射手である桜井は、敵と対峙する機会が少ない。身を潜め、狙い撃つのが彼女の手段だった。それを卑怯だとは思わない。風と重力を感じ、狙いを定め放つ。それだけを自分の能力と信じ、磨いた。どれだけ強風に晒されようと、どれだけ素早い動きだろうと、捉えて放ち、射止める。剣道とは異なる道を、桜井は歩んで来た。対峙するべき最大の敵は、己自身だ。
直情にして心優しい彼女は、揺らぐ心さえも肯定する。揺らがぬものなど無い。全ては炎のように揺らめき、形を変え続ける。桜井の矢は、その核心を貫く。悲しみも怒りも迷いも、彼女は真っ直ぐに受け止める。弓道こそが最も自分に相応しい道だと、桜井は確信していた。
炎を宿した矢が、桜井の心と同じく真っ直ぐに緋勇に向かう。緋勇はそれを避けなかった。矢が目指す眉間に拳を翳し、鏃が接触した瞬間に甲で弾く。僅かに歪んだ鏃が米神を掠り、軌道を変えられた矢が背後の幹に突き刺さる。外した。だが怯まず、桜井は再び矢を番える。しかし桜井が構えを整える前に、緋勇は間合いに走り込み拳を放っていた。寸分違わず天倒を打たれる。その衝撃が予想よりも小さなものだった事が、桜井の矜持を挫いた。手加減された。敗北した事よりも、その事実が悔しかった。
美里は気絶した桜井に駆け寄ろうとして、寸前でその足を止めた。桜井は自分の意思で闘い、敗れた。生命に危険は無い事だけを確認し、横たわる体に最大限の敬意を払った。戦士の矜持など理解出来ないが、今彼女に駆け寄る事は、彼女の心を傷付ける。それぐらいは分かる。桜井は、美里よりも緋勇に近い場所に居る。それが悲しいと思う自分の心が、酷く浅ましく感じられた。
沈もうとした精神を叱咤し、美里は顔を上げた。緋勇は戦っている。それならば、自分にも出来る事がある。それを幸いと言わずして、何を幸いと呼ぶのか。
残るは桔梗と九桐、蓬莱寺だったが、桔梗が戦う理由はただ一つ、九角天戒だ。その九角が屈した相手に、鬼道衆の桔梗が立ち向かう理由は無い。彼女が欲するのは勝利ではなかった。
桔梗の攻撃力は、呪の力だ。相手を呪い、恨みと憎しみを発する事で敵を傷付ける。緋勇に勝てる道理は無かった。倒れた者達に氣を送り、回復を助ける事に専念する。桔梗は武士ではない。強者と仕合い、昂ぶる心は持ち合わせていない。
蓬莱寺と九桐が、同時に踏み出した。
緋勇の瞳は、清らかなものだけで出来ている訳ではない。濁った怨嗟と絶望が、彼の瞳の瞳を深くしている。その事を、九桐は知っていた。だからこそ、鬼哭村にも受け入れられたのだろう。汚れた血を浴びて、醜い慟哭を上げて、恥辱の底から這い上がった。美しくはない。だからこそ、緋勇は強いのだと。
九桐が先に仕掛けた。正面から突き、それに反応した緋勇の視線を察知して一瞬引く。軌道を変え、息吐く暇さえ与えず連続して刃を繰り出す。凄まじい連撃に、緋勇の目が大きく見開かれる。反応し切れなかった斬撃が、緋勇の皮膚に浅く傷を付ける。九桐の槍は懐が深い。間合いを取れずに、緋勇は防戦を強いられている。蓬莱寺が走り込んだ。
九桐の突きを躱して踏み入れた地に、蓬莱寺の刃が閃いた。手甲でそれを弾き、同時に向けられた槍の切っ先を左腕で受ける。激しく血飛沫が散った。美里が緋勇の名を呼ぶ。動き続ける緋勇には氣を送る事も出来ない。感じた無力感を、意志の力で捻じ伏せる。信じていると、強く思う。それが美里の手段だった。
飛び散った血液が九桐の眼前で舞う。それを切り裂き、突く。血の匂いには慣れている。懐かしさすら覚える。九桐は、己の行く道を修羅道と決めていた。優しいあの人が行く道を、せめて、孤独にはさせない。その為の刃だ。確かめるまでもなく、それは純然と九桐の精神の基礎として存在していた。
蓬莱寺が一直線にその刃を振り下ろす。緋勇が大地を転がり、その遠心力で体を立て直す。緋勇の動作には継ぎ目が無い。流れるように、全てが繋がっている。攻防一体とは良く言ったものだ。しかし、九桐にも百戦を生き抜いて来た自負がある。流れを読むのは、既に息をするのと同じ事だ。流麗な体捌きの隙を探す。滞りを見出せば、勝機はある。
目を凝らす九桐の間近で咆哮が上がった。蓬莱寺が、一直線に刃を振り下ろす。
「蓬莱寺!邪魔だ!」
「そりゃお前ぇだろ!」
九桐の気が、一瞬逸れた。その隙を見逃す緋勇ではない。僅かに揺らいだ刃の根元に、緋勇が手刀を打ち込む。九桐が自分の未熟を呪った時には、愛槍はその刃を失っていた。憎悪すら含んで、隣で吠える野獣を睨み付ける。蓬莱寺の視線は、一瞬たりとも緋勇を離れなかった。追撃が来る前に、九桐は後退した。
久しく覚える事の無かった感情が、九桐の内を吹き荒ぶ。幼い頃に、何度も噛み締めた思いだった。自分の愚かさに悔し涙を流した、遠い記憶が過ぎる。九桐を見向きもせずに、二人は激しく打ち合っている。桔梗が近付き、無事を喜ぶ言葉を投げる。
「いやあ強いな、緋勇は」
そんな事は知っている、と言って桔梗が笑った。
「ばかだねぇ」
「全くだ」
雨のように降り注ぐ刃の隙間を、緋勇の拳が切り裂く。疾風のような音を立てる腕を寸での所で躱し、蓬莱寺が腕を上げた。空いた脇腹を爪先が掠める。伸びた脹脛に刃が振り下ろされる。伸び切ったと思った足が、更に伸びた。片足だけで全体重を弾き、緋勇が跳んだ。しかし不安定な体勢から繰り出された蹴りは、決定的な攻撃力を有していなかった。打たれた蓬莱寺が圧迫された内臓に噎せ、揺らごうとする膝に力を入れる。引こうとした緋勇の足を左腕で引き寄せる。固定した緋勇の体に、疾うに毀れた刃を振り下ろした。瞬間、左腕に抱き込んだ重量が増した。抱えられた足を軸に緋勇が身を捻り、回転する。咄嗟に腕を離し、崩れた体勢を立て直そうと後ろに跳ぶ。首を掠めた緋勇の爪先が、血の糸を引いた。
蓬莱寺は笑っていた。徒手であるにも関わらず、緋勇の攻撃は裂傷すら与える。鎖骨を己の血が伝う。その感触に性感すら覚えて、蓬莱寺が笑う。それを見た緋勇が、悲しそうに笑った。
「緋勇、楽しくねぇのか?」
「・・・お前は、楽しいのか?」
「応よ」
蓬莱寺の問いに答えは返らなかった。それでも良い。理解などする必要はない。緋勇は今、蓬莱寺だけを見ている。蓬莱寺もまた、緋勇だけを見ている。研ぎ澄まされた精神が、その全てを以って体を動かしている。思考では有り得ない反応速度が、見た事も無い景色を広げる。
空いた間合いを一息に詰め、蓬莱寺が獣の速さで走り込む。毀れた刃を閃かせ、ただ一心に緋勇に向かう。緋勇は動かない。だが緩く構えたその体の何処にも、隙は見えなかった。構わず、力任せに横に薙ぐ。案の定躱されたが、緋勇が得意とするカウンターは来なかった。低く体勢を整え、緋勇が少しの距離を後退した。肩で荒く息をしている。服は破れ、所々焦げている。露出している皮膚も、血と泥に塗れていた。いつも浮かべられている微笑のような表情も、今は消えている。瞬きすらせずに、獣のような息遣いで蓬莱寺を見ている。
心の奥で待ち焦がれた瞬間が、眼前に在った。蓬莱寺が堪らず咆哮する。喜びの声だった。猛る心が溢れ出し、空気を激しく震わせる。勝利の糸口など見えなかった。それでも良い、と、既に正気を失った精神が叫ぶ。永遠すら望んで、蓬莱寺が刃を振るう。
蓬莱寺の瞳を見詰めたまま、場に不似合いな穏やかさで緋勇が微笑んだ。血と汗が伝う頬が、無邪気に柔らかく歪む。
「困った奴だな」
嬉しそうに、呟いた。
剣戟に混じって蓬莱寺の耳に触れた音が、少し送れて言葉になる。
伝わった。と、そう思った。想いが、願いが、満たされぬ心が、緋勇に届いた。
気付いた時には、蓬莱寺の体は地に臥していた。長閑な青空が見える。その空を遮り、汚れた手が差し伸べられた。次いで、緋勇の顔も視界に入る。いつもの表情だった。落ちてたのか、と、不思議と静かに思う。愛刀の柄が未だ手の中にある事に安堵し、左手で汚れた手を取る。ぐい、と強く引かれ、その力に助けられて身を起こす。同時に、腹が立つほど楽しそうな声が聞こえた。
「ざまぁねぇな!蓬莱寺!」
「大口叩いてたくせに、締まらないねぇ」
「全く、詰めが甘いとしか言いようがないな」
好き放題に野次を入れるのは、鬼道衆の面々だ。九角は未だに渋面を作っている。顔面を足蹴にされた経験など、人生で初めてなのだろう。その隣で、桜井が笑っていた。屈辱ではない敗北感が、彼女を更に高みへと導くのだろう。
「緋勇クン、次は負けないからね!」
朗らかに宣言し、緋勇がその言葉に満面の笑みを浮かべる。それを見て、九角もやっと表情を和らげた。元来愚直なまでに真っ直ぐな男だ。桜井に続けて、己の未熟さと再戦の希望を重々しく告げる。龍閃組にしてみれば、鬼の正体見たり、だ。何故か嬉しそうに、美里が相好を崩した。
何やら大団円を迎えつつある一同に、蓬莱寺が心底からの溜息を吐き出した。微笑ましい団欒も、彼にとっては一夜の宿に過ぎない。疲れを癒し、旅立つまでの仮宿だ。愛しいとは思うが、終の棲家ではない。
敗因を、蓬莱寺は凪いだ心で思い返す。一瞬の攻防の狭間に、何が入り込んだのか。思考には慣れていないが、その答えは重要だ。数秒の黙考の後、一つの回答を導き出した。
伝わった。と、そう思った。願いが、想いが、満たされぬ心が、緋勇に届いた。
その瞬間、蓬莱寺は満たされた。狂気と紙一重の闘争心が吹き飛んだ。進む意味を失った。目指していた頂ではないその場所で、立ち止まる事を考えた。
此の時が、永遠に続けば良いと。
嗚呼、と、蓬莱寺は声に出さずに嘆いた。
抱き続け、それを己と信じていた刃が折れた瞬間だった。
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