かげろう








 出雲が但馬と不可侵条約を結び、日本海側は一時の平穏に包まれていた。抗争で疲弊した但馬は大和との交流を深め、回復に専念している。出雲は筑紫との交流を再開し、僅かながらも大陸との繋がりを強くした。
 その一方で、但馬との繋がりを得た大和は急成長を遂げ、着実に勢力を拡大していた。吉備が大和に傾き、それに付随して周囲の国々が自分の立ち位置を探して俄かに動き出す。穏やかだった瀬戸内に、嵐の予感が渦巻いていた。







 そんな中、吉備の若衆を束ねる喪部が、阿門率いる出雲に面談を申し出た。

「老人達が弱気になっていてね、大和に投資するなんて言い出したのさ」
「大和か。最近は随分と幅を利かせているようだな」
「そうだね。だけどボクは、あんな野蛮な連中と仲良くする気はないんだ」
「・・・吉備を裏切るつもりか」
「同盟を結ぼうって言ってるんだ」
要するに、発言権を有する老人達を武力制圧する為の後ろ盾として、出雲を利用しようという魂胆だ。阿門の斜め後ろに控えていた双樹は、嫌悪も露に喪部を睨み付けた。それに気付いた喪部が、薄く笑う。心地好い笑みではなかった。底の見えない湖のような暗い瞳は、それでも力強く光っている。危険な男だ、と、双樹の理性ではない部分が警鐘を鳴らす。
「勿論、手ぶらじゃないよ。それなりの御礼はさせてもらう」
「・・・聞こう」
「瀬戸内の交通網を一部明け渡す」
瀬戸内の荒海を知り尽くした吉備者でなければ、複雑な潮流を道とする事は出来ない。今や瀬戸内に出没する海賊は、そのほとんどが吉備者だ。そして瀬戸内は、流通の大動脈といっても過言ではない。交通網が手中に収まれば、市場の拡大は約束される。
 だが、阿門は視線を鋭くした。
「お前の謀反の片棒を担げと?」
「ボク達を利用して出雲の勢力を拡大すると思えばいいさ」
 実際、瀬戸内海は魅力的だった。出雲は、決して裕福ではない。但馬との小競り合いで疲弊している上に、力を付け始めた大和が出雲を狙っているという情報もある。懇意にしている北九州は、大陸という強力な後ろ盾を有しているが故に、危険を冒してまで出雲を助ける事はないだろう。
 阿門の心は既に決まっていた。生き延びる術は多くない。それを認め、阿門が望むのは出雲の生存だった。
「神鳳」
「はい」
「どう思う」
阿門が名指しで神鳳に意見を求める時、阿門の心は決まっている。それを知っていた神鳳は、彼の思いに副う言葉を過たず選び出して提示した。
「瀬戸内が利用できれば、飛躍的な利益拡大が望めます。
 吉備の長老と大和を相手にするリスクを考えても・・・悪くない取引かと」
阿門が頷いた。その後ろで、双樹が唇を噛み締めている。神鳳の発言を否定する根拠は無い。だが、感情がざわめいた。喪部という男が気に食わない。そんな言葉をこの場所で口にするほど子供ではないが、それでも双樹は拭いきれない予感に身を震わせた。
 双樹は自分に学が無い事を知っている。感情に任せて口を開いても、恥を掻くだけだ。ずっとそう思っていた。阿門の傍にいられるのは、女だからだ。自分自身を認められた訳ではない。そもそも阿門に差し出すべき自分自身すら、本当には存在しないのではないか。価値など、本当は。
 無意識に爪を弾いた双樹に、喪部が視線を向けた。慌てて前を見る。部下が舐められるという事は、阿門が見下されるという事だ。負けて堪るか。誇りを持て。自分に言い聞かせる。

 後日、正式に場を設ける、という約束を取り付けた喪部は、意気揚々と撤収して行った。連れていた部下達の一糸乱れぬ立ち振る舞いは、取りも直さず彼の指導力を表している。武力行使で来られたら、こちらにも多大な損害が出ただろう。その事実は、一つの確信を阿門にもたらした。喪部は、有している武力では実現不可能な野望を抱いている。吉備の支配権を奪い、さらにその先を見据えている。







 そして今日、正式に盟約を交わす。その場に立ち合い、身辺の警護が皆守に任ぜられた仕事だった。しかしその皆守が、いつものように遅刻した。昨日の夜、皆守がうんざりするほど何度も確認した出社時間の8時を過ぎても、彼が現れる気配はない。たまたま手が空いていた夷澤が、彼を叩き起こして引き摺ってでも連れて来い、との命を受けた。指定された時間は8時30分。現在の時刻は8時3分。皆守が住むマンションまでは、夷澤の足でも通常だと15分ほどかかる。しかし、夷澤はその命令を受けた。まあ無理でしょうけど、などと神鳳が言わなければ、夷澤もここまで奮起する事はなかっただろう。
 皆守の事は知っていたが、はっきり言って夷澤は彼が嫌いだった。いつ見ても寝ているか眠そうにしているし、居並ぶ武闘派と比べると格段に弱そうだ。しかも敬愛する阿門に対して、まるで友人のような無礼な口の利き方をする。それを許されるほどの男だとは、どうしても思えないのだ。
 愛車のロードスターを降り、夷澤は如何にも不本意といった足取りで皆守の部屋に向かった。苛立ちに任せてインタフォンを連打する。10秒ほどノンストップで押し続けても、一向に応答はない。溜息をつき、今度はドアを蹴り上げた。本人への行動というよりも、近所迷惑で困らせるのが目的だ。ドスの利いた声で凄むのも忘れない。ガンガンと轟音を立てて、ドアを壊す勢いで蹴りまくる。安全靴は、こんな時でも役に立つ。
「おいゴルア!永眠してぇのかよこの野郎!」
そろそろ自慢の拳の出番か、と、夷澤が構えを取った時、漸くドアの向こうで物音がした。ゴツと、何かが当たったような音だった。命拾いしたな、と、物言わぬドアに向かって無音で吐き捨てる。
「皆守せんぱーい!生きてますかー!」
普通のノックよりもやや強めにドアを叩く。確かに気配は感じるのだが、ドアは開かない。やはりぶち破るべきか。夷澤が再び構えた。ついでに、ドアの向こうの人も吹き飛ばす気満々だ。命令は既に消し飛んでいた。深く拳を握り込んだ瞬間に、まるで狙い澄ましたようにドアが開いた。慌てて拳を下ろす。
「・・・うるせぇ」
「阿門さんが呼んでます」
「阿門が?何でこんな時間に・・・」
「・・・聞いてないんすか?」
どう見ても今まで寝ていたようにしか見えない皆守は、かくんと首を傾げた。居眠りする時の動きとよく似ている。伝令が届いていなかったのか、と、夷澤が不安になった頃、皆守の目がゆっくりと見開かれた。小さな声で「あ」と言って、そのままの表情で夷澤を見る。どうやら本気で言い訳の余地もなくただの寝坊らしい。思っていたよりは豪気だ。
「今、何時?」
「えーと、8時16分・・・です」
「あー・・・」
皆守は額を押さえて奇妙な声を絞り出し、ドアを閉めた。施錠はされなかったので、夷澤もそれに続いて部屋に入る。鼻腔に触れた甘い香りに、芳香剤だろうか、と意味もなく天井を見上げる。洗面所からの水音を聞くともなしに聞きながら、夷澤は手持ち無沙汰に室内を見回した。最初に探そうとしたのは女の痕跡だったのだが、ざっと見た限りでは見当たらない。机の上に放置されたパイプを見付け、香りの正体を思い出した。皆守は、甘ったるい香りの変な葉っぱを愛喫しているらしい。やっぱり碌な人間じゃないな。そう断じて、夷澤は部屋の検分をやめた。
 3分ほどで身支度を整えた皆守が走り出そうとしたので、不本意ながら愛車の助手席を勧める。髭の剃り残しがある事と、ネクタイが曲がっている事を指摘すべきか少し迷い、言わずに発進した。
「ちょっと飛ばしますよ」
「もう諦めろ」
「シートベルト、してください」
「・・・」
前方の信号が黄色から赤に変わる瞬間に交差点を通過し、タイヤを鳴かせて角を曲がる。遠心力に振り回された皆守が窓に頭をぶつけたのを視界の端で確認し、ざまあみろ、と声には出さずに呟く。素早くトップギアまで上げて、二速落としでエンジンブレーキをかける。
「・・・酔いそう」
「吐くんなら外にお願いします」

 事務所に戻ったのは、8時27分だった。道路交通法を遵守していたら20分はかかる道程だ。フルブレーキで停車したロードスターの助手席で、皆守がダッシュボードに手を付きながら言った。
「間に合ったぞオイ・・・」
「良かったっすね」
「・・・ああ、助かった。さんきゅ」
素直な言葉に、夷澤が片眉を上げる。素っ気無いものではあったが、礼を言える人間だとは思っていなかった。そもそも夷澤の周りには、礼も詫びも言えない人間の方が多かった。阿門に拾われて神鳳と出会うまで、日常的に敬語を使う人間を見た事もなかった。余談だが、夷澤は神鳳と会話を交わす度にファストフードの店員を思い出す。
 些細な一言でまるで報われたような気分になる事を、一般的な教育を受けていない夷澤はその時初めて知った。どう返すべきか分からず黙ったままの夷澤を置いて、皆守はロードスターを降りて階段を上がって行った。ポケットに手を入れたまま肩と足でドアを開ける。その後姿を見ながら、夷澤は何か忘れ物をしてしまったような気分になった。
 剃り残しとネクタイが曲がっている事を指摘してやれば良かった。そう気付いたのは、駐車場から徒歩で事務所に向かっている途中だった。同時に、礼を言われたのが初めてだったという事実にも気付いた。

 事務所に戻った夷澤は、常にないほどの賛辞を受けた。
「流石ですね。まさか本当に時間どおりに連れてくるとは思いませんでしたよ」
「やるじゃない夷澤。見直したわよ」
「・・・どーも」
そんな事で見直されても。思ったが、言わないでおいた。役目を果たした事には違いない。褒められたい訳じゃない。認めて欲しいんだ。こんな子供の遣いではなく、仕事を任されたい。ちらりと阿門の様子を窺う。皆守に説教中だった。皆守は阿門の隣で、足を組んで座っている。だから何でお前はそんなに偉そうなんだ。説教されてるのに何で隣に座ってるんだ。どうして誰も突っ込まないんだ。だが阿門が何も言わない以上、夷澤にもその発言は許されない。流れて来た煙の甘さに顔をしかめ、交わされる会話を聞き流す。
 煙よりも、会話の方が甘かった。

「お前は時間どおりに来た事がない」
「だからって1時間も早く呼び出すか?」
「それでも30分の遅刻だ」
「くっそ・・・あと30分も眠れたのか・・・」
皆守の中でどんな計算が為されたのかは分からないが、30分は寝られないだろう。
「髭を剃って、ネクタイを締め直して来い」
「締めてるだろ。あと髭は生やしてるとこだ」
嘘だ。どう見ても剃り残しだ。そんなお洒落髭は見た事ない。
「・・・仕様のない奴だな」
と言いつつ、ちょっと嬉しそうなのは何故ですか阿門さん。父親だからですか。出来の悪い子ほど可愛いんですか。全然さっぱりこれっぽっちも微笑ましくないっすよ。むしろやってらんねぇっすよ。
 夷澤の内部で呟かれる独り言など知る由もなく、阿門は笑っている。もし知っていても、阿門はきっと笑っただろうが。