塀の上で寝ていた野良猫が、二人の足音を聞いてさっと立ち去る。それを見た緋勇の目が、僅かに細められた。

「そうだ、猫というのはそうあるべきだ」
「こんな所で猫について語られても」
「なんでこいつは俺を怖がらない」
「そんなん猫に訊けよ」
「・・・猫とは言葉が通じないんだ」
「そんな真顔でそんな告白される日が来るなんて、長生きはするもんだな」
「村雨お前、本当は何歳なんだ?」
「先生、それは言っちゃいけねぇよ」

 街灯から逃げるように暗がりに足を踏み入れ、村雨はその気配に気付いた。緋勇の肩で、猫がピクリと顔を上げる。影から現れた男が、二人を見て「おや」と呟く。村雨よりも早くその気配を察していた緋勇が、大声でその名を呼んだ。

「壬生!」
「龍麻?どうしたんだいこんな所で」
「猫が離れないんだ」
「猫?」

きょとんと瞬いた壬生が、その時になって漸く緋勇の肩口で安定する猫を見留めた。一人と一匹がそのままの表情で暫し見詰め合い、沈黙する。
 全ての動きを止めた壬生を、後ろから村雨が「対抗すんな」と言ってはたいた。背後を取られた屈辱に、現役暗殺者が表情を鋭く研ぎ澄ます。その眼光をさらりと流して、村雨はさもうんざりした目付きで壬生を睥睨した。負けじと眼差しをきつくする壬生と村雨の間に、空気を読もうなどと考えた事もない緋勇が割って入る。空気は読む物ではない。かもし出す物だ。

「壬生、お前は俺を裏切らないな?」
「え、ええと、うん、まあ、今のところそんな予定はないけど」
「猫を取りたい。協力してくれ」
「・・・憑き物?」
「たぶん違う」

言いながら、緋勇が猫の頭を鷲掴もうとして失敗した。するりと身を躱した猫が、反対側の肩に乗り移って黒髪にすり寄る。猫とは逆の方向に首を傾けつつ、緋勇が手短に事情を説明した。

「猫が懐いてきて困ってる」
「ふうん」
「俺はどうしたらいい?」
「飼ってあげれば?」
「それは出来ない」
「ああ、ペット禁止だっけ?」
「それ以前に動物は嫌いだ」
「人間も動物だよ」
「じゃあ人間も嫌いだ」
「じゃあって。キミさ、その根拠のない断言口調やめた方がいいよ」
「根拠がある事も無きにしも非ず」
「素直なのがキミのいいところだとは思うけど、何が言いたいのか分からない」
「人間も好きじゃない」
「ボクも人間なんだけど」
「お前は別だ」

緋勇が放った言葉に、壬生が口を閉じて目を見開いた。我に返って緩む口元を隠しながら、まったく隠せていない喜びを体中から滲ませる。村雨はそんな二人を横から眺めている。ふと、猫と目が合った。やってらんねぇな、と視線で呟くと、猫はふいと目を逸らす。媚びないその態度が、何故だか急に好ましく感じられた。
 まだ緋勇と見詰め合っている壬生に視線を転じ、からかう口調で言ってみる。

「なあ壬生、さっきから俺もいるの気が付いてるか?」
「気付いてたけど無視してました」
「見くびるな、壬生がお前如きに後れを取る筈がない」
「なんなんだお前らは」
「ただの表裏の龍だよ」
「さっぱり分からん」
「まあ、貴方には分からないだろうね」
「そうだな、村雨には分かるまい」
「あー分かんねぇな、一般人の俺にゃあな」
「そんなに拗ねるな村雨」
「騙されるな龍麻、陰陽師は一般人じゃない」
「いや、精神的にはここにいる誰より一般人だと思うんだがな」
「素人をカモにして裸に剥くのは一般的じゃない」
「・・・意外と根に持つんだな、先生」

緋勇と猫に睨まれ、大人しく両手を上げる。左手の中指と薬指の間に札が挟まれていたのはご愛嬌。そもそも蓬莱寺は自分の意思で受けた勝負に負けたのだから、恨むのは筋違いというものだろう。
 そんなにあの間抜けな相棒が可愛いか、と言おうとして、村雨はふと思い出した。蓬莱寺に似ているから不愉快になる、と緋勇は言っていた。全力で振り払っても懐いてくる。それはもう呆れるほど一心に、夢中になってしがみ付いてくる。凄絶な氣にも怯まず、無邪気に鼻先をすり付けてくる。
 猫を手の平に乗せて、壬生と額を突き合わせている緋勇に視線を流す。

「なあ先生」
「なんだ」
「そんなに嫌なら、もっと他に手はあるだろうよ」
「・・・たとえば?」
「ん?そうだな、たとえば」

と言うや否や、村雨は猫を引っ掴んで取り上げた。手の中で激しく暴れだしたが、所詮は子猫の牙と爪だ。立てられたところで、翌日には跡も残らないだろう。慈しむような手付きで、指を猫の首に掛ける。その時の緋勇の表情たるや、もう村雨としては腹を抱えて笑い転げるしかなかった。現実には口の端を歪めるだけに留めたが。
 そんな事は想像もしていなかった、とでも言うように、緋勇が驚愕に目を見開く。指にほんの少し力を込めただけで、手を切っ先のようにして突き出した。今度こそ声を上げて笑い、猫を投げ返す。

 前触れもなく宙に放り出された猫を追って、緋勇が地面に向かって体を投げ出した。両手で受け止めた猫を取り落とさぬ為に、受身すらとらずに薄汚れた路地裏で地に伏す。
 壬生が、それを呆気にとられて見下ろしていた。往来で猫を振り払う為に鮮やかな後転まで披露してくれた緋勇を、彼は知らない。

「・・・村雨さん、やきもちですか?」
「お前と一緒にすんじゃねぇよ」

 緋勇はうつ伏せたまま、両手だけを高く上げている。その手から猫がひらりと飛び降りた。まだ地面を見詰めている緋勇の頬に鼻を近付け、舌で皮膚を撫でる。それを手の平で押し退けながら、緋勇がゆっくりと身を起こした。服を払い、冷ややかな目で猫を見遣ってから、同じ瞳で村雨を見る。
 いまいち事態を把握していない壬生が、常になく柔らかい表情で言った。

「そんなに好きなら、問題ないんじゃないかな」

足にじゃれ付く猫を見下ろし、緋勇が深く溜息をつく。難儀な人だな、とは言わないでおいた。












 翌朝、緋勇が目覚めると、昨夜までは確かに布団の中にいたぬくもりは消えていた。夢現に、かすかに喉を鳴らす音が聞こえていたのを憶えている。少なからず落胆はしたものの、どこかで安堵もしていた。壊れやすい命を傍に置いて生きられるほど、緋勇は強くない。
 もっと強くなりたい。激しく叫ぶのではなく、じわりと染み入るようにそんな言葉が降りてきた。

 いつものように登校すると、いつもより上機嫌な蓬莱寺が廊下で緋勇を追い越した。その直後、桜井に大声で名を呼ばれ、慌てて緋勇の所まで戻ってくる。

「京一!昨日どこ行ってたの!」
「え、ああ、ちょっとな」
「どーせどっかで遊んでたんでしょ」
「お前な、俺がいつも遊んでばっかだと思うなよ」
「じゃあ何してたのさ」
「まあ、色々と」

緋勇を挟んでネット際のラリーのような会話が飛び交う。それを右から左へと聞き流し、緋勇がふと腕を上げた。蓬莱寺の髪に手の平を置き、次いでその瞳を覗き込む。唐突に接近した緋勇の顔に、蓬莱寺が戸惑いつつも疑問を返した。それには答えず、猫と同じ色の瞳をじっと凝視する。

「え、と、あの、ひーちゃん?」
「ええと、あ!ほら!ひーちゃんも怒ってるよ!」
「怒ってんのか?これ」
「・・・違う、かな?」
「おーいひーちゃーん?顔近いぞー」
「京一、やっぱ何かしたんじゃない?」

と桜井が言い終わる前に、蓬莱寺から手を離して足を振り上げた。そのまま左肩を狙って振り下ろす。横で成り行きを窺っていた桜井までもが驚いて声を上げた。
 蓬莱寺が咄嗟に上げた腕で蹴りの軌道を逸らし、不意打ちの踵落しを無効化する。ほぼ同時に、得物を自分の胸に引き寄せていた。次手を放てば、間違いなく彼は反撃を開始するだろう。まだ僅かに戸惑っている瞳が瞬時に攻撃性を含んで研ぎ澄まされ、緋勇を真っ直ぐ見据えるに違いない。彼は強い。もしかしたら、緋勇よりも遥かに。
 満足気に一つ頷き、緋勇が教室に向かおうと踵を返す。あとに残された蓬莱寺と桜井が、呆然としたまま顔を見合わせた。

「何やらかしたの?京一」
「いや、なんもしてねぇ、と思う、たぶん」
「まあ、ただの挨拶かもね」
「あ、ああ、そうかもな」
「ほんっとぉーに何もしてなければ」
「・・・」
「したの?」
「いや!してねぇ!よな?」
「訊かれても」
「ああでも、こけたのって俺の所為かも」
「え、こけたの?」
「うん、けっこー思いっきり」
「結局さ、何してたの?」
「んー、如月んとこ顔出してー」
「あ、ずるい!ボクも行きたかったー」
「あとはまあ、そこいらブラブラしただけだよ」
「結局、何してた訳でもないんだね」
「あ、壬生と村雨にも会ったな」

二人の会話は、緋勇の耳にはもう届いていなかった。