神鳳と双樹が事務所に戻ったのは翌朝だった。葉佩の回収を命じられた部下達は、未だ戻っていない。彼らを帰還させ、神鳳は部下達を事務所に招集した。

 集まった部下達に、神鳳は吉備の内部抗争を鎮めた事を語り、瀬戸内を跋扈する残党を一掃する必要があると告げた。長老達が瀬戸内海を取り戻そうとする可能性を考慮に入れ、それに対する防御策をいくつか提案する。その横には、双樹が無表情に佇んでいた。
 一通りの状況説明を終え、神鳳が一同を睥睨した。危うくその視線に呑まれそうになった夷澤が、意識して眼光を鋭くする。それに気付いた神鳳は、促す意で顎を上げた。
「何であんたが仕切ってんすか?」
神鳳は、無言で手の中の金属を放った。受け止める事もせずに、一同がそれを目で追う。音を立てて床に転がったのは、悪趣味な光を放つアクセサリーだった。喪部のピアスだ、と、誰かが囁く。
「仕切る者がいなければ、貴方達は烏合の衆です」
含まれた侮蔑に、一同が色めき立った。それを一瞥しただけで黙殺し、神鳳が続けた。
「近く、大和に攻め込む。
 瀬戸内海で筑紫と合流する予定です。
 だからその前に、残党狩りを済ませる必要があります」
反応の無い部下達を気にも留めず、神鳳は朗々と声を発する。
「従えないという者は、直ちにこの場を去りなさい」
神鳳の言葉が終わると同時に、夷澤が拳をテーブルに叩き付けた。轟音に紛れて、ひびが入ったような音も聞こえた。神鳳がそれに、物に当たるのはやめなさい、とだけ言って目を伏せる。その横顔に向けて、夷澤が真っ直ぐに拳を放った。技巧も無く、ただ突き進むだけの攻撃だ。しかしそれは全身のバネをフルに使った、夷澤の最強の攻撃手段だった。最短距離を、ただ一直線に進む。だがその拳は、誰にも届かず解かれて床に落ちた。床を引っ掻く自分の手が視界に入り、夷澤が混乱する。上げようとした顔を硬い何かに押さえ付けられて、漸く自分が伏している事に気付いた。
 夷澤の頭部を押さえていたのは、神鳳の靴底だった。
 踏み出す力を殺す事なく、それをそのまま投げる力に流用する。神鳳にとっては、呼吸と同じぐらい自然な動作だった。特に夷澤のような真っ直ぐな力は、読もうとするまでもなく軌道が見える。腕を立てて上体を支えようとする夷澤を、革靴の爪先で蹴り飛ばした。肩を押し、仰向けにさせる。驚愕と屈辱に見開かれた目は、神鳳を懐かしい気持ちにさせた。
 かつては、神鳳も信じていた。折れる事の無い信念や、不屈の情熱を。この少年は、まだそれを信じている。折られて、捻れて、醜く歪んだ我が身を見下ろす。立ち上がった夷澤が、氷のような瞳で神鳳を睨んだ。その瞳が光っているのは、悔し涙を湛えているからだろう。それを視界に入れる事なく、神鳳は立ち竦む部下達に向き直った。
「この戦争を放棄する事は、阿門様を裏切る事と同義だと思え」

 友人の死を嘆く事すら許さなかった、酷薄な男を思う。
 彼が命を賭けて守ろうとした場所を見詰める。
 弔いなど、必要ない。







 白い部屋で、皆守は目を開けたままベッドに横たわっていた。ドアを開けた夷澤に気付き、視線を動かす。夷澤の手に提げられた袋を見て少しだけ身を乗り出し、それが発する匂いに気付いて静かに落胆した。
「カレー弁当売り切れっした」
「マジか・・・」
「っつー訳で、唐揚げ弁当っす」
「・・・」
「まあいいっすよね。どっちも最初の文字『か』だし」
「だから何だよ」
皆守が気だるげに毛布を頭まで引き上げ、夷澤に背を向ける。不規則にうごめく白い塊を見ながら、夷澤が買ってきた弁当を取り出して箸を割った。「いただきます」も言わずに、握り箸を唐揚げに突き刺す。
「・・・お前が食べるのか」
「どうせあんたは食わないんでしょ」
咀嚼しながらの言葉は不明瞭だったが、不思議と聞き取りづらくはない。暫く黙々と箸を進めていたが、皆守の視線に気付いて手を止めた。
「欲しいんすか?」
「要らない」
「一口あげましょーか」
箸先に突き刺した最後の一つを、皆守に差し出してみる。皆守は何も言わずに毛布に潜り込んだ。病院の食事があまり美味ではない事を、夷澤は知っていた。それでなくとも偏食気味の皆守は、頻繁に差し入れを所望する。気持ちが分からないでもない夷澤は、その希望を律儀に叶えた。病気ならば食欲も落ちようが、怪我での入院ほど欲求不満に陥るものはない。
「俺ん時は、抜く場所探しに燃えましたね」
「・・・」
「トイレって意外と人の出入り激しいんすよ」
「・・・」
「あ、今度は本でも差し入れましょーか?」
「本なら神鳳が持ってきた」
「え、マジっすか!何系っすか?どんなの?」
ベッドサイドの机に積まれていたハードカバーの分厚い本を指差すと、夷澤は瞬時に口を噤んだ。ちらりと表紙に視線を走らせ、やはり無言で目を逸らす。タイトルが読めなかったらしい。
「・・・読んだんすか?」
「寝る前に、三行ぐらい」
「ふうん」
「よく眠れた」
「あんたによく眠れない日とかあるんすか?」
「昼間に寝すぎた日とか」
「寝すぎって・・・いつもじゃ・・・」
ふと皆守を見ると、もう寝息を立てていた。「はやっ!」と口中で囁きつつ、出ていた肩を毛布で覆う。







 神鳳が、見舞いと見せかけて嘲笑いに来たのは五時間前だ。神鳳は自ら湯を沸かして茶を淹れた。湯飲みの一つを皆守に渡し、腰を下ろす。皆守は、神鳳が部屋に入ってから一言も口を利いていない。しかし、神鳳はそれが意味のある沈黙ではないと知っていた。ただ話題がなかっただけだろう。知己などとは言えないが、それでも長い付き合いだ。互いを恐れる理由はない。弱味も恥部も、相手の手の中にある。得難い関係である事は認めるが、それが自分にとって有益かどうかは分からない。ただ、半身のように存在していた。失えば、二度と取り戻せない。
 自分で淹れた煎茶を一口すすり、茶が冷めるのを待っている皆守から視線を逸らした。神鳳は、自分の湯飲みの中身をその顔面にぶちまけたい衝動と戦っている。どうにか無意味な衝動を遣り過ごし、まだ湯飲みに口を付けない皆守に、努めて無表情に言葉を落とす。
「葉佩は、まだ生きてます」
それだけ言って、神鳳は沈黙した。その情報の意味を問う皆守に、あからさまな侮蔑の表情で答える。
「聞きましたよ。随分と御執心だったそうですね」
「そうか?」
「死にたいのなら、ご自由にどうぞ。
 ・・・僕は、許しませんが」
「お前に許してもらおうとは思わない」
「でしょうね」
またしても神鳳に込み上げた衝動は、先程よりも強く、暴力的だった。殺意にも似ている。皆守は、きっとその感情を否定しないだろう。微笑すら浮かべるかも知れない。神鳳は気まずそうに視線を巡らせた。皆守と会話していると、妙な気分になってくる。彼は笑っていても怒っていても、基本的に本気ではない。最奥に大切にしまわれた箱を守る為に、全ての外的刺激を排除している。そして、その箱の中にしか彼の心は存在しない。どうやっても、届かないのだ。それが気に入らない。軽視されているような気分になる。お前なんか、どうでもいい。そう突き付けられているような気持ちになる。そんな目には、幼い頃から慣れている筈なのに。
 本当は死を望まれていたとしても、それを拒絶する方法を、皆守は知らない。望んでいる訳ではない。ただ、拒絶する理由がないだけだ。理由に成り得た男は、もういない。

「僕は、優しくありませんよ」
「・・・そうでもない」
「はい?」
「お前は優しいだろ」
「・・・熱でもあるんですか?」
真顔で返ってきた言葉に、皆守は思わず笑った。優しいという言葉は、神鳳にとっては褒め言葉らしい。含まれた悪意に、本当に気付いていないのだろうか。
 神鳳の心境などに興味もない皆守が、唐突に思い出した。
「あいつ、猫拾ってきた事あったな」
「貴方もその中の一匹ですよ」
「・・・そうか?」
「喜ぶな。褒めてない」
神鳳の口調が崩れた。取り澄ました普段の口調よりも、その方が本心に近い、と皆守は思っている。空になった湯飲みをベッドサイドのテーブルに置き、神鳳が立ち上がった。皆守が、漸く湯飲みに口を付ける。少しだけ唇を付け、すぐに離した。まだ熱すぎるらしい。本当にぶっかけてやろうか。神鳳が、声には出さずに呟く。熱湯でも冷水でもいいから、この眠そうな男の目を見開かせてやりたい。
 神鳳は、持っていた分厚い本を皆守の脳天に振り下ろした。予想どおり、その攻撃はあっさりと受け止められる。皆守が、手にした本の表紙を一瞥し、すぐに置いた。分かっていたが、興味は無いのだろう。
「どうせ日がな一日ベッドでだらけてるんでしょう。本でも読んで、少しは教養をつけなさい」
「それは俺の役目じゃない」
「ほう、君に『役目』などという語彙があったとは、驚きです」
「心配するな。少し寝たら、すぐに行く」
「僕は、君を死地になど遣りませんよ」
それには応えず、皆守が目を閉じた。眠るから出て行け、という事か。どうしようもない感情を持て余し、神鳳が一瞬だけ表情を歪める。皆守が目を閉じたまま呟いた。
「葉佩とは、俺がやる」
「葉佩は暗殺者です。前線には出てきませんよ」
「引きずり出すさ」
「どうやって?」
「任せる」
「ふざけるな、ぶっかけるぞ」
「何を?」
皆守が目を開いた。毛布と戯れつつ、顔だけを神鳳に向ける。だがその時には、神鳳はドアに向かっていた。そのまま無言で去って行く背中を、皆守はぼんやりと見詰めていた。
 皆守には、引き止める理由も、手を伸ばす理由も無い。彼がいないのなら、手を伸ばす理由は無い。手を取ってくれたのは、世界でただ一人だけだった。あんな思いをするぐらいなら、一人で落ちる方が良い。
 目を閉じる。現実が遠退く。幻が近付く。汚れた暗殺者の姿が浮かび、皆守は夢の中でもう一度目を閉じた。
 仮初の安息が破られたのは、その五時間後だった。







 安らかな寝息を立てる皆守をぼんやりと見詰めながら、夷澤は明日の我が身を思って天を仰いだ。
 吉備は最早、大和の手足と成り果てた。吉備の長老達が片っ端から暗殺されたという情報は、まだ皆守には伝えていない。漸く重い腰を上げた筑紫の脅威に、大和は撤退を決めたようだ。吉備の海軍は、その壁に使われている。喪部を失った若衆は、長老に靡く者と出雲に組する者とで対立していた。大和の支配欲に屈するのも時間の問題だろう。
 強大な力を有した北九州が参戦した時点で、戦局はほぼ決定した。大和は既に退却を決めている。だが山に囲まれた盆地に逃げ込まれれば、追撃は困難だ。そして豊富な資源を有する大和に時間を与えれば、間違いなく今よりも大きくなって再戦を望むだろう。
 目覚めれば往かねばならぬ身を思い、夷澤は眠る人を見詰めた。

 戻る道など無いというなら、せめて、共に。
 浮かんだ言葉の果かなさに、かつては無敗だった拳を握り締めた。