二人分の煙で白く濁った部屋の中、夷澤は皆守の横顔を見ていた。気だるげな表情だが、瞳だけが挑戦的に光っている。一度だけ見た燃え上がる気配を思い出し、気付かれないように拳を握った。皆守が注がれた杯を呷る。白い喉が僅かに動く様から目を逸らし、気を引き締めた。此処は危険地帯ではないが、安全でもない。
皆守が杯を乾したのを確認し、劉が本題に入った。
「吉備と同盟を組んだそうだね」
「そうだな」
「それで?君は何をしに此処へ来たのかな?」
「吉備は出雲を足掛かりにして、北九州を狙ってる。その忠告だ」
「そんなに簡単に出雲を明け渡すつもりなのか?」
「状況によっては、そうなるかも知れない」
「弱気だね。阿門らしくもない」
劉が手酌で杯を進める。皆守の倍以上のペースで飲んでいるにも拘らず、酔った素振りは見えない。出掛けに散々愚痴っていた皆守も、慣れた様子で話を展開させている。背筋を伸ばしてゆったりと構える姿は、貫禄すら感じさせた。
「瀬戸内を掌握されれば、国内での流通は困難になる。
そっちにとっても、それは面白くないだろう」
「ふむ、つまり、吉備を黙らせるのに協力して欲しい、という事かな?」
「協力する必要は無い。ただ、行動を起こすなら早い方がいい」
「・・・分かった。忠告は、有り難く聞いておくよ」
会話が済み劉が去ると、皆守がアロマを銜えた。ライターを擦ろうとした夷澤の手を止め、今度は自分で火を点ける。先程の行為は、人を従えているという演出だろう。上に立つ者が、わざわざ出向いたという事を強調したのだ。くだらないが、無意味ではない。皆守の言葉を思い出し、夷澤は口の端を歪めた。あの女の前では、意味すら無いように思える。一種の儀式のようなものだろうか。夷澤の知らない世界の事だった。
椅子に座ったまま、皆守が大きく腕を伸ばした。欠伸と共に、愚痴のような言葉を零す。
「あー・・・やっぱ俺、こーゆーのは向いてないな。死にたい」
「最後の一言は何事っすか!?」
「なんかもう消え失せたい。面倒臭い」
「や、そんな事で消えないでください」
「何で?」
「俺が悲しみます」
「・・・そうか、どうでもいいな。あー失踪したい」
後ろ向きに疾走する皆守は、夷澤のよく知る皆守だった。その事に安堵し、夷澤は笑みを浮かべた。
「帰りは飛ばしましょうか」
「は?何を?」
「スピード」
「・・・いや、いい。お前と心中は嫌だ」
その顔が本当に嫌そうで、夷澤のプライドが僅かに軋んだ。スピード=危険という発想は、運転技術を誇る夷澤にとって侮辱に等しい。だがそれを伝える前に、皆守は「帰るぞ」と言って席を立った。
数時間振りに見上げた空は、暗く淀んでいた。空気が雨の匂いを含んでいる。風も出てきた。駐車場までは少し距離がある。ゆらゆらと歩く皆守を振り向き、夷澤は先を急ぐよう促した。
「降りそうっすね」
「あーだるい」
「急ぎましょーか」
「あーねむい」
声は返るが、会話は成り立たたなかった。皆守が足を速める気配も無い。駐車場に着いた頃には、もう雨が降り出していた。夕闇と相俟って、街が急速に暗くなる。
出発からずっと走り通しだった夷澤は、自覚は無いが疲れていた。濡れた靴底がクラッチペダルから滑り落ちて床を蹴る。ギアを入れ損なった為に乱れたエンジン音に、早くもうとうとしていた皆守が目を覚ました。
「一泊してくか」
「え、やっすよ」
「何でだ、疲れてんだろ?」
「別にだいじょぶっすよ」
「それでなくてもお前の運転は荒いんだ。横に乗ってる俺の身にもなれ」
「あんたは寝てるだけじゃないっすか!」
「だから寝かせろって言ってるんだ」
「だからじゃねぇ!」
結局、港の近くのビジネスホテルに向かう事となった。まるで夷澤を気遣うような言葉を吐いていたが、皆守の本音は間違いなく自分の欲求を満たしたいだけだろう。溜息をついて、夷澤はアクセルを開けた。ベッドで眠りたいのは夷澤も同じだ。
夷澤はフロントから鍵を受け取り、立ったままゆらゆらしている皆守に歩み寄った。並んで歩き出すと、皆守が提げていたコンビニの袋を無言で差し出す。持てという事か。一瞬だけ拒否する理由を探してみたが、夷澤は何も言わずにそれを受け取った。そのまま視線も合わさずに歩き出した皆守を追う。
「シングル二つにしたかったんすけど、ツインしか空いてないみたいっす」
「どうでもいい」
「ま、そーでしょーね」
「欲を言えば、ダブルに一人で寝るのがいい」
それには何も言わず、夷澤は鍵を受け取って部屋に向かった。正直なところ、何を言えばいいのか分からなかった。突っ込めばいいのか。それともただの本音の呟きなのか。
シャワーを浴びて、向かう途中で仕入れたビールに口を付け、夷澤は漸く自分が疲れている事を悟った。急速に目蓋が重くなる。隣のベッドでは、皆守が早くも寝息を立てている。シャワーも浴びずにベッドに突っ伏した皆守は、靴も脱いでいない。
「・・・服、皺になっちゃいますよー」
返事は無い。ベッドの端からはみ出した足から靴を抜いて毛布を被せ、夷澤は我に返った。何で俺がこんな事。皆守の飲み残しを一気に腹に流し込み、ベッドに身を預ける。程なくして訪れた睡魔に、抵抗する理由は思い付かなかった。
聞き覚えのあるメロディに、皆守の意識が浮上した。働かない頭でその発信源を罵倒し、暫くしてから自分の携帯の着信音だと気付く。重い頭を動かして枕元を探るが、指先に触れたのは憶えの無い感触。隣のベッドから「早く出てくださいよー」という声が聞こえ、皆守は漸く自分のいる場所を思い出した。手探りで上着を掴み、ポケットから携帯を取り出す。
不機嫌を隠さず声に乗せた皆守は、いつも以上に眠そうに鈍い反応を繰り返している。覚醒してしまった夷澤は、時計を確認して小さく舌を打った。午前3時を少し過ぎたところ。こんな時間の連絡は、往々にして良い知らせではない。だが皆守の反応を見ると、それほど切羽詰った状況ではないようだ。常にも増して呆けた皆守の表情を窺い、夷澤は布団を頭まで引き上げた。その直後、腹に衝撃が走った。肺の空気と共に、思わず呻き声が出る。慌てて身を起こすと、皆守が夷澤に交差するように乗っていた。
「みみみみ皆守先輩!?」
「違う・・・それはイクラじゃない・・・」
「ちょっ、あんたのベッドはあっちっすよ!」
「せめて脱穀してくれ・・・」
「玄米でも食ってろ!そして潜り込んでくるなぁ!」
皆守は、鈍い動作で夷澤の体温が移った布団を巻き取り始めた。引っ張っても殴っても離れる気配は無い。それどころか、より深く潜り込んでくる。甘い香りが夷澤の鼻腔を刺激した。擦り寄る体温が低い事から、皆守が寒いのだと想像は出来る。だからといって湯たんぽ代わりにされる筋合いは無い。夷澤は、渾身の力で皆守の襟首を引き剥がした。皆守が負けじとしがみ付く。普段は無気力なのに、何故こんな時だけは頑張るんだろうこの人。
耳元で、皆守が囁いた。
「やめろ阿門っ・・・」
「邪推したくなる寝言はやめてもらえますか!」
「それは脱穀機じゃないぞ阿門っ・・・」
「語尾に阿門って付けるのもやめてください!」
「うるさい・・・耳元で喚くな」
「不機嫌そうに言いますけど、この状況は100%あんたの所為っすよ冷たっ!」
皆守が服の下に手を突っ込んできた。その冷たさに身震いする。脱出しようと向けた背中に、べったりと貼り付かれた。皆守の手は、未だ夷澤の腹を撫でている。感じる全てが冷たい。冷え性かこの野郎。肉を付けろ。
脱出を諦め、夷澤は抵抗をやめた。皆守が満足そうに息を吐く。不明瞭な声で何事か言っているが、聞き取れない。どうせ寝言だろう、と思い、夷澤は体勢を変えようと身を捩った。皆守の拘束が強まる。
「動くな死にたいのか」
「何で俺は命懸けであんたの湯たんぽやってんすか?」
「気にするな殺すぞ」
「俺には気にする権利も無いんすか!?」
「双樹が・・・」
寝言の続きにしては明瞭な声だった。思わず聞き返し、せめて体を離そうと皆守の腕を掴む。先程よりも少しだけ温まった手は、あっさりとその力に従った。代わりに冷えた腹を、シャツで覆う。夷澤が身を起こすと、皆守はやっと手にした布団を自分に巻き付けた。乗っ取られたベッドを、不本意ながら明け渡す事を決断する。憶えてろよこのドライアイス男。さっきまで皆守が寝ていたベッドに移動しようとした瞬間、皆守の足が器用に夷澤の足を絡め取った。
「足も冷てぇ!」
「手が冷たいんだ。足も冷たくて当たり前だろ」
「それもそーっすね」
寝言ではないようだが、果てしなく無意味な会話だ。溜息を吐いて、夷澤はベッドに座った。足の拘束は解かれたが、皆守の両足は完全に夷澤の大腿に乗っている。皆守の関節の可動域を考え、抜け出すのは難しいだろう、と結論付けた。
「で?双樹さんが何すか?」
「電話」
「ああ、さっきの電話、双樹さんだったんすね」
散らかった言葉を拾い集め、どうにか意味を把握する。そうしてから続く言葉を待つが、皆守はそのまま押し黙ってしまった。先を促す目的で、膝に乗せられた足をくすぐってみる。電光石火の早業で顎に踵を叩き付けられた。軌道が全く見えなかった。寝惚けていてこの威力とは。やっぱりこの男は油断できない。寝てる時ぐらい油断させて欲しいのだが。
「で?双樹さんが電話してきて、何で俺はベッドを侵略されなきゃなんないんすか?」
「変な事、言ってた・・・」
「下着の色でも訊かれたんすか?」
「黙れ下衆野郎」
低い声と共に、今度は腹に膝を入れられた。眠る前に飲んだビールが逆流しそうになり、静かに唾液を嚥下する。皆守が頭まで布団を引き上げた。体を丸め、完全に眠る体勢に入ったように見える。どうやってこの状況から離脱しようかと考えながら、胡坐を掻いていた足を組み直した。その膝裏に、皆守が爪先を滑り込ませる。少しでも温かい場所を探しているらしい。
さっぱり分からないが、良くない報せだったのだろうか。皆守が枕に顔を埋めたまま、寒い、と呟いた。複雑に絡み合った四本の足が、掛布の中で同時に身じろぐ。
「今すぐ戻って来いって」
「は?」
「言ってた・・・」
「・・・それを早く言えよ!」
叫びながら、夷澤が勢いよく掛布を剥ぎ取る。皆守が裏返った声で何か言ったが、それを無視して隣のベッドに取り戻した掛布を放り投げた。ハンガーに掛けてあった自分の上着を掴み、そのポケットに鍵が入っているのを確認する。ただの癖だ。在るべき物が在るべき場所にある、という事実に安堵する為の、儀式のようなものだ。
「帰還命令って事っすよね?何があったんすか?」
些細な用事で、遠出している者を深夜に呼び出すとは思えない。呼んでもすぐに出社できる距離ではないのは、考えるまでも無いだろう。緊急の召集など、余程の重大事件ではないのか。
身を包む物がなくなっても、皆守はベッドで丸くなっていた。その肩を掴み、乱暴に揺さ振ってみる。皆守は、シーツを握り締めて顔を背けた。夷澤が確信する。具体的には全く分からないが、深夜の電話はやはり碌なものではなかったようだ。皆守の逃避癖を、夷澤はもう知っている。
「早くしてください。置いて行きますよ」
苛立ちを隠さず、夷澤が硬質な声を皆守に落とす。それでも握ったシーツを離さない皆守に、夷澤の忍耐力が限界に達した。気だるげに抵抗する腕を掴み、力任せに引き上げる。襟首を引いて背けられた顔を固定し、左拳を叩き込んだ。夷澤の手が、普段なら考えられないほど容易く皆守の頬に触れた。打たれても尚、皆守は俯いている。
「俺は阿門さんほど優しくないっすよ」
皆守の眠りを、微笑みすら浮かべて許容する阿門を思い出し、夷澤は思わずその名を口にした。皆守が顔を上げる。眠たげな双眸が揺れて、夷澤を映す。無表情に、皆守は夷澤を凝視している。違う、と、夷澤が息を飲んだ。皆守は何も見ていない。焦点が明らかに定まっていなかった。ゆらりと瞬き、やっと夷澤に気付いたように、少しだけ見開かれる。瞳が自分を捉えている事を確認し、夷澤は慎重に言葉を発した。
「帰り、ますよ」
「・・・帰る?何処に?」
夷澤の背筋が震えた。壊れた、と、訳も分からずそう思った。いつもより近い位置にある肩を強く掴む。それでも鈍い反応しか無い事に苛立ち、思わず頬を引っ叩く。軽い衝撃にも、皆守はどこか呆然としたまま視線を動かしただけだった。
「何かあったんすね?戻りましょう。あんたは寝てていいっす。飛ばしますから」
夷澤が手早く上着を羽織って立ち上がった。まだベッドの上にいる皆守に、午前3時という時間も忘れて怒鳴り付ける。
「手遅れになったらあんたの所為だからな!」
特に根拠のある言葉ではなかった。漠然と、だが確かに不安が胸中で音を立てている。夷澤は、深夜の電話というだけで嫌な予感に襲われていた。皆守の態度も気になる。体を丸めて枕に顔を埋める様が、まるで泣いているように見えた。
荒げられた声にビクリと肩を震わせた皆守が、ゆっくりと夷澤の方に顔を向ける。その目には、恐ろしいほどの虚無だけが存在していた。
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