腹が減ったと言葉を脳裡に浮かべつつ、緋勇は隣に座る友人を見た。その友人はといえば、やきそばパンには間に合わなかったと、不満そうに、または嬉しそうにも見える表情で、独り言のような報告のような雑談のような事を言っている。緋勇が何も言わずとも、彼は話し続けるのだろう。
腹が減ったと、友人の明るい色の髪を見ながら思う。陽光に照らされて、風にもてあそばれて、蓬莱寺の髪はちらちらと色を変えているように見える。それにしても、腹が減った。
「腹が減った」
声にしてみた。蓬莱寺は二つめのコロッケパンを咀嚼するのに忙しく、返事もせずに顔だけを緋勇に向けた。オレンジジュースで口の中の物を喉の奥に流し込み、ごくりと飲み込む。そんなにもたやすく、何気なく飢えを満たせる彼が羨ましい。
ちょっと待てと言って、蓬莱寺が残っていたコロッケパンを口に放り込む。指に付着したソースを舐め取り、ぐいと無造作に手の甲で口の周りをぬぐった。
自身の悪食を暴露した後日、緋勇はいたって冷静に頚動脈を狙った。そこを傷つければ大量の血液が流れ出ると知っていたからだ。それは死ぬからやめてくれ、とまるで冗談に返すような気安さで蓬莱寺はその行為を拒んだ。
「京一、腹が減った」
「なんか餌付けしてるみてーだな」
「似たようなものだろう」
「かわいくねーけどな」
「そうだな」
「あ、やっぱちょっとかわいーかも」
「お前ほどじゃない」
口を噤んで目を逸らした蓬莱寺は、それでも手の平を差し出した。
無防備にさらされた硬い手は、いつも緋勇をたまらない気分にさせる。いっそ引き裂いてやりたいと、あるいは何をとしても守ってやりたいと、心が散らばるような気分になる。こんな感情の名を、緋勇は知らない。
硬くなった指の、柔らかい部分に牙をあてる。突き刺す瞬間ではなく、わずかに触れた時にだけ、蓬莱寺は小さく震える。そして、ほんの少しだけ息を吐く。まるで胸の内に溢れたものを、こっそり吐き出すかのように。
指先に牙をあてて、ほんの少しの血液を得る。砂漠の放浪者が一滴の水に歓喜するように、緋勇は喉を鳴らしてそれを飲み込む。尽くしてしまわぬよう、細心の注意を払って。
やがて小さな傷から出血が止まり、緋勇はさも名残惜しげに口を離した。その間、ずっと押し黙っていた蓬莱寺が問う。
「美味かったか?」
「いや、別に」
「そこはお世辞でも美味かったって言っとけ」
「美味かった」
「白々しいんだよ」
「どうしろと」
尖った目付きで睨まれて、本心から途方に暮れて問い返す。蓬莱寺は何も言わず、ふんと鼻を鳴らして顔を逸らしてジュースの残りに口をつけた。
食らい尽くしてしまいたいと本能が叫ぶのをどこか遠くに聞きながら、緋勇はその横顔を見詰めた。腹が減ったと声には出さずに呟いて、緋勇が空に視線を転じる。本当は空ではなく彼を見ていたかったのだが、そうすれば空腹に屈してしまいそうになるので、仕方なく雲でも数えるふりをしてみる。
舌に残る甘さが、正確には味覚を刺激するものではないと、緋勇はもう知っていた。
「なあひーちゃん」
「うろこ雲といわし雲は、どう違うんだ」
「同じもんだろ」
「そうなのか?」
「だってイワシにも鱗あるじゃねぇか」
「成る程」
「なあ、ひーちゃん」
「だとすると、鱗のある生物は全て当てはまるな」
「聞けよ!」
「聞いてる」
「そうか?」
「たとえば、くじら雲」
「クジラに鱗はねぇよ」
「そうだったのか・・・」
「なんで俺なんだ?」
「別にお前でなくてもいい」
「え、あ、そ、そうなのか?」
ストローから口を離して、蓬莱寺が緋勇を見る。一瞬前まで口中にあったストローは、見るも無残に噛み跡だらけだった。彼の指先は、あんなに細くも白くもない。
「だったら余計に、なんで俺なんだよ」
「そこにいたから」
「たまたま?」
「そうだな」
「じゃあ、俺じゃなくてもいいのか」
「だからそう言ってるだろう」
蓬莱寺はさも不満そうに唇を曲げた。特別だから、というような言葉を期待していたのだと、緋勇は知る由もない。
腹が減ったと、ぼんやりと思う。思うと同時に、蓬莱寺から目を逸らす。彼を食らい尽くせば、もう二度とこの甘さは味わえないのだと、空の青さを呪うように考える。どうして、と口にするには、緋勇は永く生きすぎた。問うても返らぬ答えがあると、緋勇はもう知っている。
不機嫌そうな唇が、永遠の断絶を告げるような口調でささやいた。
「だったら、他あたれよ」
「俺に食われるのは不満か?」
「いや、それは別にいいけどな」
「意味が分からん」
「なんで俺なんだよ」
問うても返らぬ言葉があると、彼は知らないのだろうか。
緋勇の悪食を知って血液を差し出した者も、過去にいなかった訳ではない。無上の喜びだとでも言わんばかりに恍惚とその身を捧げようとした者も、皆無ではない。格別の感謝も感慨もなく、緋勇はそれをたいらげた。罪悪であるなどとは、今でも思っていない。
どうしてこの男にはためらうのだろうと、雲を追うように考える。どれだけ手を伸ばしても得られないものがあると、緋勇はもう知っている。
「たとえば、俺が目の前で喉かっさばいたら、ひーちゃん嬉しいか?」
「・・・嬉しいと思うのか?」
「嬉しかったらやだなーと思って訊いてみた」
「きっと嬉しくないだろうな」
「そっか」
今度は満足そうに蓬莱寺が唇を曲げた。ただの餌にはなりたくないという主張だったなどと、緋勇は知る由もない。
成人男性一人分の血液を得られれば、しばらくは空腹を感じずにいられる。飢えを満たせるのにどうして嬉しくないのかと、吹き抜ける風を聞くように考える。やがて全ては去りゆくのだと、緋勇はもう知っている。
雲に決して追いつけないのも、空の青さに悲しくなるのも、大気が流れて風が起こるのも、緋勇が望んだからそう在るのではない。ただ全ては、そのようにできている。この身も同じだと、緋勇はずっと考えていた。今更それを嘆くなど、無意味な事はしたくない。
不意に蓬莱寺が微笑んだ。
「ま、死なねぇ程度なら食っていいぜ」
腹が減ったと思いながら、友人から目を逸らす。
その血がひどく甘いのだと、緋勇はもう知っていた。
が、蓬莱寺は干からびる事なく、今日も元気に相棒の隣に立っている。
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