吉備に入るのは容易かった。同盟を組んだ相手だからだろうか。ボディチェックすら無く、双樹は喪部の前に通された。静かな表情で現れた双樹に、喪部が少しだけ顎を上げる。疑問を表したかったらしい。察したが、双樹はそれを無視した。
「覚悟は済ませたのかしら?」
「・・・何の事だい?」
「裏切り者には死を。
 知らないなんて言わせないわよ」
「ああ、成る程」
瞬時に状況を理解し、喪部は薄く笑った。葉佩は大和に従っている。神鳳の読みが外れていた事を察し、思わず愉快な気分になった。実際のところ、予想していた事態だ。
 大和は、但馬との繋がり程度では安心できないようだ。
 吉備が出雲と組んでは、落とすのに手間取る。そう考えたのだろう。長老達は既に大和に懐柔されている。内部抗争を煽り、それに乗じて吉備を乗っ取る。その為に、吉備と出雲の間に決定的な亀裂を作った。その道具として使われたのが、葉佩だ。薄々とは気付いていたが、これほど性急に事を進めるとは予想外だった。
 喪部としても、出雲を手中に収める為には、阿門の殺害は避けて通れない。阿門がいる限り、出雲は屈しない。大和が阿門を殺してくれるのならば、敢えて止める理由も無い。葉佩を放置していたのは、そんな計算が為されていたからだ。
 そして喪部は気付いてしまった。友人という言葉を繰り返す葉佩に、信頼されているという幻覚を見ていた事に。戯れに銃器を向けてみても、葉佩は恐れなかった。それが信頼だと錯覚して、挙句がこれだ。狂人の妄言に幻惑されて、喪部は今窮地に立っている。知っていた筈なのに、まるで裏切られたような気がするなんて。胸糞悪くなるような笑顔を思い出す。憐れだと思ったのは、それが鏡に見えたからかも知れない。疾うに失われたものに、それでも必死に縋り付こうとする姿が滑稽だった。見ていられないほどに。
 あの男は、こんな時まで人を煩わせる。
 自分と、自分によく似た男を嘲る為に、喪部は口角を上げた。

 目の前に立つ美女を思い出し、喪部はその表情のまま双樹に向き直った。
「敵討ちにしても、女性を一人で送り込むなんて、出雲は随分と人手不足みたいだね」
揶揄を含んだ言葉にも、双樹は応えなかった。喪部が懐の銃を抜いて照準を合わせるのを、双樹は無表情に見ている。ふと、喪部が表情を変えた。
「変わった香水を付けてるんだね」
「・・・気付いたの?思ってたよりは鈍くないのね」
双樹が纏っていた香は、並みの人間では感知できないほど微弱な匂いしか発していない。幻覚を見せる香だ。密閉された空間でしか効果を発揮しない上に、時間が必要なこの手段を選んだのは、神鳳だった。
 双樹の手が汚れるのを、阿門は望んでいなかった。それでも彼女を傍に置いたのは、阿門が自分の気質を過たず理解していたからだろう。阿門は、守るものがなければ戦えない。それは弱さだ。神鳳はずっとそう思っていた。自分もまた守られていたのだと気付いたのは、ほんの数時間前だ。

 阿門は、ドアを背に倒れていた。

 喪部が放った銃弾が、誰の命も奪う事なく夜空に消えた。窓ガラスが粉々に砕け散る。清浄な夜気が、香で満たされた空間に流れ込む。喪部が大きく息を吸った。冴えた月がその顔を照らす。喪部は、もう笑っていない。双樹がそっと目を閉じて、風を切る音に耳を澄ました。
 死の覚悟など、生き続ける覚悟に比べれば遥かに容易い。
 窓に向かっていた喪部の胸に、一本の矢が突き刺さった。

 目を凝らしても影しか見えないほどの距離を挟んで、神鳳は双樹に笑って見せた。神鳳にその表情までは見えなかったが、双樹が笑っていない事は理解した。もう二度と、彼女が心から笑う日は来ないのだろう。それでいい。
 容易い道など、立つ価値も無い。







 皆守が待ち望んでいた衝撃は来なかった。鈍い音と共に、ボンネットと衝突した葉佩があっけなく吹き飛ぶ。皆守は、ただ呆然と口を開けてそれを見ていた。停止したロードスターから、確かな意思を持って人を撥ねた少年が降り立つ。無表情に黒い海を見遣り、皆守を見た。視線を受け、皆守が膝を付く。近付く靴音をどこか遠くに聞きながら、逆光で影になったその顔を無心に見詰める。見慣れた後輩の顔を、皆守は口を閉じる事も忘れて凝視した。
 言葉も感情も、皆守の中から消し飛んでいた。

 夷澤が崩れ落ちた皆守に駆け寄り、その体を支えようと手を差し伸べる。脱力した皆守は、しかしその手を拒んだ。息を詰めて、葉佩が落ちた水面に目を凝らしている。それを見た夷澤が、痛みにではなく顔を顰めた。払われた手を下ろす事もせずに睨み付けてくる夷澤に、皆守は漸く気付いたように鈍い動作で顔を上げ、無表情に視線を合わせた。
「お疲れ様っす」
「回収がまだだ」
唐突に落とされた言葉の意味が理解できずに、夷澤が眉を寄せる。皆守は、汚れた頬を拭う事もせずに同じ言葉を繰り返した。目は只管に黒い海を見ている。必死の形相にも見える。
「探せ。死体でもいいから見付けろ」
言い捨て、皆守は体を引き摺るように歩き出した。危うく海に落ちそうになる皆守を引っ張ると、拍子抜けするほどあっさりと倒れ込んできた。触れた体は血に濡れている。その感触に、夷澤の心臓が締め付けられた。皆守が、抵抗する意思を示して弱々しく腕を上げる。それを無視して、夷澤は傷付いた体を愛車の助手席に詰め込んだ。アクセルを踏んだ瞬間に皆守が呻いたので、慌てて速度を落とす。ちらりと窺った助手席では、皆守が目を閉じて深い呼吸を繰り返していた。折り曲げられた足からも血が滴っている。いつの間にか慣れてしまった香りではなく、ずっと昔から知っている匂いが鼻腔に届く。それは夷澤にとって、後悔を呼び起こす匂いだった。
 先程の戦闘を、脳内で再生する。それだけで内臓が冷えた。皆守にまだ息があるのは、祈りが届いたからだろうか。浮かんだ思考を慌てて否定する。そんなものに頼らなければ生きてゆけないなんて、嫌だ。
 エンジン音に掻き消され、皆守の寝息は聞こえない。呼吸のリズムで上下する胸を確かめ、またしても込み上げた涙を奥歯で磨り潰す。その音を誤魔化す為に、夷澤はアクセルを踏んだ。自分の吐く息が震えている事には、気付かない振りをする。
 隣の人の名を呼ぼうとして、声が喉に引っ掛かった。唾を飲み込み、今度こそ呼ぶ。返事は無い。もう一度、強く呼んでみる。やはり返事は無い。噛み締めた奥歯が音を立てる。視線は前方から離さず、思うように動かない左手に苦労してギアを上げる。立ち込める血の匂いに、胃液が上がった。同時に、許し難い何かが喉元まで上がってくる。
 それを許すぐらいなら、死んだ方がマシだ。







 戻った事務所には、誰も居なかった。神鳳が、仕事があると言っていた事を思い出す。構うものか。彼の命令を受ける理由は無い。夷澤は、背負っていた皆守をソファに横たえた。口元に手を当てて呼吸を確認する。出血はもう止まっているが、顔色が悪い。血を流しすぎたのだろう。事務所に戻るよりも、病院に直行した方が良かったかも知れない。自分が混乱していた事を、夷澤は漸く理解した。何度か世話になった医者に連絡しようと、ポケットから携帯を取り出す。
 医者の存在を意識した瞬間、手遅れだったら、と、必死で押し留めていた言葉が溢れた。指が震え、携帯が音を立てて床に落ちる。その音に、皆守が目蓋を上げた。

 皆守は、阿門がいつも座っていた席を見て、次に部屋の中を見回した。夷澤を見上げて口を開いたが、声を発する事なくまた閉じる。阿門を探していたのだと、夷澤は数秒してから気付いた。彼がもう何処にもいない事を思い出したのだろう。皆守が、ソファの背凭れに顔を向けて体を丸める。こんな場所で眠っていても、毛布を掛けてくれる人はもういない。
 夷澤がソファの端に腰を下ろした。僅かに軋んで皆守の体が揺れる。腕に顔を埋めていたが、泣いているようには見えない。背中を丸めているのも、ただ寒いだけのように見える。きっと、皆守は泣かないだろう。少なくとも、夷澤の前では。

 夷澤は、友人が海に落ちて死んだ時の事を考えていた。彼の名を呼びながら一晩中大声で泣いた。暫くは、街中で彼の愛車と同じ車種を見かけただけで涙腺が緩んだ。何も感じなくなったのは、いつからだろう。彼の愛車が何だったかも、もう思い出せない。彼の死で一生消えない傷を心に負ったと、あの時は思っていた。
 いつの間に、こんなにも遠くなってしまったのだろう。

 もう一度、皆守に視線を合わせた。先程から全く動いていない。自分が部屋を出たら泣くだろうか、と思い、夷澤は腰を浮かした。理由は分からないが、皆守に泣いて欲しかった。涙を流すと痛みも同時に流れ去るような気がする。だからきっと、泣いた夷澤はもう痛みを思い出せないのだろう。夷澤がドアに手を掛けると、皆守がくぐもった声で言った。
「何処に行くんだ」
「ちょっと、えーと・・・その辺、じゃなくって・・・病院、呼んできます」
「呼んだら来るのか、病院って」
「・・・俺がいたら、あんた泣かないでしょ」
「いなくても泣かない」
「こーゆー時は泣いた方がいいっすよ」
皆守は動かない。視線も上げない。ただ、声だけが夷澤に向かっていた。夷澤がソファに歩み寄り、少し躊躇ってから先程と同じ位置に座った。皆守が揺れる。
 もしかしたら、皆守は泣けない人間なのかも知れない。容易く忘れてしまえるような、強い人間ではないのかも知れない。傷を癒す事も出来ず、血を流しながら生き続けるのだろうか。不意に湧き上がった不安を巧く飲み下せず、夷澤はそっと皆守を窺った。泣くほど苦しいのに泣けなくて、忘れる事も出来ないなんて。そんなの酷すぎる。
「泣かないんすか」
「・・・泣きたくなったら泣く」
それならいいか、と、夷澤は溜息を吐いた。
 閉ざされた奥の部屋のドアを見ながら、その部屋の主の事を考える。泣きたくない、と、夷澤は強く思った。忘れる事は罪だ。この記憶すら薄れてしまうというのなら、自分に生きる価値は無い。
 人は、こうして壊れてゆくのだろうか。