なんだか嫌な夢を見たような気がして、寝床をあたたかいベッドに移そうと考えた。屋上をあとにして、保健室に向かう。背中を丸めてぺたぺたと足音を立てて、靴の踵を踏みながら歩く。その足を止めたのは、聞き憶えがあるようなないような声だった。
「みーなかーみせーんぱい!」
変な節をつけて、夷澤が満面の笑みで走り寄ってきた。皆守の普段は怠惰な警戒心が、急激に上昇する。ぞわりと背筋を走ったのは、本能的な恐れだった。ほぼ無意識に、突進してくる後輩の顔面に爪先を叩き込む。しかし夷澤はそれを予測していたのか、はたまた優れた反射神経が発揮されたのか、鋭い回し蹴りをするりと躱してみせた。そのまま皆守の死角に入り込み、振り上げられた足を無造作に掴む。掌握された唯一にして最強の武器を取り戻そうと、皆守が軸足を捻じって重心を移動させる。その抵抗を押さえつける事もなく、夷澤はあっさりと手を離した。
「なんの用だ」
「や、ちょっと面白い事があったんで」
「そうか、日記にでも書いとけ」
「日記なんかつけてねぇよ」
「今日からつけろ」
「よし分かった。タイトルは『皆守観察日記』だ!」
「おいこら二年坊、その口の利き方はなんだ」
「あ、すんません先輩!」
嬉しそうに笑った顔に、思考すら間に合わず踵を落とす。それすら的確に打ち払った夷澤は、頭がおかしくなったのかと思うほど楽しそうにしている。いつも苦い顔をしているような印象があったのだが、よほど面白い事でもあったのだろうか。そこまで考えて、皆守は胸に渦巻く違和感の正体に気づいた。
夷澤は、この《學園》で役目を持っている。それは即ち、人として持つべきものを放棄して、代わりに能力を得たという事に他ならない。自分の根拠を捧げて、居場所を与えられた。自ら囚人に成り下がる事を選択した人間は、そんな風には笑えない。それは理路整然とした思考ではなかったが、瞬間的に湧き上がり、皆守に一つの事実を確信させた。
「誰だお前」
「え、夷澤っすよー」
「違う。お前は夷澤じゃない」
「ふうん、なんでそう思う?」
「なんとなく」
「勘ってやつ?」
「さあな」
応えながら、皆守が立ち方を変えた。左足を引き、体を斜めにして右肩を前に出す。それを察した夷澤が、笑みを更に深くした。見憶えがある。そんな風に笑う人間を、皆守は知っていた。我が物顔で人の領域に踏み込み、無遠慮に暴き立て、獰猛に笑うその表情。
「あいつは、どこにいる?」
「誰?」
「葉佩」
夷澤の唇が、三日月のように弧を描いた。それは笑みではない。あるいはあの男に出会う前なら、なんの疑問もなくその亀裂のような歪みを笑顔に分類していたかも知れない。
皆守が踏み出す。ほぼ同時に、横から何かが追突してきた。避ける暇もなく、もろとも床に倒れ込んだ。
「なんだいきなり!」
「すんません!でもちょっと待って!」
「あれぇ?葉佩先輩じゃないっすかぁ」
「その胡散くせぇ笑い方やめろ!」
「お前こそ、俺の体でエロい事してんじゃねぇよ」
頭上を行き交う言葉を聞いて、皆守は事態を把握した。そういう事か。いや待て、どういう事だ。つまりこれは、ああそうか、以前も同じような事があった。あれは、葉佩と七瀬だったらしい。全ては何もかもが終わってから聞いた話だ。信じがたいが、七瀬の奇行を目の当たりにした皆守は、それを信じざるを得なかった。
まだ腹の上に乗っている葉佩をどかして、皆守はゆっくりと身を起こした。
「夷澤」
「はい」
「うっす」
「俺を巻き込むな」
「こいつに言ってください」
「こいつには言っても無駄だ」
「さすがに分かってらっしゃる」
「俺はそんな喋り方しねぇ!」
「皆守せんぱーい、俺ってだいたいこんな奴ですよねー」
「いや、そこまで気持ち悪くない」
断言すると、夷澤が片眉を上げて顔を歪めた。そんな表情すらもどこか愉悦を含んでいるように見えて、皆守が小さく舌を打つ。可愛い後輩とまでは言わないが、夷澤は同胞であると認識している。同じ闇の中にいて、同じものに囚われている。今まで意識にも上らなかったが、皆守はずっとそう思っていた。同病相憐れむ。なんとでも言えばいい。他者には理解しがたい共感が、そこには確かに存在していた。
「葉佩」
「・・・」
「・・・」
「葉佩!」
「先輩、顔が怖いっすよー」
「夷澤に何しやがった」
「いや、ちょっと廊下で正面衝突しちゃってさぁ」
なんかあれ以来、癖になっちゃったみたい。そう言って笑った顔は、確かに夷澤の物だった。いつも拗ねたように目つきを尖らせ、物言いたげに、しかし無言で世界を睨む、《生徒会》が誇るチンピラ役員。あれ?あんまり誇らしくないぞ?まあいいか。
「とにかく、俺の可愛い後輩に手を出すな」
「え、お前らそんなに仲いいの?」
「実は俺は、夷澤が意外と好きだったという事に、たった今気づいた」
「たぶんそれ錯覚だと思う」
「まあ、俺もそう思いますが」
的確な否定と、それに対する同意の言葉に、皆守がふと冷静になった。まあ、可愛くはないな。沸騰しかけた精神が、徐々に常温へと戻ってゆく。それをぼんやり見詰めていた夷澤が、ふと口を開いた。
「あ、もしかしたらさ、中身が俺だからじゃね?」
「で、誰なんだよお前は」
「騙されちゃ駄目っすよ先輩!そっちが葉佩っす!」
「呼び捨てかよ」
「面倒臭くなってきた、お前らとっとと戻れ」
「やっすよ!こんなに楽しいのに!」
「俺の顔で笑うんじゃねぇ!」
満面の笑みを浮かべる夷澤と、それに噛み付く葉佩を前にして、皆守は理解を諦めた。あるがままに受け入れよう。夷澤は頭がおかしくなって、葉佩がチンピラになった。嘆かわしいが、それが現実なのだ。受け入れずして生きてゆく術はない。あまり変わっていないような気もするので、受け入れるのにさほどの苦労もないだろう。
怠惰ゆえの諦観を見詰める皆守の横で、夷澤が自分の体を触りながら嬉しそうに笑う。
「でも夷澤すげーよ、いい体してるよな」
「そりゃ、鍛えてますから」
「腹筋が割れてんだぜこいつ!皆守も見る?」
「おいこら脱ぐんじゃねぇ!」
「知ってる」
「な、なんで!」
「見た」
「どこで!」
「・・・」
「なんで目ぇ逸らすんだよぉ!」
「や、たぶん風呂場かなんかだと思いますけど」
そういえば寝床を求めて歩いていたのだと唐突に思い出し、皆守はまだ喚いている二人を置いて立ち上がった。当然のように二人も立ち上がり、何事か言い合いながらあとを付いてくる。
「どーせなら皆守と入れ替わりたかったなー」
「そぉっすかぁ?腰痛持ちっすよあの人」
「知ってるか夷澤」
「どうせ嘘でしょう」
「皆守の腰痛は、俺の所為なんだ」
「コブラツイストでもかけたんすか?」
「違うだろぉ!もっと想像力を働かせて!はいもう一回!」
「あ、卍固めっすか?」
「お前、男やめちまえ」
目的地に着く前に始まってしまった私闘は無視して、辿り着いた保健室のドアを開ける。既に響き渡っていた物音から、聡明なる保険医は事態を察していたようだ。心底から鬱陶しそうな目でちらりと皆守を見遣り、その背後で仲良く殴り合う二人から目を逸らした。
「おい保険医」
「なんだい生徒」
「なんとかしてくれ」
「無茶を言わないでくれ」
「・・・そうか」
しょんぼりと肩を落としてベッドに潜り込んだ皆守に、今日ばかりは彼女も何も言わなかった。疲れ果てた心情を汲んでくれたのだろうか。魂魄と肉体についての講義が始まるより早く、皆守はあたたかいベッドに包まれて目を閉じた。それが逃避だなどと、言われなくとも分かっている。逃げる事の何が悪い。安らかに在りたいと思う事の、何が悪い。姑息な手段と笑わば笑え。その日が来るまで、皆守は何物にも立ち向かわないと決めている。
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