渇きに耐えかねて目が覚めた。同時に激痛が走り、不覚にも低く呻き声が漏れた。汗ばんで背中に貼り付くシャツが不快だったが、それ以上に記憶が緋勇をさいなむ。
 慟哭のような義弟の声。友人たちの、まるでこの世の終わりのような表情。夕暮れの風よりもなお冷たい刃が、皮膚を裂いてこの身に侵入してくる感触。そして月を振るわせる哄笑。

 屈辱と慙悸にはらわたが煮えた。無造作に身を起こし、激痛に目がくらむ。しかしこの心を駆り立てるのは、負った傷の痛みなどではない。たとえようもない渇きと飢えだ。永らく飢えていた自覚はあったが、これほどまでに耐えがたい飢渇は初めてではないか。
 立ち上がり窓を開け放つと、冬の風が頬を打つ。硬質な大気で肺を満たし、緋勇は自身の求めるものを知った。寒風に混じるわずかな匂い。渇きが、忸怩たる思いも痛みさえも押しのけて緋勇の精神を塗りつぶした。












 眼前で友人がぶった斬られて、蓬莱寺はとにかく荒れていた。守れなかった後悔と、不甲斐ない友人への罵倒と、喪失の予感と、その他の様々な感情すべてが綯い交ぜになって、しかしそれもうまく自覚できず、胸中で煮えたぎる攻撃性を持て余していた。
 緋勇が今も眠っている部屋の窓を見上げ、右手の得物をどうすればいいのかも分からず、ただ泣きたいような怒鳴り散らしたいような心持ちで冬の夜に佇んでいた。

 見上げていた窓が開いて緋勇が降ってきたのは、その時だ。音を立てて着地して、胸に絡まった包帯を煩わしげに引き千切り、緋勇はいかなる感情も見せずに蓬莱寺の前に立った。

 呆気に取られて口を開けた蓬莱寺に、緩やかな動作で緋勇が歩み寄る。瞬間、蓬莱寺は跳びすさった。地を蹴った足が再び地面を踏むより早く、緋勇が手を伸ばす。
 咄嗟に身を沈めた蓬莱寺の米神から、ひとすじの赤が伝い落ちた。

「・・・ひーちゃん?」
「どうした」
「いや、どうしたっつーか、お前がどうした」
「こんな所で何をしていた」
「なにって、ええと、なんだっけ?」
「早く帰れ」
「うるせぇな、なんでだよ」
「死にたいのか」

 ささやくような声音で喋る緋勇の瞳を見て、ぞっとした。抑え込まれた無表情の中で、その双眸だけが恐ろしいまでに輝いている。
 早く行けと、緋勇が繰り返しささやく。声が凶事を招くとでも思っているのか、低く小さな声で、何度も繰り返す。

「行け、お前の死体は見たくない」
「そんなん俺だってやだよ」

 業火のごとく燃え滾る瞳を無心に眺め、蓬莱寺は漠然とだが察した。彼は飢えているのだと、もうずっと前から、気が狂いそうに飢えていたのだと。
 そんなに苦しいのなら食えばいいと、友人の愚かさを嘲笑いたいような気持ちになった。

「腹減ってんのか?」
「そうだな」
「ああ、そういや俺も腹減ったな」
「ラーメンでも食ってとっとと寝ろ」
「一緒に行った事、ねぇよな」
「お前は血を見て飲みたいと思うか?」
「思わねぇよ」
「お前の言ってる事は、無意味だ」
「意味なんて、ほんとに必要か?」
「なんでこんな時にそんな難問を出すんだお前は」
「俺はひーちゃんと飯が食いてぇなーって言ってるだけだぜ」
「だからそれが無意味だと」
「だから意味なんていらねぇっつってんだよ」

 頬に流れた血は、もう乾いている。小さなかすり傷も、もう出血はしていないだろう。
 緋勇がごくりと喉を鳴らした。彼を苦しませているのは自分なのだと、蓬莱寺は右手の得物を強く握り締める。どうする事も、できないのだろうか。
 左手の親指の爪で、かさぶたになった傷を引っ掻いた。直後、緋勇の姿を見失った。疑問に思う暇もなく、不意に視界が揺れて空が見えた。
 痛くはないが重たくて、あたたかい。そして少しだけ悔しい。彼が本気でやれば、自分の動きなどこうもたやすく制されるのだ。そんな事を考えながら、牙が喉元を撫でる感触に目を細める。痛くはない。痛みさえも与えてはくれないのかと、酷薄な彼の心を憎んだ。

 首筋から冷水が流れ込むような、脳髄に熱湯を叩きつけられたような、奇妙な感覚に思わず声が零れた。あたたかい雫が頬に落ちた、ような気がしたが、気のせいだったかも知れない。












 供されたのではないと、理性が繰り返し警告する。しかし舌に触れる甘さは緋勇に全てを忘れさせた。求めていたのはこの血だと、夢中で喉を鳴らす。一滴が呼び水となり、膨大な虚ろが目覚める。浅ましいと感じる余裕すらなかった。
 ふと顔を上げると、蓬莱寺の瞳が見えた。恐怖と困惑に彩られているとばかり思っていたが、その瞳は静謐な悲哀を湛えている。憐れんでいるのかと、無性に暴力的な気分になった。深く、牙を突きたてる。
 蓬莱寺の喉がおののき、小さく声を発した。その音を、緋勇は知っていた。

 たつま、と聞こえた、ような気がしたが、気のせいだったかも知れない。確信もなく、しかし緋勇は思い出してしまった。彼が友人だった事を。瞬間、狂乱が去って、代わりに後悔が訪れる。

 どうして分かったのだろう。緋勇は恐怖なのか安堵なのかも判ぜられず、ぼんやりと考える。それが緋勇自身にとっても本意ではないのだと、どうして彼は知っているのだろう。
 蓬莱寺は食物ではない。友人だ。飢えを満たせば、代わりに緋勇は取り返しのつかない喪失を得る。隣に立つ相棒が自分を損なう事はないと、どうして彼はそんなにも信じられるのだろう。

 自身の血に濡れた頬で、蓬莱寺は微笑んだ。見憶えのある表情だ。
 たとえば、返却された答案用紙に記された点数を見て、「お前もか」と笑う時。あるいは、弁当を忘れたという桜井に、「一口ちょうだい」とせがまれた時。美里が珍しく忘れ物をした時。部活を終えた醍醐に持っていたジュースを奪われた時にも、最後にはそんな表情をしていた。

 緋勇はどうしようもなくなって、静かに見詰めてくる蓬莱寺を殴って気絶させて逃げ出した。












 目覚めると、まず高見沢が泣きついてきた。窓の外は明るくなっていて、あれは夢だったのかとぼんやりと思う。
 どうやら病院の敷地内で倒れているところを高見沢が発見してくれたらしい。この寒空の下で一夜を過ごしても貧血だけで済んだ事にまず安堵する。そうしてから、あの悪食はどうしたのだろうという疑問がようやく脳裏に浮かんだ。
 あいつはどうしたと、まだ泣きやまない高見沢に問う。「消えた」と簡潔に答えたのは、ノックもなく部屋に入ってきた岩山だった。

「消えた?」
「お前が知ってるんじゃなければ、行方不明だね」
「知らねぇぞ、俺」

 呆然と、昨日の惨劇を思い返す。たしか、公園で劉と会い、田中さんは鬼で、靴が濡れていなくって、なんであの新聞あいつに渡したんだっけ。せめて彼の目には触れぬよう、必死の思いで回収してまわったのに。逸れてきた思考がどこへ向かうのか、またはどこへ向かうのを恐れているのか、ひどく緩慢に理解する。
 赤い髪の男が緋勇に斬りかかって、それで、どうしたっけ?

 あんなにも激しかった怒りと恐怖が、今では清々しいまでに晴れ上がっている。台風一過の空のように、どこまでも高く青く澄んでいる。それなのに、動悸が治まらない。高見沢はまだ泣きやまない。岩山は何も言わない。

 蓬莱寺は愛刀を引っ掴んで走り出した。背後で高見沢が何事か叫んでいたが、聞き取れなかったので無視した。












 逃げ込んだ地の底で、緋勇は息を殺して耳を澄ました。恐れながら待ち望む心を自覚して、更に深く降りてゆく。
 傷が痛んだが、それ以上に飢渇が思考を鈍らせる。気付けば彼の姿を思い浮かべて、どうせあの男も血と肉でできているのだと、そんな事ばかり考えた。無意識に喉を鳴らす。

 思い立って魔物も少しかじってみたが、嚥下する前に吐き捨てた。これは食物ではない。やはり人でなければ駄目なのだ。己の性を憎むのは、とうの昔に諦めた。このまま飢えて死んだら、あの忌々しい黄龍は陰の器に入るのだろうか。
 朦朧と闇を眺めつつ、寒空の下に放置した友人の事を思い出す。風邪など引いていないといいが。