気が付いたら押し倒されていた。どうせなら押し倒したかった、などと考える暇もなく、首筋に牙が突き立てられた。素晴らしい手際だと感心しようとして、それどころではないと我に返る。

「おい、ちょっとだけだからな!」
「・・・」
「手加減しろよ?」
「・・・」
「せめてなんか言え!」
「うるさい」

 息を乱した緋勇を見て、まるで性交のようだと思ってしまって、蓬莱寺は激しく後悔した。それでなくとも快とも悦ともつかない刺激で混乱しているのに。
 しかも緋勇の髪が鼻先に触れてくすぐったい。あと重たいけど苦しくないのが悔しい。それでいてまったく動けないのが、もっと悔しい。あの一瞬のうちに、背筋が凍るような正確さで間接を押さえられてしまったのだ。化物に食われる恐怖より、彼の歩んできた道を思って心臓が震えた。

「これ、あとで俺にも教えてくんねぇか?」
「何を」
「だから、これ」
「どれだ」
「え、無意識?」
「少し黙ってろ」
「そういう態度は嫌われるぞ」
「嫌うか?」
「いや、俺は、別に嫌わねぇけど」
「お前はもう少し構った方がいい」
「うるせぇよ」
「どうして」
「ん?」

 緋勇が顔を上げた。てっきり血だらけの顔だと思っていたが、予想に反してその頬に赤はない。食事の作法も心得ているとは、やはりこの男は侮れない。
 どこか朦朧とする脳でそんな事を考えていたら、すうと波が引くように緋勇が音もなく身を引いた。離れてから、彼があたたかかったのだと気が付いた。自分が冷えていたという事にも。
 少し遠くなったぬくもりに手を伸ばす。緋勇が物凄い勢いで後退しようとして、肩を押さえて低く呻いた。どうやら痛かったらしい。心配するより好機と見て、動きを止めた緋勇を両手で掴まえる。抱いた体は、痛いほど熱かった。

「なあひーちゃん」
「・・・え、ああ」
「寝るな死ぬぞ!」
「俺は死なない」
「嘘つけ」
「すまん嘘だ」
「俺は、どうしたらいい?」
「俺はこのまま身を隠すから、俺の事は忘れろ」
「無理」
「安心しろ、奴との決着はつける」
「それで安心できると思ってるお前がもう無理」

 ふ、と吐息が頬に触れて、もしかしたら笑ったのかも知れないと思って少しだけ顔を離した。
 無理だ、ともう一度、胸中で呟く。気を抜くと暗くなる視界に目を凝らし、闇の中で彼を見詰める。どうして彼を呼ばずにいられよう。しかもちょっと本気だったのが、どうしようもなく苛立たしい。

「ところで京一」
「おう」
「この体勢は、つらい」
「え、どっか痛いのか?」
「いや、何度も言ったが、俺は腹が減ってるんだ」
「うん、聞いた」
「たとえば、お前が空腹で、目の前にラーメンがあったとする」
「ああ、だいたい分かった」
「我慢できるか?」
「ラーメンがお前だったら、我慢する、かも?」
「そうか」
「ああでも、うん、つらいな」
「分かってくれたか」
「しかもさっきちょっと口つけたもんな」
「美味かった」
「どーせ嘘だろ?」

 答えず、緋勇は困ったように眉を下げて身を離した。慌てて追って身を起こし、傷には触れぬよう腕を掴む。緋勇が顔をしかめてその手を払おうとしたので、傷を気遣うのはやめて無造作に引き寄せた。それを柔らかく制し、緋勇が低く呟く。

「俺に手を伸ばすな」
「なんで」
「俺は人ではない」
「え?」
「え?」
「え、やっぱ、そうなのか?」
「えって、お前、知らなかったのか?」
「だって、そうなのか?」
「だから、あまり近づかない方がいいぞ」
「うん、無理」

 あっさりきっぱり宣言すると、緋勇が眉間に皺を寄せて溜息をついた。どうして理解しないのかと、蓬莱寺も同じように溜息をついた。
 この悪食は知らないのだろうか。この胸にある灯火も烈火も、それらが心臓を動かしている事も、知らないのだろうか。空腹を我慢して彼を追うと決めた理由も、血を流しても隣に立つと決めた理由も、何ひとつ。

「俺はラーメンよりひーちゃんがいいんだよ」

 そう言って笑うと、緋勇はひとつ瞬いてから目を逸らした。そうすると、白い首筋が見えた。止血帯として使用したシャツは、どす黒く染まっている。むせ返るような鉄錆の匂いに包まれて、思わず、気がついたら、白い喉に噛み付いていた。

「な、なんだいきなり!」
「え、いや、なんか、なんとなく」
「ちょっと待てお前、なんで」
「あ、ひーちゃんってすげぇ美味いな!」
「帰ってこい京一!」

 うわずった制止の声を無視して、夢中で傷口に舌を這わせる。甘い、ような気がする。腹の辺りが熱くなって、たまらず息が上がる。
 きょういち、と聞こえた声が途切れて、我に返って口を離す。どこか呆然とした表情の緋勇が見えた。脱力した体を地面に投げ出したまま、吐息を震わせて、虚ろな瞳で蓬莱寺をぼんやりと見上げている。

「えーと、ひーちゃん?」
「・・・」
「だ、だいじょぶか?」
「・・・京一」
「はい」
「どうしてこうなった」
「ひーちゃんに分かんねぇのに俺に分かる訳ねぇだろ」
「血か?」
「あ、そーかも、さっきちょっと口に入った」
「成る程、それで伝染したのか?」
「血を吸われると伝染するって話もよく聞くよな」
「そうだな」
「ってゆーか、伝染性なのかこれって」
「知らん」

 短く吐き捨ててから、ゆっくりと呼吸を整えつつ、緋勇は慎重に上体を起こした。そういえば怪我人だったと思い出し、貧血ぎみの緋勇などそうそう見られるものではないと思い至った。遠慮なく観察する。
 顔色が悪いようにも見えるが、もともと血色のいい性質ではなかったような気もする。身動きする度に小さく顔をしかめているのは痛いからだろうと予測できるのだが、片目をすがめて息を止める仕草が、どうにもなんだか食欲ではない欲求を刺激してちょっと困る。それを指摘したらどんな緋勇は反応をするだろうと考えていたら、ふと別の事も思い出した。

「でもさ、俺以外にも食ってたんだろ?」
「それは、食わないと死ぬからな」
「あ、やっぱり死ぬんだ」
「いや、死なない」
「なにその無駄な抵抗」
「うるさい」
「いや、だからさ、俺以外にもこうなった奴いるんじゃね?」
「一度に食い尽くさなかったのは、お前だけだ」
「マジで!?」

 たったそれだけの情報で、こうも浮かれる自分が少々悲しい。語末の「お前だけだ」の響きをを噛み締めつつ、きっとそのような言葉としての意味は知らないのだろうと、蓬莱寺は片頬で微笑む。
 きっと彼は知らない。血も肉も、ただひとつの為にあるのだと信じるこの心を。人であるか否かなど、些細な事だ。誇りを形作るのは、そのような事ではない。

「まあいいや、これでひーちゃんと飯が食えるな」
「いっそ羨ましいが、そうなりたいとは思えない」
「なんだよ、ひーちゃんだってもっと気をつけろよな」
「伝染するなんてたった今知ったんだ」
「それはそれでどうなんだ!」
「ラーメンを食えなくなってるんだぞ」
「えええ悲劇じゃねぇかそれ!」
「ああ、俺の方がいいからいいのか」
「え、それは、だって、それとこれとは別だろ」

 なおも重ねて言い返そうとした緋勇が、ぐらりと揺れて地に手を付いた。蓬莱寺が慌ててそれを助け起こし、いかにも不本意そうにその手を取った緋勇の肩を担ぐ。

「まあ、これはあとで考えるとして」
「そうだな」

 帰るか、と口にしたのは、二人同時だった。

 こうして蓬莱寺は、うっかり化物の仲間入りをする事となった。
 が、特に以前と変わりなく、今日も元気に相棒の隣に立っている。