ緋勇ではあるまい。
「先ずは、一人」
穏やかに、縁側で茶をすするのと同じ表情で、緋勇が言った。ぞわり、と、その場の全員が背を震わせた。凍傷と火傷を同時に負ったような痛みに、精神が戦く。しかし龍にとっても鬼にとっても、痛みは恐怖ではない。震えは奮えとなる。
桜井が弓を引き絞った。その矢先に炎が点される。放たれると同時に、蓬莱寺が吠えた。九桐が槍で空を突いた。九角が深く腰を沈めた。桔梗が弦を弾いた。醍醐が地を蹴った。
醍醐の拳が、技巧も忘れて真っ直ぐに緋勇に向かう。上半身だけを仰け反らせ、緋勇がそれを躱す。躱した勢いで後手に大地を掴み、流れる力に従い足を大きく振り上げる。爪先が醍醐の顎に突き刺さった。自分の体重と渾身の力が、醍醐の脳を揺さ振り尽くす。思考すら間に合わず、醍醐が落ちる。無防備な後頭部が大地とぶつかり、鈍い音を響かせた。
「・・・容赦ないねぇ・・・」
浮かべた笑みに、亀裂のように一筋の汗が流れ落ちる。桔梗の、遠い日に捨てたはずの野性が昂ぶる。桜井の手が、馴染んだ感触を確かめる為に弓を握り直す。
敗北を、知らぬ訳ではない。苦痛も屈辱も、乗り越えてこの場所に立っている。その誇りを、緋勇は全力で受け止めようとしている。全てを背負って、行こうとしている。
「俺は、手加減なんか出来る人間じゃない」
知ってるだろう?と、緋勇が笑った。それが自嘲である事など、蓬莱寺は既に知っていた。恐らく、皆知っているのだろう。
九角が鞘に収めた刀を強く握る。高潔な精神は、嘲笑を侮蔑と見る。一途に想う事の強さを、九角は緋勇と出会って初めて知った。誰であろうと、その清き心を嘲笑うのは許せない。例えそれが、緋勇本人であろうとも。
刃が鞘を滑り涼やかな音を立てた。音が鳴り終わった時には、緋勇が視界から消えていた。下から上に薙いだ刀には、空を切った手応えしかない。地面に接するほど低く這うように走り込んだ九角の、更に下から緋勇の踵が突き出した。居合いの使い手が、刃を納める暇も無く膝裏を掬われる。仰向けに寝転ぶように、緋勇は両手と左足で大地を掴んでいた。咄嗟に体勢を立て直そうと踏ん張った膝を、内側から引かれる。揺らいで前傾した上体を、緋勇の右足が捉えた。
顔面に屈辱の一発を食らった鬼道衆の頭が、仰け反って吹っ飛んだ。まさに瞬きの間の出来事だった。類稀な視力を誇る桜井ですら、辛うじて目で追うの精一杯だった。彼の立つ場所は、遥かに遠い。過ぎった思いを振り切り、桜井は矢を放った。
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