葉佩が歩調を速めた。足音に、鉄同士が触れ合う音が混じる。その後ろから、同じく歩調を速めた音が聞こえた。
「ついてくんなよ!」
「お前が俺の前を歩いてるんだ」
「餓鬼みてぇなこと言うなよ!」
「餓鬼はお前だ」
「俺は大人だよ!」
何故か行く手を阻もうとする岩や木の根を跨ぐと、蝙蝠(仮)が鉤爪を振り下ろしてきた。それをナイフのグリップで弾く。弾かれた蝙蝠(仮)が、皆守の顔面に激突した。顔に貼り付いた蝙蝠(仮)を葉佩に投げ返し、皆守が少しだけ歩調を緩める。気付いたが気にせず、葉佩は真っ直ぐ扉に向かった。足元に落ちた蝙蝠(仮)は、仮初の生命の終わりを迎えようとしている。
「八つ当たりすんなよ、餓鬼」
「お前こそ、俺に八つ当たりするな」
「してねぇよ!」
「鍵が開けられなかったぐらいで拗ねるな」
「拗ねてねぇ!」
思わず振り向き、皆守が立ち止まっている事に気付いた。壁に手を付いて、葉佩からは目を逸らしている。ポケットに手を入れてアロマを取り出し、慣れた手付きで火を点けた。この場所には相応しくない、甘い香りが辺りに広がる。葉佩は、意識して顔をしかめた。此処に存在しているのは、贋物の生命と、死によく似た沈黙と、火薬と鉄の匂いだけだった筈なのに。その芳香は、不純な静寂を掻き乱す。しかし無音の主張は、皆守には届かなかったらしい。悠然と煙を吐き出し、視線は合わせぬまま僅かに唇を歪める。その表情に、葉佩が更に吠えた。
「分かんなかったんじゃねぇし!」
「そうかよ」
「石が足りなかっただけで!」
「分かったっつってんだろ。ちょっと黙れ」
言いながら、皆守が僅かに足先を移動させる。靴底で床の小さな段差を撫で、壁に手を付いたまま重心を変えた。その動作に、葉佩が眉根を寄せる。感じた違和を見極めようと、口を閉じて視線を鋭くした。皆守が摺り足で前に出る。その手は、壁を縋るように掴んでいる。葉佩が状況を把握した。皆守は、視力を失っている。蝙蝠(仮)に視力を奪われた記憶があった葉佩は、即座に理解した。
皆守から視線を離さず、足音を立てて扉に歩み寄る。扉を開け、閉める。皆守が動きを止めた。気配は消したまま、皆守をじっと見詰める。皆守が、小さな声で囁いた。
「・・・葉佩?」
声には、焦燥のような色が混じっている。どこか心細そうなその声に、葉佩の心臓が急速に音量を増した。
皆守が唐突につんのめった。辛うじて踏み止まり、やはり右手は壁に触れたまま扉に向かう。前方に差し出された左手が扉に触れ、輪郭を確かめるようにその表面を撫でた。扉が閉じられている事を確認し、鋭く舌を打つ。
「あの野郎・・・」
口中で呟かれた言葉が、誰に向かっているのかを察した。扉を押し、開いた瞬間またしても前に転びそうになった皆守に、思わず手が出た。勢いの乗った皆守の全体重が縋り付き、危うく踏み止まる。
「あっぶねぇな、何してんだよ」
「はっ・・・はば、き?」
「目ぇ見えてねぇんだろ?無理すんなよ」
「は、はば、え、い、いた、のか?」
「ずーっと居たけど?」
「・・・」
葉佩の肩を掴んだまま、皆守が絶句した。自分の行動を省みているのだろう。暫く無言で固まり、我に返って葉佩から手を離した。その手で自分の顔を覆う。皆守からは見えていないと確信しているので、葉佩は遠慮なく笑みを浮かべた。皆守の視力が通常どおりだったら、踵落しでは済まされない類の笑みを。
「ほんっと鈍いな、お前」
「・・・黙れ」
「お?なにそれ命令?」
「・・・もとはと言えばお前の所為だろ」
「避けろよ、あのぐらい」
「・・・」
「うわ、なんかすっげぇ楽しい!」
皆守が、顔全体で不快を表した。握った拳が震えている事に気付き、葉佩が追撃を緩める。握られたままの拳を掴み、自分の肩に触れさせた。掴まれた瞬間、ビクリと全身が震えた事は指摘しないでやった。
「あー俺って優しい」
歌うように言ってから、いつもよりゆっくりと歩き出す。肩に触れた手が、如何にも不本意といった仕草で力を込めた。進路には、草木の生い茂り、木の根が縦横に這う不安定な足場があった。常時ならば簡単に跨いで歩けるのだが、皆守は爪先を引っ掛けては苛立たしげに舌打ちをしている。その度に縋り付いてくる体温が、耐えようも無く熱い。
「・・・あっちぃ」
「言うな。余計に暑くなる」
「おい、あんまり引っ張んなよ」
「しょうがないだろ」
「あ、たまねぎ」
「は?」
「ちょっと待ってて」
前方にたまねぎ(仮)がうろうろしていたので、皆守を離して銃を構える。離す瞬間、皆守の手が少しだけ躊躇った。彷徨うように揺れた手を視界から引き剥がし、愉快な奇声を発するたまねぎ(仮)にとどめの鞭を食らわせる。物陰に潜んでいた蝙蝠(仮)も、ついでに仕留めておく。ここで葉佩まで視力を奪われたら、面白いでは済まない事態に陥るだろう。
「はい終了」
「なんだ、もう終わっちまったのか」
などと言いつつも、触れた途端に皆守の体が安堵したのを感じる。葉佩の心臓に、じわりと愉悦が滲んだ。優越感にも似ているが、少し違う。庇護欲のようなものだろうか。しかし、自分より劣る存在を前にして安心するような、そんな感情ではない気がする。いつもたゆたうように不思議なバランスで立つ人が、不安定な動作で揺れているのが珍しいからだろう。そう結論付けて、葉佩はそれ以上の思考を止めた。
人工的な床から這い出した根に、皆守がまたしてもつまづいた。大きくよろけ、葉佩の背中に体重が圧し掛かる。天の裁きに射殺された神話の人物に思いを馳せていた葉佩が、つられてバランスを崩した。壁に手を付き、辛うじて転倒を回避する。
「重たい!暑い!くっつくな!」
「見えないんだからしょうがないだろ!」
「うわあ!なんかいい匂いする!」
「誰の所為だ!」
「匂いは俺の所為じゃねぇよ!」
「重心を変えるな!掴まりづらい!」
「そこは駄目ぇ!」
「変な声出すな!犯すぞ!」
「犯してもいいからそこは触るな!ピンが抜ける!」
手榴弾が詰まったポケットの近くを強く引かれ、葉佩が周章した。同じぐらい皆守も動揺している。遠慮がち(というか不本意そう)だった手は、既に暴力的なまでに体重を掛けてくる。常に無い至近距離に、香る花煙が容赦なく葉佩を襲う。熱帯の空気に汗ばんだ体が、もうなんだか耐えようもなく鬱陶しい。妙に凶暴な気分になる。
開き直ってしがみ付いてくる手を、葉佩が負けずに乱雑な動作で掴む。そのまま背負い投げの要領で担ぎ上げ、抵抗しようとした体を押さえつけた。自分の体勢を把握した皆守が、一呼吸の後に激しく暴れだす。
「おい葉佩!何してやがる!」
「うっせぇなー」
「うお!どこ触ってんだ!」
「あーもーうるさい!年頃の娘さんかお前は!」
「お前よりは年頃だ!」
「真っ直ぐ歩けもしねぇ奴が喚くな!」
皆守を担いだまま、梯子に足を掛ける。一段づつ降りるのも面倒で、そのまま階下の床まで落下した。耳元で、皆守が息を飲む。その直後、硬い物同士が強くぶつかったような音も聞こえた。着地した時には、皆守が頭を抱えて痛みに耐えていた。
「あ、悪い。ぶつけた?」
「・・・記憶喪失になったらどうしてくれる」
「それはそれで面白そうだな」
「人格が変わったり」
「ぶつけなくっても時々変わるだろ、お前は」
「そうか?」
「え、自覚ないの?」
立ち上がって辺りを見回す。まだうずくまっている皆守が、不安そうに顔を上げた。その顔を視界に入れてしまった葉佩が、無表情のまま昂揚する。急激に湧き上がった正体不明の感情に、表情筋が付いてこなかっただけかも知れない。心許なげに壁に手を付いて立ち上がる皆守を、音を立てずに観察する。皆守は耳を済ましている。僅かな物音すら立てず、葉佩が慎重に立ち居地を変えた。
このまま葉佩一人で帰ってしまったら、皆守はどうするだろう。悪態をつきながらも、地上への道を進もうとするだろうか。もしかしたら、視力が戻るまで寝転んでいるかも知れない。
もしも、ずっと皆守の視力が戻らなかったら?
それは確かに恐怖だったが、葉佩の心臓が奇妙に脈打った。それは悦びに似ている。浮かんだ確信を、呆然と見詰めた。縋る手の感触を思い出し、湧き上がった感情を思い出す。助けを求めて差し出された手を、この汚れた手で握り返す。頼りない体を引き上げ、揺らいだ心を支える為に、この手を差し伸べる。
皆守を助ける。その想像が、痛いほど葉佩の心臓を昂揚させた。静かに昂ぶっている葉佩の心中など知る由も無く、皆守が葉佩を呼んだ。助けを求める事など、彼はきっとしないのだろう。
「おい葉佩、居るんだろ?」
「居るよ」
「・・・黙るな」
「黙れっつったり黙るなっつったり」
「・・・適度に喋れ」
「我儘な奴だなぁ」
「嫌なら別にいい。一人で帰れ」
「どーすんだよ、その目で」
「どうにでもなる」
予想どおり、皆守はあっさりと手を引っ込めた。伸ばした手が誰かに届く事など、本当は信じていないのかも知れない。救われる日など、永遠に来ない。そんな風に、一人で高みに立つような気分で崖っぷちに立っているのだろうか。ただ追い風を待って淵に立つ姿など、憐れ以外の何ものでもない。いっそ突き落としてやろうか。死の苦痛すら凌駕する、慟哭の海に沈めばいい。そのまま皆守が底に辿り着けば、葉佩を煩わせるものは消える。同時に、葉佩を昂揚させる灼熱と芳香も消えるのだろう。
座り込んだ皆守を、じっと見詰める。立ち去ろうとしない葉佩の気配を感じているのだろう。顔を伏せ、アロマに火を点けた。甘い芳香が漂う。無遠慮に踏み込み、我が物顔で掻き乱す。耐え切れず、葉佩がその手を力任せに掴んだ。アロマパイプが弾かれて転がる。それを素早く拾い上げ、突然の強行に戸惑う皆守を引き上げた。その動作で、たったいま手に取ったパイプが邪魔になった。火の点いたままのそれを仕舞うのも面倒臭かったので口に銜える。だがそうすると、喋るのに邪魔だった。仕方なく、まだ何事か言っている目の前の口に戻してやる。パイプを口に突っ込んだら、ガチっというような音がして皆守が顎を引いた。先が前歯に当たったらしい。
「暢気に一服してる場合じゃねぇだろ!」
「・・・予想外に痛かったんだが」
「帰るぞ!引き摺ってでも帰るからな!」
「引き摺るのはやめてくれ」
「じゃあ立って歩け!」
「前歯が折れたらどうしてくれる」
「折れてねぇよ!カルシウムでも食え!」
「カルシウム食っても折れた歯は治らないぞ」
「そんな正論どうでもいいから!」
皆守の手を引きながら、足早に出口へと向かう。
「助けてくれ」などと、皆守は言っていない。たとえ葉佩が、皆守を置いて一人で地上に戻ってしまっても、きっと何も言わないだろう。救いを、本心から信じていない。或いは、救われる事を望んでいないのかも知れない。業火に焼かれて、そのまま沈む自身だけを夢見ているのだとしたら、葉佩に出来る事は無い。思い当たったその事実に、どうしようもなく悔しくなった。涙が溢れそうになり、慌てて奥歯を食い縛る。無様だが、もうどうでもいい。どうせ皆守には見えていない。どうせ皆守は、葉佩など見ていない。それが悔しくて、それ以上に悲しかった。
求める術を知らない皆守が、本当は切ないほどに欲しているのだと、葉佩は気付いてしまった。戻る道など望んでいないと嘯く皆守が、歴然とした断絶を示しているのだと知ってしまった。彼はもう、永久に世界と断絶される覚悟を終えている。死の予感よりも苦しい慟哭を、彼はもう知っている。その慟哭の上に立ち、誰にも届かない嘆きならば、その全ては無意味だと、微笑んで言うのだ。心で叫びながら、その身を業火に捧げるのだろう。
手を伸ばしても、きっと届かない。涙が溢れる。右手に掴んだ彼の左手は、決して握り返してはくれない。
地上まであと僅かという所で、ふと皆守を振り返った。大人しく手を引かれているが、その足取りは確かに床を掴んでいる。皆守の爪先を見て、次に顔を見上げた。目が合い、暫しその瞳を凝視する。
「・・・いつから?」
「いや、まあ、ついさっきなんだが」
「・・・何秒前?」
「えーと、いや、俺は何も見てないからな」
「・・・」
「ああ、まあ、悪かった」
「・・・」
「心配かけたな」
「・・・」
「別に、お前の所為だとか思ってないから」
「・・・」
無言で俯いた葉佩に、皆守が気まずそうに言葉を落とす。どうやら、葉佩が心配のあまり泣き出してしまったと解釈したらしい。素人に怪我を負わせた責任でも感じているのだろうと、慰めのようにも聞こえる言葉を繰り返す。尚も続ける皆守を直視する事は、もう不可能だった。右手は皆守の左手を掴んだまま、葉佩が唇を噛み締める。
苦渋の表情を浮かべた葉佩に、皆守はどうしていいのか分からずに困惑していた。掴まれた手を、同じ目で見下ろす。その瞳にあるのは、ただ葉佩に影響を与えた事への戸惑いだけだ。見慣れぬものを見た驚き以上の感情は見出せない。ごく自然な断絶だけが、そこに存在していた。
その手を握り返して欲しい、なんて、どうすれば伝わるんだ。
|