ベッドに身を投げて、自室の物とは違う香りのシーツに突っ伏す。外界を遮断しようと頭まで毛布を引き上げても、しかし世界は変わらずに皆守を苛んだ。こんな薄い防御壁では、安寧など望むべくもない。ならば心に障壁を作ろう。何も寄せ付けぬよう。
夢の入り口でそんな事を考えていた皆守の耳に、なんだかやけに楽しそうな声が届いた。
「ルイせんせー、お邪魔しまーす!」
「ああ、つまり君が葉佩という訳だね?」
「いや、俺は夷澤っすよ?」
「似てねぇ物真似やめろ!」
「似てねぇも何も、本人だろ」
「俺はそんなんじゃねぇ!」
薄ら笑いを浮かべる夷澤と、狂犬のごとき獰猛さで喚き立てる葉佩を見詰めながら、劉はふと思った事を、彼女にしては珍しく思ったまま言葉にしてみた。
「葉佩は、そういう表情をすると年相応に見えるな」
「はい?」
「本物の高校生のようだ」
「え、ええと、一応、ほんとの高校生ですけど?」
「それを誰よりも信じていないのは、君自身じゃないか?」
夷澤が笑みを消して口を閉じた。葉佩がきょとんとした顔で、そのやり取りを眺めている。ちなみに、皆守はもう入場料を必要としない夢の国に旅立った。
瞬きも忘れて劉を凝視する瞳が、獣のような警戒心を宿し始めた。やはり口に出すべきではなかったと、劉が胸中でこっそり嘆息する。身の内の闇こそ、彼が最も探索すべきものではないか。柔らかい笑みを作って見せてから、首を傾げている葉佩に視線を流す。
「さて、では話してくれ」
「は?」
「どうしてそうなった?」
「ええと、廊下でぶつかったら、なりました」
「そうか、よく分かった」
「戻れるんすか?」
「もう一度ぶつかればいい」
今この手を開けば、煙管は落下する。至極当然の事を言うように、劉はあっさりと言ってのけた。あまつさえ「手伝ってやろうか?」などとどこか楽しげに言い募られて、夷澤と葉佩は互いの表情を窺おうとして結果的にばっちりと目を合わせた。
女の細腕と侮るなかれ。彼女は訓練された《宝探し屋》にも匹敵する、あるいはそれ以上の戦闘能力を誇る立派な戦士だ。しかし仮の姿であれ保険医を名乗るのであれば、もう少し穏やかな解決策を提示してもらいたいものである。これは職務怠慢ではなかろうか。そんな言葉にならない思いが、二人の脳裡を駆け巡る。
先に声を発したのは、夷澤だった。
「よし!じゃあ皆守とぶつかってくる!」
「『よし』じゃねぇよ!欠片ほども『よし』じゃねぇ!」
「まーまー、皆守になったら見せてやるから」
「何をだよ!」
「そーだなーどこがいいかなー」
「逃げてー!皆守先輩!逃げてー!」
騒々しさに耐えかねて、皆守が薄く目を開けて夷澤を睨んだ。普段は望洋とした瞳が、時折ほんの一瞬だけ怖気を誘うような眼光を見せる。それは、彼がその態度に反して、身の内に炎を有している事実を証明する。夷澤が、狂人のように唇を歪めた。それをさも薄気味悪そうに見ていた葉佩が、投げやりな口調で呟く。
「皆守先輩、逃げた方がいいっすよ」
「まあ待て、話は分かった」
「え、分かったんすか?」
「葉佩」
「・・・」
「・・・」
「お前だ」
「ちっ違います!葉佩はあっちっすよ!」
「あ、そうか」
葉佩の襟首から手を離して、皆守が夷澤に向きなおる。不機嫌にくすぶる双眸に射抜かれて、夷澤が懐に手を入れてから目当ての物を携帯していない現状に気づき、今更ながら少しだけ怯んだ。それには構わず、皆守がそのままの表情で囁く。
「それ、夷澤だぞ」
「うん?」
「俺が夷澤になるのか?」
「あー、そうなっちゃうねー」
「いいからお前らはとっとと正面衝突でもして早いとこ元に戻れ」
「でもなー痛いのやだなー」
無意識なのだろう。夷澤がポケットに手を入れて、やはり目当ての物を探し出せずに頼りなく手をさまよわせる。胸に触れ、慣れない眼鏡をいじり、髪を掻き、ふと手を止めた。もう一度、下ろしかけた手を髪に触れさせる。
「夷澤!お前って髪さらさらなんだな!」
「くそどうでもいい!」
「がっちり固めてるかと思いきや!すげぇ手触りいい!」
「そ、そうなのか?」
「皆守も触る?」
「え、じゃあ、ちょっとだけ」
「っだらぁ!ってんじゃねぇ!」
「すまん聞き取れなかったがもう一回は言わなくていい」
夷澤の髪を撫でる皆守に、葉佩が泣きそうになりながらすがり付いた。劉は完全に傍観の構えをとっている。吐き出す紫煙すらどこか優美で、彼女を飾るかのようだ。つられて無意識にアロマを欲したが、それより皆守は、まだ掴まれている腕の重さに溜息をついた。
誘われて触れた後輩の髪は、言葉どおり柔らかくてたおやかだった。ふと自分の頭に手をやって、同じ人間なのにこうも違うものかと純粋に驚く。
「葉佩」
「ん?」
「お前じゃない」
「あ、そうだった俺じゃないや」
「お前もちょっと触らせろ」
「え、ちょ、ま、なん」
「怪我したくなかったら抵抗するな」
「落ち着いてください!俺は葉佩先輩じゃないっすよ!」
「葉佩だと触りたくないが、お前なら触れそうな気がする」
「葉佩先輩、なんか珍獣扱いされてますけど」
「チンとか言うなよーエロいなー」
「お前はちょっと黙って産まれた事を反省してろ」
横から何やらまくしたてる夷澤は無視して、短く刈り込まれた黒髪に触れる。しばしその感触を確認する間、葉佩は歯を食い縛って何かに耐えていた。手が離れると同時に、全身を脱力させて大きく息を吐く。
「成る程」
「な、なんか判明しました?」
「人それぞれだな」
「想像以上にどうでもいい感想でしたね」
「あ!ねえ思ったんだけどさ!」
「うるせぇ」
ベッドの片隅で膝を抱えて反省しているふりをしていた夷澤が、唐突に起き上がった。と同時に、皆守に額をばちんと弾かれて再びシーツに突っ伏した。打たれた額を押さえようとして指を眼鏡に引っ掛けてあたふたしている夷澤を横目にも見ず、皆守がアロマを銜えて火を点ける。ゆるりと漂い来る甘い香りから目を逸らす葉佩に、冷たい視線を流した。
「チャンスだ。やれ」
「え、いや、そんないきなりハードな命令されても」
「早く頭突きしろ」
「ああ、そっちか」
「殺す気だったのか?」
「まあ、必要とあらば」
「そういえば、お前ってそうだったな」
「ねえ、思ったんだけどさ」
「うるせぇ」
ベッドの片隅で膝を抱えて反省しているふりをしていた夷澤が、おもむろに起き上がった。と同時に、皆守に額をばちんと弾かれてまたしてもシーツに突っ伏したが、今度はすぐに立ち直った。
「なんでだよ!」
「夷澤だから」
「あ、そうか、じゃあしょうがねぇな」
「どーゆー意味っすか!」
「べっ別に羨ましいとか思ってねぇからな!」
「え、いや・・・え?」
「で、思ったんだけどさ」
「なんすか?」
「今の俺、凍拳できるかな?」
「さあ」
「凍っちまいなぁ!」
「出ないっすね」
「出ないな。なんか、コツとかある?」
「ええと、こう、ぐああ!って感じで」
「ぐああ!」
「いや、言うんじゃなくって」
なんだかんだで仲の良い二人にベッドを明け渡し、皆守は保険医に無言で目礼して部屋を辞した。やはり少々寒くとも屋上にしようと考えながら階段に足をかける。なんだかとても疲れているのは何故だろう。重たい体をどうにか屋上まで運びきって、皆守は日向で丸くなって目を閉じた。
きっとまた悪夢を見るだろうと、脳の片隅でちらりと予感が揺らめいた。しかし現実の方がより悪質だ。予感は気にせず眠りへと落下する。
なんだか嫌な夢を見たような気がして、寝床をあたたかいベッドに移そうと考えた。屋上をあとにして、寮に向かう。背中を丸めてぺたぺたと足音を立てて、靴の踵を踏みながら歩く。その足を止めたのは、聞き憶えのある声だった。
「皆守先輩!」
これは、夢の続きか。否定も肯定も不可能だったので、皆守は走り寄ってきた夷澤に爪先を叩き込んだ。それを予想していたのか、夷澤が瞬時に進路を変える。咄嗟に重心を移動させ、攻撃を落とす場所を修正し、少しばかり体勢を崩しはしたが皆守の目が確かに標的を捉える。直後、夷澤が手の平を見せて叫んだ。
「待ってください!戻りました!」
「ん?戻ったのかお前ら」
「本人っす!正真正銘!」
「ふうん」
「なんでちょっとがっかりしてんすか」
「どうやったんだ?また正面衝突したのか?」
そんなに頻繁にある現象ならば、戻る方法を聞いておいても損はないだろう。そう考えての発言だったが、その答えを聞く前に誰かが廊下を全力疾走してくるのに気付いた。葉佩だと判断するより早く、泣きそうな声が耳に届く。
「皆守先輩!それ偽者っすよ!」
「は?」
「騙されちゃ駄目っす!俺らまだ戻ってないっすよ!」
「え?」
「いや戻っただろ!戻ったんすよ皆守先輩!信じてください!」
「・・・」
「今、もうどうでもいいって顔しましたね!?」
「心を読むな」
「いや、あからさまに出てましたよ」
「そうか」
信じられるものなど、どこにもない。皆守はそんな事実をもう知っていたので、眼前の光景にどのような感情も持ち得なかった。なので、どのような感情も持たず、ただ思ったままを口にした。
「めんどくせぇからどっちも俺の敵でいいな」
一人が怯み、一人が笑った。
どうして判別できないなどと思うのか。
この俺を、誰だと思ってやがる。
見出した攻撃対象に微笑み、皆守は唯一にして最強の武器を振り上げた。
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