縁側に腰掛けて傾いた月など眺めていたら、莫迦弟子が珍しく気の利いた物を持って顔を見せた。相棒が他の奴と遊んでいるから、と訪問の理由を告げられたのだが、決して少なくはないだろう友人ではなく俺を選択した理由については口を噤んだ。俺も詮索はしなかった。
 秋はいけない。特に秋の宵口は、心が過去を引いてくる。古い友人がひょいと垣根から顔を覗かせて、ああこんな所にいたのか、などと笑いながらゆっくりと歩み寄って、断りもせずに隣に座る。そんな夢を、覚めたまま見てしまう。あいつの喪失を未だに信じていない愚かな心が、まるで現実のように記憶を映し出すのだ。

 差し出された瓶の口に杯を合わせれば、心地好い香りがふわりと広がる。上物だぜ、と言って誇らしげに笑う顔を見返せなくて、月を見たまま口の端を歪めた。
 しばらく無言で杯を重ねていると、ふと京一が庭の隅に視線を向けた。漫然と眺めるのではなく、注視しているのだと察して、同じように目を凝らす。

 宵闇に紛れて黒い猫が、垣根の隙間からゆるやかな足取りでこちらへ寄ってきた。ぼんやりとその姿を追っていると、猫は断りもせずに縁側にひょいと乗り上げ、俺の隣に座った。
 飼ってるのか?と問われ、そんな記憶はないと本心から返す。まあいいか、と口中で呟いて杯を呷った。猫は特に何をする訳でもなく、ただじっと座って月を見ている。あるいは他の何かを見ているのかも知れないが、確かめる術はない。反対側に座っている莫迦弟子も、こんな夜は饒舌を嫌うと心得ているのか、はたまたただの気紛れなのか、何も言わない。

 とん、と腰の辺りに生あたたかい物が触れた。見当はついたが見下ろして確認すると、予想どおり猫が寄りかかっていた。目を閉じて無防備に体重を預けるその仕草が、なんだかとても懐かしい。黒い毛並みを撫でてやると、猫は喉を鳴らして手の平にすり寄ってくる。思わず頬を緩め、そうしてから背後で発せられた物凄い殺気に全身が総毛だった。これも懐かしい感覚だ。

「おい、どうした?」
「どうもしてねぇよ」
「それにしちゃあ物騒な氣だな」
「その猫、いつも来るのか」
「いや、初めて見る猫だな」
「随分と懐いてんな」
「ああ、懐っこい奴だな」
「俺は素通りだったのに」
「あ?」
「見向きもしねーでそっち座りやがった」

吐き捨てるようにそう言った京一は、ぐいと勢いよく杯を空けて一升瓶を取り上げた。なんだこいつ。何を拗ねてやがる。と考えてから、名案を思いついた。からかい半分で、もう半分は本気で、うわついた赤毛に手を伸ばす。

「なんだ、お前も撫でて欲しかったのか」
「ちげーよばか!タチのわりぃ酔い方してんじゃねぇ!」
「そーかそーか、相棒に袖にされて寂しかったんだな」
「うるせぇ!」

鋭く払い除けられる前に手を引いた。空を薙いだ京一の手が、ゆらめいて落ちる。俺と同じような手のなのに、俺が掴めなかったものを持っている。永遠と刹那の両方が、その硬い手の中にある。羨むほど惨めではないが、心臓がほんの少しだけ痛んだ。
 京一が軽くなった瓶を持ち上げ、自分の杯に注ぐ。俺にも注げと差し出せば、ずいと一升瓶が押し付けられた。手酌で杯を満たし、完全に酔いと他の何かも回りきった莫迦弟子の横顔を見る。

「ひーちゃんはひでーよ」
「そうか」
「俺より醍醐とやる方がキモチイイってよ!」
「その言い回しやめろ」
「紫暮も紫暮だよな」
「誰だよ」
「あっからさまに浮かれちまってよー、見てらんねぇ」
「それはお前も負けてないから安心しろ」

いつの間にか膝に乗ってきた猫を片手で構いながら、盛り上がってきた京一の声を聞き流す。絡み酒か、厄介だな。猫の喉をくすぐりながら、心の中で溜息をついた。ところでこのゴロゴロいう音はどうやって出してるんだろう。声帯から出てるのだろうか。疑問に思ったので、口の中に指を突っ込んでみた。噛まれた。

「何してやがるこの変態!」
「うお!なんだいきなり!」
「触るな!」

と叫んで、すっかり酔っ払いと化した莫迦弟子は、俺の膝の上の猫をひったくった。途端に暴れだした猫に一瞬だけ泣きそうな顔をして、次にかなりの勢いで猫を胸に掻き抱いた。おい、渾身の力で嫌がられてるぞ。

「どーせ俺は嫌われてるよ!」
「まあ、しょーがない気もするが」
「信用されてねぇし!」
「間違いなく警戒されてるな」
「なんで俺の方に来ねーんだよ!」
「知るかそんなん」
「俺がいねーと駄目なくせに!」
「おい、誰の話してんだ?」

 隙を突いて京一の腕から飛び出した猫が、毛を逆立てて低く唸った。立ち上がって太くなった物を後ろから握り、まあ落ち着けと双方に向けて言う。尻尾を引っ張られた猫が、ビクリと震えて一寸ほど飛び上がった。こちらを振り向き、鋭い目で俺を睨み、尻尾の先端だけを左右に振る。先から付け根へと逆撫ですると、猫は身をよじって床を掻いた。
 噛まれて引っ掻かれて蹴られた京一が、世にもおぞましいものを見る目でこちらを見ている。

「本気で、お前、何してんの?」
「どっちかっつーとそれは俺が言いたい」
「なに、え、お前らってそうなの?」
「俺と誰がどうだって?」
「俺、邪魔だったか?」
「なんだか分からんが落ち着け」

 またしても膝に乗り上げて丸くなった猫は、もう我関せずとばかりに目を閉じていた。この気紛れっぷりは、なんだか誰かに似ているような気がする。掴んだと思ったらするりと躱し、かと思えば自分に都合のいい時だけすり寄ってくる。気位が高いようで、それでいて寂しいと瞳が無音で語っているような、空漠を胸に抱いたまま微笑むような。

 ああ、あいつによく似てる。

 夜が来ると思い出す。月を見ると思い出す。雨音を聞くと思い出す。風が吹くと思い出す。朝が来ると思い出す。
 道の上で見た遠い街の灯、縁側で聞いた蝉時雨、蕎麦屋の少し傾いだ暖簾、笑い合った仲間、届かなかった想い、火鉢で爆ぜた熾き火の色、最後まで声にはしなかった言葉、夜を駆け抜けた足音、頬を打った雨の味。
 ただ悔しかった。ただ嬉しかった。本当に、ただそれだけだった。それだけでよかった。

 急に脱力して座り込んだ京一は、自分の腕に顔を埋めてあからさまに落ち込んでいる。膝の上のぬくもりを振り落とすのは不可能だったので、この上下動の激しい酔っ払いに与えられるのは声だけだった。

「おい、そんな所で寝るな」
「寝てねぇ」
「今頃あいつ、待ってるぞ」
「待ってねぇよ、俺なんか」
「帰れよ」
「やだ」
「どこ行くんだ」
「寝る」

まだ口中で何事か呟きながら、京一は奥の間によろよろと消えていった。

 帰る場所が欲しかった。さすらってはまた流れる、そんな我が身を憐れんでくれる人が欲しかった。変わらずそこにいて、一つ所に留まれない俺を、笑って迎えてくれる人が。ずっと憧れていた故郷というものが、あいつだったらいいのに。

 膝で眠っていた猫が、ふいに起き上がって床に降りた。どこぞへ帰るのかとわずかばかりの寂寥を覚えたが、猫は何故か奥の間へと走り出す。訝しみ、腰を上げてあとを追うと、畳に突っ伏した莫迦弟子につまずいた。毒づきながら見下ろせば、その腹の上でくつろぐ猫。
 重たいのか、京一が眠ったまま猫に手を伸ばした。その手に鼻先を寄せ、猫が目を細める。指に甘く牙を立て、ざらりと舌で撫でる。額に触れた手の平に、嬉しそうに喉を鳴らした。

 俺が縁側に戻って一人飲みなおしたのは、言うまでもないだろう。



















翌朝