神鳳はその時、事務所に居た。皆守にはなるべく早く帰るようには言ってあるが、それでも九州までの道程は遠い。一泊してから戻るという連絡が入った時も、だから神鳳はそれを許した。

 神鳳の前にフルフェイスのヘルメットを被った男が現れた。返り血に染まったその姿を見て、神鳳が瞬時に事態を把握する。男は外からではなく、奥の部屋から現れた。その意味を悟り、神鳳の目が見開かれる。男には見覚えがあった。廊下を横切った、あの男だ。
 部屋の隅に居た双樹が香を撒き散らす。だがその香が効果を表す前に、男が発砲した。殺傷目的ではなく、窓ガラスを割る為だ。冷たい空気が部屋に流れ込み、満ちた芳香が掻き消えた。身を低くして回り込んだ神鳳が、懐の小刀を投げ付ける。手甲を付けた腕でそれを叩き落し、男が双樹に向かって走った。真正面から突っ込んできた男に、双樹が銃弾を発射する。頭を狙ったが、腕に弾かれた。至近距離で撃たれた男は、しかし足を止めなかった。防弾とはいえ、衝撃を完全に遮断するほどの装備には見えない。僅かに進行を緩めた男の首に、神鳳の刃が閃く。頚動脈を狙ったが、獣のような身のこなしで躱された。距離を取り、男が動きを止める。その左腕が折れている事に、双樹はその時気付いた。男が尖った犬歯を見せる。笑ったのかも知れない。
 その表情から、双樹は彼の体を支配している薬物の見当を付けた。昂揚感と痛覚の麻痺。鉄砲玉と揶揄される夷澤ですら、そのような扱いは受けていない。男の服を汚した血液の主は、双樹にとって掛け替えのない人間だ。奥の部屋で眠っていた思い人の顔を思い出し、未だ見ぬその死に顔を思い浮かべる。
 覚悟はしていた。彼に従うと決めた瞬間から、その死を嘆く事だけはしないと。屍を、踏み越えこそすれ嘆くなど。そんな事、あの人は望んでいない。

 銃声を聞きつけた部下達が走り込んでくる。神鳳は彼らに手出しを禁じ、慎重に男の動向を窺った。隙だらけにも見えるが、攻める事が出来ない。男は、死を恐れていなかった。
 男が床を蹴った。割れた窓ガラスから身を躍らせる。同時に双樹が発砲した。数発だけ掠った手応えがあったが、逃亡阻止には至らなかった。悔しそうに窓の外を見詰める。
 落下のようにも見える着地を果たした男は、既に走り出している。移動手段に到達する前に止めなければ、完全にやり逃げされる。男の上着を汚していた返り血は、相当な量だった。複数の人間の血液だったとしても、それが身内の血である以上、彼を逃がす事は許されない。何人かが車で後を追うのを見届け、神鳳は双樹に向き直った。
「双樹さん、皆守に連絡を入れてください」
その命令に、声は返らなかった。承諾の意を伝える為に、双樹が無言のまま頷く。引き締められた唇に、神鳳は誇らしい気持ちにすらなった。彼女が声を出せなかったのは、奥歯を噛み締めていたからだ。神鳳もまた、阿門の意思を過たず理解していた。

 神鳳がその部屋に立ち入るのを、双樹は黙ったまま見ていた。震える膝を、どうしても前に出す事も出来なかった。程なくして出てきた神鳳に、召集された一同が鋭い視線を突き刺す。それを見渡し、神鳳が無表情に言葉を落とした。
「阿門様が暗殺されました」
「下手人は?」
「詳細はまだ分かりませんが、吉備で一度だけ見た男です」
「喪部の手の者って事かしら?」
「ですが、彼は僕に、意図的に姿を見せたようにも思えます。
 吉備との関係を良く思わない、例えば長老達、或いは大和者の可能性もあります。
 同盟を破棄させる事が目的だったのかも知れません。
 だとすると、喪部との関係が気になりますね」
至極冷静に言葉を吐き出す神鳳を、双樹はじっと見詰めた。それに気付き、神鳳が真っ向からその視線を受け止める。見渡せば、その場にいる全員が神鳳を見詰めていた。否、睨んでいた。
「分かってたの?」
「予測は可能でした」
「それで?」
「暗殺者の侵入を許したのは、僕の責任です。
 ・・・落とし前は、必ず付けます」
そう宣言し、神鳳は言葉を切った。息を吸い、前を見据える。
「分かったらさっさと配置に付け!逃がしでもしたら、お前らに朝は来ないと思え!!」
その声に含まれた怒りを全身で受け、出雲きっての武闘派達が思わず硬直する。神鳳の言葉が崩れたのを、双樹も部下達も初めて聞いた。畳み掛けるように、神鳳が鋭く声を発する。
「返事は!」
覇気に呑まれていた双樹が、真っ先に我に返って応えた。魔人達がそれに続く。神鳳が一つ頷くのを確認し、獲物に向かって一斉に走り出した。







 追走していた者達からの連絡が途絶えている事に気付いたのと、皆守と夷澤が部屋に入って来たのは、ほぼ同時だった。夷澤に腕を掴まれている皆守は、いつものように眠そうだ。鬱陶しそうに夷澤の手を振り払い、苛立たしげに煙を吐き出す。
「何だってんだよ一体・・・」
「阿門様が暗殺されました」
「・・・そうか」
「連絡が入ったでしょう」
「そう、だったか?」
「逃げる事は許しません」
真っ直ぐに言い放った神鳳を、皆守は不思議そうに見返した。全く理解していないらしい。ここまで愚鈍だとは思わなかった。神鳳が忌々しげに唇を歪め、夷澤に視線を流す。夷澤は、口を閉じて目を見開いていた。どうやら、こちらは理解してくれたようだ。神鳳が自分を見ている事に気付いた夷澤が、口を開く。呼吸が微かに震えていた。
「あんた、何してたんだよ」
「問答はこれが終ってからです」
言う間にも、無線から負傷者の連絡が入った。これ以上、身内の血を流す事は許さない。
 神鳳が皆守を見た。皆守は無表情だ。自己防衛だけは得意らしい。そうして、無かった事にするつもりか。神鳳は、怒りのあまり涙が出そうになった。自分で作った幻ならば、さぞかし居心地がいいだろう。だが、壊れて沈むのは、終わってからだ。微睡を湛えた瞳を、威圧する意思を持って睨み付ける。
「下手人を連行しなさい。生死は問いません」
「りょーかい」
簡潔に場所の情報を伝えた神鳳に、皆守が曖昧に頷いて踵を返す。夷澤がそれを追おうとしたので、神鳳はその背に声を掛けた。
「夷澤君には別の仕事があります」
「阿門さんに補佐れって言われてるんで!」
「・・・ほされ?」
言葉の意味は分からなかったが、夷澤が皆守を追うつもりなのは理解した。

 夷澤が促すままにロードスターの助手席に滑り込み、皆守はアロマに火を点けた。夷澤は何も言わない。唇を引き結び、前を睨み付けている。エンジンが吠えた。それがまるで慟哭のように聞こえて、皆守が眉を寄せる。嘆く理由など無い筈なのに、心臓が嫌な音を立てて軋む。馴染んだ芳香を吐き出しながら、皆守は自分の手が震えている事に気付いた。はやく、と、無意識に喉が音を発する。囁かれた言葉に応える代わりに、夷澤がアクセルを踏んだ。
 はやく、はやく、と、皆守がうわ言のように繰り返す。溢れ出てしまう。表情だけは凪いだまま、皆守の狂気が出口を求めて暴れ回る。夷澤がハンドルに爪を立てた。







 港に着くや否や、皆守がスピードを僅かに落としただけのロードスターから転げるように降りた。静止する暇も無かった。夷澤が急ブレーキで停車した時には、皆守は走り出していた。その背中を呆然と見送ってから、道路から見えない場所に愛車を停める。エンジンを止めると、恐ろしいほどの静寂が満ちた。
 何を突っ走ってんだ、あの人は。吐き捨てようと吸った息が、唐突に喉に引っ掛かった。震える膝を叱咤して、夷澤が走り出す。どうか、と呟くが、続く言葉は浮かばない。湧き上がる不安を振り切るように、夷澤は抜けそうになる膝を動かした。恐怖に似ている。思ったが、何に対する恐怖なのかは分からない。車中で皆守が呟いていた声を思い出す。はやく、と、繰り返していた。
 涙が込み上げたのは、響いた靴音があまりに軽やかだったからだ。
 そんな足取りで、何処へ行こうというのだろう。

 皆守の目が、血に濡れた男を捉える。見覚えがある、とは思わなかった。ただ、やっと会えた、と脳の片隅で呟いた。何故か考えるまでもなく、聞き流した筈の名を思い出す。
「葉佩」
「おお、憶えててくれてたんだ」
 皆守が軽やかに地を踏む。仕事を終えた暗殺者が、晴れやかに笑った。子供のように無邪気な笑顔だった。それに笑い返し、皆守が爪先を振る。防御すら不可能な速さで上腕を打たれた葉佩が、威力を殺せず横に跳ぶ。受身を取って転がった葉佩が立ち上がり、逆手に刃を構えた。一息に距離を詰め、繰り出される刃を躱して肩にもう一発。それと同時に、自分の足が作った死角から伸びた刃が脇腹を浅く裂いた。
 視界の端で赤が散る。皆守が、綺麗な幻を見るようにその赤に見蕩れた。葉佩が笑う。壊れた皆守を嘲笑っているのかも知れない。それとも本当に嬉しいのだろうか。自分と同じぐらい憐れな男が存在していた事が。
「阿門は死んだよ」
「らしいな」
「俺が殺したんだよ」
「そうだと思ったぜ」
言いながら懐に飛び込んだ皆守を、汚れた刃が迎え撃つ。薄刃が血に染まる。そのまま顔を目掛けて迫る刃から目を逸らす事はせず、皆守が踏み込んだ。軸足を低く折り曲げ、回転しながら浴びせ蹴りを放つ。顎を掠めた踵に、葉佩の視線が一瞬ぶれる。後方に跳んだ葉佩を追って、皆守が前に出る。その瞬間、眼前に白刃が閃いた。葉佩の踏み込みは驚くほど深い。そして、速い。空を切った刃先を戻し、間髪入れずに軌道を変えて突き出す。それを脹脛で払い、皆守が流れるように首を刈る。葉佩が、その攻撃を左手の暗器で受け止めた。散った血飛沫を浴びながら、葉佩が自分を嘲る為に口の端を上げる。眼前の男の空洞を、葉佩は理解してしまった。
「お前、死にてぇの?」
「別に」
「ああ、生きる理由が無いだけか」
「まあそうだな」
「じゃあ、俺を殺す理由も無い?」
「・・・死にたくないのか」
「死にたくないよ」
「それなら、俺を殺せばいい」
 はやく、と、皆守の心臓が早鐘を打つ。本当に壊れてしまう前に、この心臓を止めなければ。きっと、阿門は許さない。彼はずっと皆守の心を憂いていた。いつか来るその日に、容易く砕け散るであろう脆弱なその精神を、憎んですらいた。これ以上、裏切る事はしたくない。だから、はやく。
 皆守が再び爪先を振り上げた。動作の大きい足技は、付け入る隙も多い。初撃を躱されれば長期戦は必至だ。そして皆守は、長期戦に耐え得るほどの精神力を有していなかった。特に今は、戦闘ではない部分に多くを割いている。即ち、現実から逃避する為のエネルギーだ。
 血が流れ、意識が霞む。それにつれて、必死で目を逸らしていた事実が強く浮かび上がった。はやく、と、もう一度囁く。葉佩が微笑むのをやめた。代わりに、刃が三日月のように光を放つ。
 葉佩が低く走り込む。その姿を見失い、皆守が後方に跳んだ。着地の瞬間を狙い、汚れた白刃が胴を薙ぐ。それを受け止めた腕の下から、隠刀が顔面を目掛けて突き出した。
 迫る刃が、誰の血で汚れていたのかを思い出す。
 一振りの刃の上で混じり合う二人分の血液を想像し、皆守が笑った。