全身の血がさざめいているような感覚に、蓬莱寺は知らず目を閉じた。そうしてから、さざめく血液が向かう先に耳を澄ます。水の上に風が吹くように、彼の気配が身を震わせる。この風を追ってゆけば彼がいるのだと、蓬莱寺は確信していた。

 思っていたとおりに、彼はそこにいた。縫ったばかりの傷が大きく口を開けて血を流している。疲弊しているのだと、一目で分かった。無表情だったが、熱い呼気が忙しなく吐き出されている。しかし片膝を付いた姿勢は、どこまでも攻撃的だった。いつでも立ち上がって走り出せる体勢だ。

 数歩の距離をおいて、名を呼んでみる。さまよう視線がわずかに指向性を有した。こんな時でも、彼の目は真直ぐに空間を貫く。それが悲しいのだと、唐突に蓬莱寺は理解した。
 迷って揺らいで逸らされれば、彼が恐れているのだと分かるのに、緋勇はそうしない。大樹のように、厳然とそこにある。当たり前の不安すら見せてくれないのだ。

 緋勇がゆらりと立ち上がった。ぞくりと背筋を這い上がったのが、恐れなのか悦びなのかも分からない。ただ無心に、蓬莱寺は阿修羅を抜いた。

「龍麻」

 呼んでも声は返らないと、心のどこかで理解していた。それでも、どうして呼ばずにいられよう。

 練り上げて凝固した氣に、清冽な彼の気配が触れる。獣のような息遣いと、血の匂い。身を沈めると、頭上を掌が通過した。切り裂く意思を有した手だ。同じ手が、髪を撫でたのだと思い出す。

 もう一度、名を呼ぶ。
 薄闇に、息を殺して獣がひそんでいる。獲物の喉笛を食い千切り、飢渇を満たす時だけを考えている。
 腹が減ったと言って、空を見上げた横顔を思い出す。

 振り向きざまに、一閃。刃がわずかに皮膚を裂いた。飛び散った赤い水が網膜を焼く。返す切先を、肩に振り下ろす。驚くほどあっさりと、それは柔らかい肉に突き刺さった。濁った声を発して、緋勇が跳びすさる。
 追って踏み出した左足を、低く地を這うような回し蹴りが薙いだ。揺らいだ体勢を整えるより早く、二撃目が飛んでくる。身をひねって躱したが、かすった鎖骨の辺りにじんと痛みが走った。
 咄嗟に振り上げた阿修羅が、闇に紛れる寸前の緋勇をかすめて虚空を斬る。数滴の血が地に落ちて、その鮮やかさに目眩がした。

「なあ、ひーちゃん」

 呼びかける。返事はない。それでも蓬莱寺は彼の名を呼んだ。こだまする自声が彼の気配を消してしまうのも恐れず、繰り返し声を張り上げる。恐ろしいのは、彼に食われる事ではない。

「ひーちゃん、腹減ってんだろ?」

 彼が自分を欲しているのだと考えると、愚かしいまでに昂揚する。ああ愚かだ。救いようがない。自嘲する間もなく、背後で風を切る音が聞こえた。振り向くのは間に合わない。前に走り出す。踵を絡め取られた。逆らわず、地に身を投げる。
 転がって衝撃を逃がし、上体を起こした時には緋勇が眼前に立っていた。冷たい表情で、瞳だけが恐ろしいまでの眼光を放っている。怪我を負って飢えた獣が、冷静な目で蓬莱寺を見下ろしている。

「ひーちゃん」

 声を震わせたのは、恐怖ではない。たぶん。
 ぎらぎらと異様なまでに輝く双眸を見上げながら、蓬莱寺は我知らず喉を鳴らした。鮮血にまみれた緋勇が、とても綺麗だったから。するどく切先を上げて、蓬莱寺は微笑んだ。

「俺が勝ったら、食わせろよ」

 相手は化物だ。手加減してやる必要はない。化物でなくとも緋勇だ。手加減している余裕などない。
 凄絶な氣をまとった拳を、刀背で流す。深い傷から溢れた血液が眼前に飛び散り、蓬莱寺の頬を濡らした。唇にも落ちてきた甘い血を飲み込んで、一心に刃を突き出す。あの白い肌にこれを刺したら、さぞや心地好かろう。
 ひとつ気に入らないのは、あの傷だ。大きく深く、彼に刻まれたあの傷。自分ではない誰かが、彼に触れたという証拠。

 突き出した切先を躱して、緋勇が後退した。荒い息遣いが聞こえる。低い呻き声がそれに混じる。闇を疾駆る足音は、時折ふらりと乱れて踊る。

 たつま。どこか幸福のような心地で呼ぶ。耳の奥で甲高い音が鳴り響いている。緋勇の氣に大気が反応しているのだと、少しの間をおいて気付いた。誘われるままに、一歩踏み出す。
 想像していたとおりの軌道で、拳が頬をかすめる。左目が暗くなったのは気にせず、がむしゃらに切先を突き出す。普段だったらかすりもしない直線的な攻撃が、たやすく肉を裂いて赤を咲かせた。知らず息を呑み、恍惚とそれに見惚れる。

 ついに緋勇が膝を付き、息を乱して視線を落とした。右手の阿修羅は依然として固く握り締めたまま、蓬莱寺が歩み寄る。吐息に苦痛の声が混じるのを聞きながら、用心深く左手を伸ばす。
 蓬莱寺の手が、傷付いた肩に触れた。緋勇が身を固くしたのを感じはしたが、構わず強く引き寄せる。鮮血が地に落ちて、花のように見えた。

「どうして来た」
「なんとなく」
「近付くな」
「いいよ」
「よくない」
「食ってもいいっつってんだよ」

 緋勇が目を見開いた。次いで、凄絶な眼光が双眸から放たれた。気圧されて後ずさりかけて、寸前で踏みとどまる。そういえば飢えた猛獣と対峙していたのだった。ぞくぞくと背筋を這い上がるのが、恐れか悦びか、あるいはそれらが複雑に入り混じっているのか、蓬莱寺自身にもよく分からない。

「腹減ってんだろ?」
「殺されたいのか」
「それはやだ」
「食う前に殴りたくなってきたな」

 低く呟いて、緋勇が視線を落とした。嘆息し、額に手を当てる。しばし痛みに耐えるような表情で押し黙り、そのまま地面に座り込んだ。脱力したらしい。
 溢れた血液が、その足元に零れ落ちる。

「なあ、やばいんじゃねぇか?」
「そうだな」
「止血しろよ」
「無駄だ」
「いいから、ちょっとじっとしてろ」
「近付くな」
「うるせぇ、我がまま言うな」
「触るな」

 包帯など持っていないので、上着を脱いでシャツを裂いた。清潔とはいえないが、何もしないよりはましだろう。緋勇は視線を落としたまま、居心地悪そうな顔で眉間に皺を寄せている。
 また噛み付かれたらどうしようと考えながら、そっと肩に触れる。痛みかそれ以外の理由かは判じかねたが、緋勇が唇を噛んで息を止めた。
 どうにか傷を覆って、肩の後ろで固定する。白いシャツに、早くもじわりと血が滲んだ。

「あんま無茶すんなよ」

 俯いた顔を覗き込んでそう言うと、緋勇は小さく頷いた。幼い仕草が彼に似つかわしくなく、理不尽な怒りが込み上げる。
 普段の彼はもっと傲然として、憎たらしいほど自信に満ちている。あれは幻だったのか。ずっと隠していたのか。この男はこんなにも弱いのだと、想像すらしなかった自分に腹が立つ。腹が立ったので、丁度よく目の前にあった頭をはたいてみた。長く伸びた前髪の隙間から、ぎらりと鋭く睨まれた。

「何をする」
「いや、なんか、腹立ったから」
「離れろ」
「やだ」
「食うぞ」
「おう、いいぜ」

 微笑んで頷くと、緋勇の視線が更に鋭くなった。臓腑を氷で撫でられたような、灼熱の煮え湯を飲み込んだような、不思議な心地がする。恐れと悦びが、同時に背筋を這い上がる。
 緋勇が無造作に手を伸ばした。表情は窺えなかったが、瞳だけが不気味に光を発している。少し冷たい手が、頬に触れ、首筋を伝った。ゆうべの噛み跡を柔らかく撫でて、そこで静止する。唇を引き結んだまま、緋勇が目を伏せた。

「お前の死体は見たくない」
「うん」
「だからとっとと帰れ」
「やだ」
「どうしろと」
「死なない程度に食えよ」

 そう言うと、殴られた。ごつんと耳の近くで音はしたが、あまり痛くない。これしきの痛みで怯む男だと思われるのは心外だ。負けじと冷たい黒瞳を睨み返す。

 そうしてしばらく間近で睨み合い、根負けしたのは緋勇だった。逸らされた視線が虚空をさまよい、落とされる。落ちた視線をすくい上げるように、緋勇の頬に手を伸ばした。引こうとして痛みに強張った体を左腕で固定して、右手で彼の唇に触れる。緋勇がそれを振り払う前に、親指を口に突っ込んだ。
 さすがに周章した緋勇が何事か声を発したが、構わず指を深く差し入れ、牙の尖った部分に皮膚を当てる。強く押し当てると、小さな刺激が走った。痛みと呼ぶにはあまりに甘美なその刺激に、蓬莱寺が知らず笑みを浮かべる。