未だ固く閉ざされた枝先の蕾みを見上げ、蓬莱寺はその幹に触れた。いつものようによじ登って昼寝をするのもいいが、今日は地べたに横臥したい気分だ。風も好きだが、たまには地に身を預けるのも悪くない。哲学者のような顔でそんな事を考え、敬虔な信徒のように地面に膝を付く。そうしてから、少し砂利の混じる土に勢いよく寝転がった。大口を開けて欠伸をしながら両腕を伸ばし、喉の奥で小さく唸る。
今日は朝から緋勇の顔を見ていない。昨日の様子を思い出し、体調を崩したのだろうかと脳の隅で心配のように、或いは好奇心のように考える。風邪を引いて弱りきった彼の姿を思い描こうとして、どうしても想像できなくて、蓬莱寺は苦く笑った。どうせサボりだろう。そう結論付け、ゆるゆると降りてきた睡魔に意識を投げ出した。
聞こえてきた鐘の音は、始業の合図だろうか。それとも終業の合図だろうか。夢と現の界面で、泡のようにそんな疑問が浮遊している。ふと目を開けたのは、何がしかの気配を察したからなのかも知れない。もしくは、ただ目蓋の裏の薄闇に飽きただけかも知れない。
自ら閉ざした視界を自らの意思で開く。その視界に、黒い猫が存在していた。蓬莱寺から少し離れた場所で、何をするでもなく座っている。野良が迷い込んだのだろうか。蓬莱寺がこの猫のテリトリーに無断で立ち入ってしまった可能性もある。暫くぼんやりとその黒い毛並みを眺めていたが、ふと思い立って手を伸ばしてみた。甘やかされた飼い猫ならば、寄ってくるに違いない。
だが猫はちらりと流し目を送ってきただけで、つんと鼻先を逸らした。うっわ可愛くねぇ!思わず嬉しくなってしまう。
飼われている動物も、動物を飼う人間も、否定する気はさらさらない。だが蓬莱寺は思うのだ。人間も含め動物は、誇り高くあるべきだ、と。与えられた餌と寝床を拒否する事が誇りではない。誰彼構わず牙を剥き警戒する事でもない。ただ己を知り、己の欲するものを知る事だ。この猫はそれを知っている。と、蓬莱寺は眼前に座る黒猫の気質をそのように設定した。それが真実かどうかなど、どうでもいい。ただ自分が楽しむ為に勝手に想像しているだけだ。
要するに、蓬莱寺は人懐っこくない動物が好きだった。本能のままに生きている気がする。その方が、より自由に近いように思えるのだ。
一人で盛り上がっている蓬莱寺には一瞥すらくれず、猫はじっと芝生に座っている。何かを待つように、または、去ってしまった何かを悼むように。
目を合わせずに様子を窺っていると、猫がするりと立ち上がった。あ、行っちまうのかな。胸中で呟き、短い邂逅を惜しむ。しかし予想に反して、猫が立ち去る気配はない。音も立てずにゆらりと尻尾を揺らし、蓬莱寺を中心に半径3メートル弱の円周をなぞるように歩く。視線はやはり逸らされているが、意識がこちらを向いているのは分かった。時折ピクリと耳が動く。何を探っているのだろう。
鐘が鳴り、人のざわめく声が聞こえてきた。どうやら終業の鐘だったらしい。気付けば高かった日は傾き、日向だった芝生は陰になっている。急に肌寒さを感じて、蓬莱寺が僅かに身を震わせた。寝転んだまま片足を上げ、それを振り下ろす勢いで上体を起こす。猫がビクリと跳び上がり、耳を立てて身構えた。お、わりーな驚かせちまったか。声には出さずに詫びて、猫とは反対方向に足を向ける。
一度だけ振り向いて、じっと佇む猫を見た。あいつみたいだな、と、脳裡をつまらない言葉がかすめた。
数時間ぶりに教室に戻ると、醍醐が次は数学だと教えてくれた。そりゃどーもご親切に。さて寝るか、と机に突っ伏す。その頭の上で、桜井がふと思い出したように、だが本当はずっと気になっていたと言わんばかりの口調で、緋勇の不在の理由を問うた。知らねぇよ、とぞんざいに返すと、更に大きな声で非難された。
「なんで知らないの!」
「うるせーな、なんで知ってると思うんだよ」
「だってひーちゃん、家にもいないんだよ!」
「・・・は?」
詳しく問い質したところ、無断欠席した緋勇に連絡を入れたが応答がなかった、という情報が得られた。電話にも出られないほど体調が悪いのか、ただなんとなく出たくなかったので無視しているのか、自宅にいないか。
「どうしよう、ねえ京一」
「どうしようっつったって」
「ひーちゃん、無事だよね?」
初夏の惨劇の記憶が彼女の不安を煽っているのが分かった。何も言えずに舌を打った蓬莱寺から離れ、今度は美里に向かって訴える。
「ねえ葵、探しに行かなきゃ」
「まだ分からないわ」
「でも、だって、ひーちゃんが」
「落ち着け桜井、放課後にでも行ってみればいいだろう」
「あの時もそう言ってたじゃないか!」
声を荒げてから、己の声に驚いたように口を閉じた。視線を落し、「ごめん」と囁く。美里がその髪を優しく撫でて「大丈夫よ」と宥めるのを見ながら、蓬莱寺は夏の日差しと燃え盛る炎の幻を見ていた。生乾きのかさぶたのように、その記憶は今でも疼痛をもたらす。些細な衝撃で痛みを発し、血を流す。
始業の鐘が鳴り響いたと同時に、蓬莱寺は音を立てて椅子から立ち上がった。今まさに教室に入ろうとしていた教員に呼び止められたが、構ってなどいられない。心臓が煩いのだから仕方ないだろう。この状態で一時間近くも座っていたら、頭がおかしくなってしまう。
廊下を走り、靴を履き替える事も忘れて走り続け、ふと気付いて足を止めた。緋勇の立ち寄りそうな場所に、さっぱり思い当たらない。自宅のアパートと、いつも行くラーメン屋と、旧校舎と、それから?呆然と立ち竦み、彼の私事を全くといっていいほど知らない自分に驚き、次いで怒りを覚えた。
蓬莱寺は、彼を信頼している。だが、彼は果たして自分に信頼を向けているのだろうか。
恐怖にも似た心地で、湧き上がった疑問を見詰める。我知らず握り締めた袱紗が、加えられた圧力に小さく鳴った。それを断ずるように鋭く空を振り抜き、決然と顔を上げる。彼がいつもそうするように。
その視界を、黒い影が横切った。さっきの猫だ。たまたま通りすがりに知った顔が見えたので立ち止まった、というような仕草でこちらに鼻を向けている。激した精神に微風が吹いたような気持ちになって、蓬莱寺は思わず頬を緩めた。
軽く息を吐き、足を踏み出す。すると、まるでこちらには興味がないような顔をして猫が付いてきた。進路にお前がいただけだ、とでも言いたそうだ。ほんっと、可愛いくねぇ。
自宅にもラーメン屋にも旧校舎にも、緋勇の姿は見えなかった。あっという間に消えてしまった候補に、思わず奥歯をすり合わせる。
一定の距離を保って付いてくる猫は、我関せずのポーズを崩そうとしない。蓬莱寺は恨めしげに視線を流し、ふと思った。本当にそうなのだろうか。この猫は、何かを訴えたくて付いてくるのではないか。緋勇の行方を知っていて、それをどうにかして伝えようとしているのでは、とそこまで考え、我に返って溜息をついた。藁にもすがるってやつか?猫に何を期待してんだ俺は。口の端で自分を嘲り、彼の行きそうな場所を思い巡らす。
その背中に、聞き憶えのある声が投げられた。
「あれ?京一はん」
「あ?」
「おお!アニキも一緒かいな!」
「は?」
「アニキー!ちょっと見んうちに可愛いなったなー」
「っておい!」
蓬莱寺が振り向く前に猫とじゃれ始めた劉に、一分の容赦もなく拳を振り下ろす。意味はない。ただの挨拶だ。軽やかに拳を躱した劉が、腕の中の猫を撫でながら笑う。蓬莱寺には近寄りもしなかった猫が、劉の腕に大人しく抱かれている。裏切られたような気分になった蓬莱寺は間違っているだろうか。
「なんや、怖い顔して」
「別に」
「怖いなーアニキ」
「猫と会話すんな!そしてアニキじゃねぇ!」
「アニキって呼んでいいのはワイだけや!」
「どうでもいい!猫にアニキってゆーな!」
「えーでも似とるよ」
それは蓬莱寺も思ったので、それ以上の言及は避けた。劉が猫を目の前に持ち上げて「ほら、オスやし」と言いながら後ろ足で蹴られている。仲睦まじい様子に、蓬莱寺の機嫌が更に降下した。そーかよ、誇り高いんじゃなくって俺が嫌いだっただけかよ。あーそーですか。
「じゃなくって!」
「おお!ノリ突っ込み?」
「違う!」
「む、違ったかー」
「ひーちゃん見てねぇか?」
「ひーちゃん?」
「アニキだアニキ!お前の大好きなアニキは知らねぇかって訊いてんだよ!」
「知っとるよ!アニキの事ならなんでも聞いてぇな」
「・・・今どこにいる?」
「さあ、さすがのワイも、それは分からんなー」
今度こそ、渾身の力で殴り倒した。透かさず地面に降り立った猫が、頭を押さえてうずくまる劉の膝に前足を乗せる。その額を撫でながら、劉が嬉しそうに微笑んだ。
「心配してくれはるん?アニキは優しいな」
「だから!アニキってゆーな!」
「アニキー、あんさんの相棒ワイのこと嫌っとるー」
猫を胸に抱き、劉が悲しそうに瞳を伏せた。その頬に鼻を寄せる猫を見ていられなくて、蓬莱寺が正体不明の苛立ちに任せて鋭く舌を打つ。
知らないのなら用はない。そう言い捨てて踵を返した。お前らは好きなだけいちゃいちゃしてろ。別にそんな猫、俺はどうだっていいんだ。振り向きもせずに歩き出すと、背後で劉が声を上げた。
「あ、なんや、ワイより京一はんの方が好きなんかい」
思わず振り返ると、猫がやはり少しの距離を空けて付いてきていた。なんだよ、劉の方がいいんだろ。付いてくんなよ。睨み付けても、猫はそ知らぬ顔で視線も合わせない。無視されているような気分になって、腹の辺りにもやもやとしたものが溜まってゆく。八つ当たり気味に足を大きく踏み鳴らし、それでも平然としている猫にうんざりと眉をしかめた。対象外だった劉の方がよほど驚いている。
「なんや、アニキどうかしたんか?」
「いねぇんだよ」
「ん?どこに?」
「どこにも!」
苛立ちに任せて怒鳴ってみても、劉はきょとんと目を瞬かせただけだった。彼は知らないのだ。あの夏の日に、緋勇がどんな顔をしていたか。浮かんだ記憶が、どうしようもなく焦燥を煽る。それを嘲るように尻尾を揺らす猫が、理不尽だと分かっていても腹立たしい。あの時の緋勇を知らず、ただ無邪気に彼を慕う劉が憎らしい。知らねぇくせに。あの時、お前は傍にいる事もできなかったくせに。
「アニキなら心配せんでも」
「うるせぇ!お前は知らねぇんだ!」
「な、何を」
「ひーちゃんはなぁ!なんか読みづれぇ手紙もらって、読みづれぇぞゴルアって言って」
「アニキはそんな下品な巻き舌せぇへんよ」
「黙って聞け。兎に角、文句言う為だけに一人で差出人のとこ行って、案の定あっさり捕まって脱がされて縛られて人体実験されちまうような奴なんだよ!」
「なななななんやとぉ!それほんま?作ってへん?」
「おう!だから心配なんだよ!」
「え、ちゅーか人体実験って、あ、あああ!あかんよそんなっ!人体実験なんて!いやらしい!」
「ナニを想像してやがる!」
「どこのどいつやそんなんしたの!叩っ斬ったる!」
「うるせぇ!もうぶっ殺したよ!」
長物を振り回して物騒な叫びを上げる二人を、道行く人々が目を合わせないようにして避けて通る。その人ごみの中の一点に、猫がすっと鼻先を向けた。今まさに物陰に隠れようとしていた霧島が、同時に振り向いた二人の視界で虚ろな目をしていた。蓬莱寺が、必要以上の大声で名を呼ぶ。
「諸羽!」
「あ、いえ、人違いです」
「霧島はんやないかー」
「おい諸羽、なに隠れてやがる」
「あ、いえ、ええと、なんか、関わりたくないなぁって」
「アニキ、こいつ冷たい子やねー」
「この猫アニキっていうんですか?」
「アニキって呼んでいいのはワイだけや!」
「え、あ、そうなんですか」
蓬莱寺が、猫を挟んだ微笑ましい遣り取りに割って入った。劉に抱かれた猫を脇に押しやり、真剣な表情で霧島を見る。殺気すらこもったその視線に、霧島が思わず後ずさった。その肩を掴み、蓬莱寺が低い声で霧島の名を呼んだ。
「龍麻が行方不明なんだ」
「え、どういう事ですか?」
「学校に来ないし、家にもいねぇんだよ」
「他に行きそうな所は?」
「ぜんっぜん分かんねぇんだ」
劉の腕の中で、猫がピクリと耳を動かした。劉がその耳を摘まんで引っ張ると、猫がぶるっと頭を振って地面に降り立つ。蓬莱寺の剣幕に気圧されながらも、霧島は横目でそれを見ていた。黒いしなやかな肢体は、王者のような風格を漂わせている。抱かれていたのではなく、抱かせてやっていたのだと、そんな風に思わせてしまうような。
不意に、霧島の脳裡に一人の男の姿がよぎった。
「あ、なんか今、恥ずかしい想像しちゃいました」
「気にすんな諸羽、男なら恥ずかしい想像の千や二千するに決まってんだろ」
「いえ、あの、そうじゃなくって」
「せやなーワイも昨日、夢でアニキと」
「アニキと!?」
「アニキって呼んでいいのは」
「どうでもいい!ひーちゃんと何したって!?」
この猫が龍麻先輩だったりして、なんて想像しちゃっただけなんだけどな。口中で呟きながら、猫を見る。すると、猫がじっと霧島を見詰めた。ぎくり、と心臓が変な音を立てた。まさか、そんな事ある訳ない。否定の言葉を浮かべながら、ひたりと自分を見据える瞳から目が離せなくなる。猫が前足を伸ばして霧島の膝に触れた。
「だっ駄目です龍麻先輩!僕にはさやかちゃんが!」
「往来でどんな恥ずかしい一人遊びしてやがんだお前」
「エロい顔になっとんで、霧島はん」
「ったくよー青少年の瞬発力にゃついてけねーぜ」
「ほんま、いっかがわしーやっちゃなー」
「え、ちょ、ま、ちがっ」
自分たちの言動は棚に上げて、まるで常識人のような物言いで二人が目を細める。あんまりだ。その横で、猫が我関せずとばかりに虚空を見詰めていた。
そんなところも彼みたいだ。大勢の仲間に囲まれていても、どこか常に独りでいるような、孤高を気取るまでもなく、静かに断絶を受け入れているような、そんな人なのだ。でも、それは悲しい。あの人の心など推し量る術もないが、いつだって霧島はそれが悲しかった。
劉と顔を寄せていた蓬莱寺が、唐突に拳と声を放った。
「ばっかお前!ひーちゃんがそんなんする訳ねぇだろ!」
「そんな事あらへんがな!アニキなら優しくリードしてくれる!」
「んなわきゃねぇだろ!ひーちゃんは純情なんだよ!たぶん!」
「力いっぱい自信なさげやないか!」
「うるせぇ!ひーちゃんは真っ白なんだよ!なんにも知らねぇの!」
「・・・それはそれで!」
「だろー?」
成る程これが恥ずかしい想像か。さすがは京一先輩、跳躍力も素晴らしい。っていうかどこまで行くんだろうこの人たち。
足元では、猫がしれっとした表情で佇んでいる。
|