無事に帰還した神鳳の報告を聞きながら、阿門は入れ違いに旅立った皆守と夷澤を案じていた。やはり寝坊した皆守を文字どおり叩き起こし、夷澤は愛車と共に九州に向かっている。出掛けの様子を思い出し、思わず溜息を吐こうとしてそれを堪えた。目の前の神鳳が怪訝な表情で阿門を見ている。
「何か気懸かりでも?」
「・・・いや」
「そうですか、では続けます。
喪部の狙いは吉備だけではありません。
恐らく、出雲を足掛かりに大陸との交流を目論んでますね」
「その前に筑紫がいるだろう」
「そこで、大和です。あそこには豊富な資源があります。
大和を乗っ取り、瀬戸内を統一して九州に攻め込むつもりではないかと」
淡々と続ける神鳳の表情に、苦いものが混じった。山陰と瀬戸内を束ねる障害となる出雲に対して、喪部はまるで友好を示すように接している。懐柔されるつもりは無いが、真っ向から対抗するには少々不安が残る。喪部は手段を選ぶような男ではないように思えた。強攻策に出られたら、出雲にも大きな損害が出るだろう。
傍らで二人の会話を聞いていた双樹は、その内容をほとんど理解していなかった。複雑な力関係も把握できない。一度だけ、神鳳に聞いてみた事がある。懇切丁寧に教えてくれたが、それも理解する前に忘れてしまった。
自分の場所を見出せず、ただ媚びるだけの女にはなりたくない。願っても、現実は容易くそれを踏み躙る。神鳳のような頭脳も、皆守のような戦闘力も持っていない。必要とされているという確信が、どうしても見付からない。爪を弾いた双樹を、神鳳が振り向いた。柔らかい声で名を呼ぶ。慌てて顔を上げた双樹に、いつもの笑顔を向ける。
「お茶を淹れたので、どうぞ」
「え、あ、ありがと」
報告は終わったらしい。阿門も、背凭れに身を預けて寛いでいる。その隣には、いつも皆守が居た。当然のような顔をして阿門の横で足を組む姿を見る度に、双樹はその後頭部に平手を打ち込みたくなる。実行した事は無いが、衝動は常にあった。だが今、阿門は一人でソファに座っている。足りない、と思ってしまう。阿門の左側が大きく空いているのも、その不可解な感情を増幅させた。一人で座る時ぐらい真ん中に居れば良いものを、何故か隅に寄っている。双樹は空いた場所に座ろうかと一瞬だけ考え、結局阿門の向かいに座った。
「夷澤を付けたんですって?」
「ああ、あいつにも現場を見せておく必要があるからな」
「大丈夫かしらね?あの二人で」
「・・・・・・」
「黙らないでください」
思わず呆れた双樹に、阿門は静かに笑った。その瞳に望んでいた信頼を見付け、双樹も唇を柔らかく上げる。優しい嘘など、阿門は言わない。それを知っているからこそ、双樹は此処に居る。阿門がこうして微笑んでくれるのならば、それが理由になる。
必要の無いものを手元に置くほど、阿門は愚かではない。それが双樹の誇りだ。
関門海峡を渡り、ロードスターは県道を走っていた。車内では、皆守と夷澤が無言で前を見ている。エンジンの唸り声だけが響く空間に、夷澤が低く囁いた。
「火ぃ点けたら降りてもらいますからね」
「・・・細かい奴だな」
「あんたが図太すぎるんでしょうが!」
R60ほどのカーブを、ギアを落としてエンジンブレーキだけで曲がる。後輪が耳障りな音を立ててスライドした。皆守が思わず足を踏ん張る。流石にもう慣れたが、夷澤の運転は荒かった。それに言及しないでやっているのだから、アロマぐらい許容してもいいのではないか。皆守がそう言うと、夷澤は急ブレーキで停車した。
「あんた乗せたあと散々言われたんすよ!女が出来たとか!お持ち帰りしたとか!ここでヤったとか!」
「やったのか」
「何をだよ!」
シートの残り香をからかわれて閉口した記憶は新しい。下世話な冷やかしを軽く流せるほど、夷澤は経験豊富ではなかった。香水とは違うが、焚き込めたような香りは甘い。そんな香りを纏うのが男だったなどと、信じる者はそういないだろう。
皆守に向き直り、夷澤が掌を差し出した。その行動の意味が理解できず、皆守は暫く考えてから自分の掌を重ねて乗せてみた。夷澤の手は温かく、少しだけ汗ばんでいる。皆守よりも体温が高い体質なのか、それ以外の理由なのかは判じかねた。それを跳ね除け、夷澤が叫んだ。
「ライター出せっつってんだよ!」
「言ってないだろ!無言だったぞ今!」
「車内禁煙!」
「いま決めただろそれ!」
激昂し始めた二人が掴み合う直前に、皆守の携帯が鳴った。二人が同時に黙る。目を逸らして電話に出る皆守を一度だけ睨み付け、夷澤も視線を車外に投げた。曖昧な返事を繰り返す皆守に、夷澤が電話の相手に見当を付ける。
「神鳳さんすか?」
それには答えず、皆守が夷澤に携帯を差し出した。恐る恐るそれを受け取り、耳に当てる。聞こえてきたのは、気味が悪いほど爽やかな声だった。穏やかな声なのに、何故こんなにも底冷えするのだろう。やましい事があるからか。いや、無い。やましい事など断じて無い。
『夷澤君?』
「・・・はい」
『もう着きましたか?まさかとは思いますが、くだらない事で喧嘩なんかしてませんよね?』
「え、あ・・・はい」
思わず隣の皆守をそっと窺う。窓の外に向けて煙を吐き出していた。油断も隙もない。声を荒げる事も出来ず、夷澤は無言で中指を立てた。皆守が、素早くその中指を掴んで捻り上げる。
「あいたたたた!先輩!人間の指はそっちには曲がりません!」
「何事も挑戦だ」
「無理!」
一頻り叫んだあと、耳元の携帯の存在を思い出した。繋がっているが、音は聞こえてこない。ちらりと見上げた皆守は、既に窓の外に視線を向けている。捻られた中指を隠すように拳を握り、夷澤は意識して皆守から視線を外した。
「あ、あの、神鳳さん、今のは、あの、あれっすよ」
『分かりました』
「分かっちゃいましたか」
『皆守君に代わりなさい』
柔らかい声だった。どうして逆らえないのかと自問してみても、明確な解答は得られない。ただ、本能に近い場所から『逆らってはいけない』という指令が出ている。死の覚悟すら終えたつもりの夷澤は、しかしその正体不明の指令に従った。無言で返って来た携帯に、皆守があからさまに嫌な顔をする。狭い車内で携帯を押し付け合い、観念した皆守がそれを受け取った。先程と同じように耳に当てたが、少し離している。気持ちは分かる。恐怖は理屈ではない。
「・・・夷澤、出せ」
「は?何を?」
「発進しろ」
「あ、ああ・・・うっす」
再びエンジン音が空間を満たす。その隙間に滑り込むように、皆守の気の無い声が耳に届く。「ああ」と「うん」だけで為されているのは、恐らく会話ではないのだろう。その皆守の声が、不意に変わった。明らかな変化に、電話の向こうの人が変わったのを悟る。皆守は笑みすら浮かべて、低く穏やかに言葉を発していた。夷澤が、湧き上がった感情を嚥下できずに舌打ちする。甘い香りが鼻に付いた。阿門には、そんな声で話すのか。形にならない不快感だけが、夷澤の心臓を圧迫する。
夷澤はその後、運転に専念していた。皆守が寝入っている事に気付いたのは、目的地に到着する直前だった。
「もうすぐ着きますよ」
囁くような声音で言ってみる。返事は無い。夷澤は普段よりも柔らかくブレーキを踏んだ。滑らかにロードスターが停車する。サイドブレーキを引き、エンジンを止め、時計を確認した。指定された時間には、まだ少し余裕がある。ちらりと隣に視線を流す。皆守は、腕を組んだまま俯いて目を閉じていた。その横顔を暫し見詰め、ずっとそうしてればいいのに、と声には出さずに呟く。時間が来るまで、夷澤はそうしていた。
いつもは退屈だと感じる静寂が、何故かこの時は不快ではなかった。
そろそろか、と、夷澤が皆守の肩を揺する。期待に反して、皆守はすぐに目を開いた。無防備な顔面に拳を叩き付ける機会を逸してしまった、と、心の隅で嘆息する。大きな欠伸と共に不明瞭な声を出している皆守は、如何にも億劫そうにロードスターを降りた。どうみても寝起きだ。顔ぐらい洗った方がいいんじゃないか、と考えながらそれに続く夷澤に、皆守が唐突に向き直った。「持ってろ」と言いながら、愛用のライターを投げる。それを受け止め、夷澤が怪訝な表情で皆守を見返す。視線も合わせず、皆守が不機嫌そうに不可解な事を言った。
「くだらないとは思うが、無意味じゃあない」
「・・・ええと?」
「俺が銜えたら、お前が火を点けろ」
「何でっすか?」
「・・・さあな」
さっぱり理解できなかったが、皆守にそれ以上の説明をする気は無いらしい。渡されたライターをポケットに入れ、夷澤は半分ほど覚醒した皆守の背を追った。
指定された部屋は、大陸の文化を色濃く匂わせていた。木製の物より、磁器のような素材が目に付く。光量を抑えた照明を反射して、それらは気品すら漂わせていた。思わず雰囲気に呑まれそうになり、夷澤が意識して顎を引く。
部屋の中心に据えられたテーブルには、酒器と思しき物が並んでいる。その一番奥の席に、筑紫の女帝である劉が優雅に足を組んで座っていた。皆守を見て、少しだけ唇の端を上げる。指先に乗せた煙管からは、甘くない煙が立ち上っている。夷澤は、この場所で深く息を吸う事を自分に禁じた。意味があるかどうかは分からない。念の為、だ。劉が笑った。
「まあ座りたまえ。君が来ると聞いて、故郷から取り寄せたんだ」
「痛み入る」
「ははは、相変わらず無愛想な奴だな」
そう言って、劉が自ら杯を満たした。無言で席に着いた皆守が、それを受け取る。手前にあった酒器を手に取り、同じように劉の杯を満たした。席には着かずに皆守の斜め後ろに立っている夷澤に、劉が視線を流す。
「そっちの君は、ボディガードか?」
「行儀見習いだ」
「お前に後輩が出来たのか。可愛がってやってるか?」
「そりゃあもう」
皆守がアロマを銜えた。だが、いつものように火を点ける事はせずに、夷澤を見て目を細めた。夷澤が先程ライターを渡された事を思い出し、アロマの先端に火を移す。煙を吐いた皆守は、夷澤に視線を合わる事なく劉を見据えた。此処に居るのは怠惰な皆守という男ではない。出雲会の代表だ。
威厳を感じさせる皆守の立ち振る舞いに、夷澤は思わず瞠目した。普段の人間失格じゃないのかと思うほど無気力な姿は、仮の姿だったとでも言うのか。いや、多分あっちが本性だ。それは間違いない。夷澤が僅かに苛立った。
皆守は、何も出来ない駄目人間なのだと思っていた。自分を生かす事すら危うい彼を、ずっと助けてやっているのだと、夷澤はそう思っていた。基本的に、夷澤は世話焼きだった。年代物のロードスターを愛車にしている時点で、それは誰の目にも明白だ。ただ一人、夷澤だけが自分の気性を理解していなかった。
駄目じゃない皆守など皆守ではない。夷澤の中で燃え上がったのは、独占欲にも似た怒りだった。自分だけが彼を助けられる。そう思っていた。すぐに駄々を捏ねる古いエンジンに愛着が湧くように、手の掛かる皆守は夷澤の幼い自尊心を満足させていた。全ては幻だったのか。
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