一日の授業を終え、醍醐がいつものように寄り道を持ち掛けた。そこに美里と桜井が参加して、つまりはいつもの面子でラーメン屋に行く事が決定される。その時点になって、漸くその疑問は落とされた。

「ねえ、京一は?」
「そういえば、午後からずっと見てないわね」
「たしか昼休みにはいたような気がするんだが」
「どっかで昼寝でもしてんじゃない?」
「いつもの寝床にはいなかった」

目撃証言を交換しても、蓬莱寺の行方は杳として知れなかった。しかしそれを真面目に取り合う者はいない。今でこそ5人でつるんでいる事が多い蓬莱寺だが、彼は基本的に単独での行動を好んでいる。ふらりと消えて、そのまま翌日まで姿をくらます事も頻繁にあった。翌日になって顔を見てどこで何をしていたかと問うても、のらりくらりと言質を取らせず、また気付けば消えているのだ。強かな半野良の猫のように、いくつかのテリトリーを渡り歩いているのだろう。余談だが、平日の昼時にパチンコ屋で目撃された事例もある。
 そんな訳で、本日は4人で帰路を踏んだ。一人足りないので旧校舎に足を運ぶ気にもなれず、いつもよりは早い時間に解散する。3人と別れ、緋勇は通い慣れた道を黙々と歩いていた。
 その道に、それは現れた。

 しなやかな仕草でとん、と緋勇の前に降り立ち、真っ直ぐに見上げるその瞳。傾いた日に映える明るい色の毛並み。その存在自体は特に珍しいものではない。街角で、路地裏で、緋勇はよくそれを目にした。つまりはなんの変哲もない猫だ。ただ一点、その有り触れた生物のとった行動だけが、緋勇に奇妙な違和感をもたらした。
 大概の動物は、緋勇を避けて通る。本能でその圧倒的な氣を感じ取るのか、或いはただ彼が動物に嫌われる体質なのか、路地裏の支配者然とした風格を持つ猫までもが緋勇の足音を聞いただけでお気に入りの寝床を明け渡して走り去った。
 目の前に現れた猫は、緋勇をじっと見上げている。

 緋勇の胸に、一筋の嫌な予感が走った。いや、あいつは猿だ。思いなおし、猫を無視して足を進める。無音で付いてくる気配を感じたが、振り向かずに前だけを見て歩いた。
 10歩ほど進んだだろうか。あろう事か、猫が裾に爪を立てた。思わぬ行動に、緋勇がビクリと身を震わせる。実のところ、緋勇は小さい動物が苦手だった。些細な衝撃で死にすら至る、か弱い存在が怖かった。強く振り払う事もためらわれて、緋勇は途方に暮れて猫を見下ろした。緋勇の靴に牙を立てながら、何かを訴えるように猫が見上げてくる。
 猿じゃない事もあるのか?疑念が浮かんだが、まだ確信には至らない。迷惑そうに見下ろす緋勇に、猫が今度は飛びかかった。膝の辺りに爪を立て、よじ登ろうとしている。察した緋勇が足を上げてその動作を阻むと、むきになって更に深く爪を立てた。俺にどうしろと。

 まずは一通りの可能性を試してみようと、緋勇はまだ膝にすがり付いていた猫を手の平ですくい上げた。猫が嬉しそうに親指に噛み付く。捻り潰すぞアホ猿。心で出来もしない威嚇を呟き、如月骨董品店へと足を向けた。












 商い中の看板を仕舞おうと表に出ていた如月を呼び止め、何はさておき手の中の猫を提示してみた。唐突に無言で差し出された猫に、如月が眉を寄せる。さすがに説明もせずに猫を差し出されて事態を把握するのは、彼でも不可能だろう。自分の不徳に気付き、緋勇が口を開いた。

「猫だ」
「・・・そうだね」
「大麻をくれ」
「ああ、そういう事か」

少ない情報で見事に事態を把握した如月が、苦笑しながら店内に招いてくれた。棚の奥から大麻を取り出し、だがその手をふと止める。緋勇の手の中でいつの間にか眠っていた猫を覗き込み、首を傾げた。

「これ、誰なんだい?」
「知らん」
「知らんって」
「道にいきなり出てきた」
「それ、普通の猫じゃないのかい?」
「お前もそう思うか」
「いや、誰でもそう思うよ」

思い立った可能性は一応試してみたが、猫が目を覚まして毛づくろいを始めただけだった。やはり違ったか、と事もなげに呟く緋勇を、如月がためらいがちに呼ぶ。

「ええと、龍麻」
「なんだ」
「道にいきなり出てきて、どうして呪詛だと思ったんだい?」
「俺を見ても逃げなかった」
「・・・へえ」
「しかも攻撃してきた」
「それはまた、勇猛果敢な猫だね」
「そうだろう」

出された茶を受け取りながら、緋勇がどこか満足気に頷く。その膝で丸くなっている猫は、まるでそこが定位置のように安心しきった顔で目を閉じている。邪険にもそこから落とそうとした緋勇の手に噛み付き、爪を立てて大暴れしたのはつい3分ほど前の事だ。緋勇から離れようとしないので店内に被害はなかったが、たしかに勇敢かつ不思議な猫ではある。緋勇という男は初対面の猫にここまで好かれるような人間ではないと、如月でも思った。

「マタタビでも持ち歩いてたのかい?」
「持ってない」
「だろうね」

真顔で否定を返した緋勇に少々脱力しつつ、そろそろ夕餉の支度を始めなければ、と腰を上げる。ふと思い立って緋勇を誘ってみたが、やはり返ったのは素っ気無い言葉だった。
 緋勇が立ち上がる気配を察したのか、猫が素早く床に降りる。軽い挨拶と礼を落として店を出る緋勇のあとを走って追いかけていった。その必死な仕草に、ふと如月の脳裡に既視感がよぎる。暫し天井を見詰め、腑に落ちた。蓬莱寺に似ているのだ。思い立ったが、そんなささやかな思考はすぐに日常の瑣末事に紛れて埋没した。












 一つ目の可能性は消えた。さて次は、と記憶を探り、ただの変な猫である可能性にぶち当たった。歩く緋勇の足にまとわり付くので、危うく踏み潰しそうになってその小さな体を持ち上げてやる。夜の街灯りを反射してきらきら光る瞳を見ても、為す術は見当たらない。指先と戯れる猫は、緋勇の迷惑など知る由もなく硬い手の平の上でご機嫌な様子だ。どうしてくれよう、この天真爛漫赤毛。

 この場で放置して走って逃げてしまおうか。本気で走れば、こんな小さな体ではきっと追いつけまい。よし、そうしよう。
 上向けていた手の平を、くるりと反転させる。急に失われた地面に慌てて、猫が袖にしがみ付いた。短い足で、落とされまいと爪を立てる。赤毛猿の分際でこの俺に牙を剥くとはいい度胸だ。見当違いの言葉を胸中で呟きつつ、抵抗する猫を振り落とそうと腕を上げる。その背中に、聞き憶えのある声が投げられた。

「よお先生、何してんだ」
「用がないなら直ちに消えろ」
「・・・随分とご機嫌斜めだな」
「見てのとおりだ。俺は忙しい」
「猫か?それ」
「猫以外の何に見えるんだ。猿か?」
「いや、猫だな」
「そうだろう、俺にも猫にしか見えない」

そう言いながら、村雨に向かって腕を持ち上げる。その腕には必死でしがみ付く猫。何を期待されているのか分からず、村雨は取り敢えずその猫の額を撫でてみた。緋勇にしがみ付く片手間に、猫が前足でぱしっとその指を払う。僅かに血の滲んだ指を引き戻し、村雨は素直に感想を述べた。

「可愛くねぇ猫だな」
「お前もそう思うか」
「いや、傍から見てるだけなら微笑ましいっつーか」
「取れないんだ」
「ああ、爪が引っ掛かってんだな」
「・・・どうしよう。やるしかないのか」
「落ち着け!なんか知らんが落ち着け!」

刀の形に手をかざした緋勇を、村雨が全力で制止した。なんとか思い止まった緋勇が、苛立たしげに息を吐く。猫は既に緋勇の肩に乗っていた。首筋に鼻先を近付け、耳の辺りで尻尾を揺らす。緋勇から物騒な氣が立ちのぼった。どうしてこの猫は怖くないのだろうかと考えながら、村雨が宥める言葉を探す。

「まあ、でも、ほら、そんなに懐かれりゃ悪い気はしないだろ?」
「・・・京一みたいだ」
「そーだろ?だったら」
「それでこんなに不愉快なんだな」

低く囁く声に、村雨が言葉を失った。それと同時に、蓬莱寺を不快に感じていたのかと、そちらにも驚いた。気安く触れる手を許しているのは、蓬莱寺が相手の時だけのように思っていたのだが。勘が鈍ったか、と、それについては早々に思考を止め、無表情に猫を見下ろす緋勇に視線を向ける。

「で、どーしたんだその猫」
「知らん」
「知らんって」
「いきなり懐いてきた」
「そりゃまた、命知らずな猫だな」
「まったくだ」

緋勇の肩先で器用に安定している猫を見遣り、如何にも不遜な目付きで睨み返されて思わず頬が引き攣った。緋勇に対する態度といい、赤茶けた毛並みといい、どこぞの生意気な剣士にそっくりだ。ああ可愛くねぇ、と口中で呟いて指先で額を弾いてみると、猫は鬱陶しげに頭を振り、緋勇の襟足に顔をすり寄せた。緋勇が顔をしかめて前傾する。どうやら身を離したかったようだが、如何せん猫は肩に乗っているのだから、体を動かせば猫も一緒に動く。少しの間そうして緩やかに奇妙な動作を繰り返し、やがて緋勇が囁くように言った。

「・・・村雨、取れ」
「でもそいつ俺のこと嫌ってるみたいだしな」
「いいから、引き剥がせ」
「手ぇ出すと引っ掻くんだよな」
「治してやるから」
「あんた、回復は自分専用じゃねぇか」
「・・・」

絶妙なバランスで立つ猫と緋勇を眺め、本当に飽きない人だ、と心中でほくそ笑む。勿論、顔になど出さない。村雨が賭けに強いのは、決して運だけではないのだ。
 暫く様子を見ていたら、緋勇が思いつめた表情でまたしても氣を滾らせた。それを感知したのか、猫が全身の毛を逆立てて緋勇の耳に齧り付く。鋭く舌を打ち、緋勇が大きく仰け反った。そのまま後ろ手に地面を掴み、両足を高く上げ、跳んだ。
 彼がどんな思惑でそのような行動をとったのかは判じかねたが、村雨はその体捌きに素直な感嘆を漏らした。音を立てて着地を果たした緋勇に惜しみない拍手を送る。気付けば、道行く人々も突然のパフォーマンスに足を止めていた。そんな喝采など意に介さず、緋勇が物凄い眼光で村雨を射抜く。

「なんでだ」
「それはむしろ俺が言いたい。何がしたかったんだあんたは」
「なんで離れないんだ」
「ああ、振り払おうとしたのか。色んな意味ですげぇなあんた」
「くそ、赤毛のくせにっ・・・」
「つーかそれでも離れない猫もすげぇな」

次の演舞を期待する行きずりの観客たちを散らし、まだ猫を肩に乗せた緋勇を引っ張って路地裏に向かう。その手はあっさりと叩き落とされたが、衆目を集めるのは彼も不本意だったらしい。大人しくあとを付いてきた。