緋勇が物を食べているところを見た記憶がない。蓬莱寺はある日、ふとそんな事実に思い当たった。思い当たったら急に気になったので、隣にいた本人に訊いてみた。
「ひーちゃんて飯いつ食ってんの?」
「そういえば、ここ何年か食べてないな」
「何年って」
「さあ、何年だったか」
冗談だと思った。緋勇が冗談を言えるような人間だった、という新たなる発見に満足し、蓬莱寺はそれ以上の追求を忘れた。いつも背筋を伸ばし凛とした姿勢を崩さない彼は、もしかして食事の作法を知らなくて、それを恥じているのかも知れない。無邪気に考えたのは、そんな事だった。
「なんか好きなもんとかねぇの?」
「思いつかないな」
「じゃあ嫌いなもんは?」
「睡眠を妨害される」
「いや、そーゆーんじゃなくってさ」
どうも巧く躱されてしまったようだ。追ってまで問い質す気も起こらなくて、涼しい顔で異形にとどめを刺した緋勇の横顔をぼんやりと眺めていた。
背後では、まだ仲間たちが戦っている。連日連夜の旧校舎通いで、既に彼らも人外の戦闘力を誇る立派な戦士だ。数分も経たぬうちに手際よく魔物を片付けて、戦利品を手に顔を寄せ合っていた。
最初に気づいたのは、蓬莱寺だった。仕留め損ねた異形が一体、桜井の背後で不穏な氣を発している。大声で注意を喚起して、桜井が構えるより早く地を蹴った。耳の上をかすめた爪は無視して、愛刀を一息に振り下ろす。
耳障りな断末魔を聞きながら、桜井に向かってわざと恩着せがましい言葉を投げてやると、いかにも不本意そうに無愛想な礼が返ってきた。それが油断した自分への呵責を隠しきれなかった結果だと、蓬莱寺は過たず理解している。頬を伝う血液を袖で拭い、美里の厚意も断って笑って見せた。
旧校舎を出るや否や、醍醐が空腹を訴えた。相談するまでもなく寄り道が決定したが、いつものように緋勇だけが誘いを辞して家路についた。出会って間もない頃は大袈裟に残念がっていた桜井も、緋勇の生態を把握し始めた今では特に気にした様子もなく「じゃあね」と言って手を振っている。
それを横目で見ながら、蓬莱寺は逡巡していた。腹は減っている。だがそれ以上に、緋勇の生態も気になる。一体あの男は、如何なる食生活を以ってその頑強な肉体を維持しているのだろうか。腹は、とても減っている。
数秒の黙考の後、蓬莱寺は食欲を抑える事を決断した。
急ぐでもなく歩いていた緋勇の背中に走って追いつき、肩を叩く。緋勇は驚きもせずに、それどころか視線すら寄越さずに、無表情のまま歩き続けた。つまり無視した。相手が緋勇でなければ、舌打ちの一つもしていただろう。
渋面を作りつつも同じ歩調で後ろを歩く蓬莱寺に、根負けしたのは緋勇だった。
「腹が減ってたんじゃないのか」
「いや、それほど減ってねぇよ」
「そうか?」
「いや、まあ減ってるけど」
「どっちだ」
「ひーちゃん、夕飯どーする?」
「寝る」
「どんだけ眠いんだお前は」
「あまり近づくな」
「あ?」
「血の匂いがする」
目も合わせずにそう言われて、先程のかすり傷を思い出す。もう出血は止まっているし、そもそもこの程度の傷ならば蓬莱寺にとっては日常茶飯事だ。彼は血が嫌いなのかと考え、袖に付着した染みを見下ろした。
だが、蓬莱寺は記憶している。初めて降りた闇の中で、緋勇がどのように振舞ったかを。喧嘩ならば飽きるほどしたが、命の取り合いというのは初めての経験だった。殺意でもなく、ただそう生きている物の、純粋なる攻撃。戦慄したのも無理からぬ事だろう。その場の誰もが恐怖し、混乱していた。ただ一人、緋勇を除いて。
緋勇は身を挺して、つい先日から級友となっただけの人間を庇った。まともに身動きすらままならない蓬莱寺の前に立ちはだかり、正確に、冷静に異形を沈黙させた。蓬莱寺が余計な対抗心など燃やさなければ、彼は傷など負わずに済んだ。眼前に散った赤の記憶は、今でも蓬莱寺をたまらない気持ちにさせる。
自分の血なら気にならなくて、他人の血だと不快になるのか。その苛立ちが深い場所から湧き上がる激情だと、蓬莱寺はもう知っていた。
「慣れろ」
「なんで」
「俺は、たぶんまた怪我する、だろうから」
「俺の見てない所でしろ」
「無理」
共に往くと決めたのだ。己の未熟は否めない。きっとこれからも彼の隣で血を流すだろう。できる事なら、彼の為に。そんな決意をこめたつもりだった。
緋勇が住むアパートまでは、もう数歩を残すばかりだ。何度か部屋にも立ち入ったが、蓬莱寺は未だに信じられない。その部屋には、食器はおろか食材すら存在しないのだ。
ひとたび気づけば、どうして疑問すら抱かなかったのかと自分を責めたくなる。
緋勇は異常だ。
「京一」
異常だが、もうどうしようもない。
「腹が減ってるんだろう。帰れ。うちには何もない」
「減ってねぇっつってんだろ」
「俺は減ってる」
「へえ?」
捧げたい訳ではない。ただ、彼が欲するのなら与えても構わないと思う。必要とされるのなら、それでいいと。
ドアが閉まった。
「俺は近づくなと言ったぞ」
「ああ、言ったな」
「人の気も知らないで煽りやがって」
「うん、まあ知らねぇな」
「毎日だらだら景気よく垂れ流しやがって」
「垂れ流すとか言うなよ」
「俺は空腹なんだ」
「そーかい」
「京一」
「なんだよ」
「逃げないのか」
「んー、どーすっかな」
「後悔するぞ」
「しねぇよ」
物凄い力で頭を押さえられた。米神の傷に爪を立てられて、痛いと抗議したが緋勇には聞こえなかったようだ。目の横の皮膚に、生ぬるく湿った物が触れる。耳の近くで、ごくりと何かが鳴った。確認するまでもない。緋勇が血液を嚥下した音だ。
ドラキュラ(DRACULA)って逆から読むとアルカード(ALUCARD)なんだよな、などと、どこぞで仕入れた雑学が脳裡をよぎる。はてどこかで聞いたような響きだが、そういえば担任の名がそんな音の並びではなかったか。
「けっこー身近にいるんだな」
「あの女か」
「お、やっぱ同類は匂いで分かるとか?」
「見れば分かる」
「へー」
「少し黙れ」
「これさ、俺まで吸血鬼になったりしねーよな?」
「さあな」
「え、ラーメン食えなくなるとか、ちょっとやだな」
「食いたければ食え」
「食えんのかよ」
「さあな、やってみろ」
ひとしきり人の傷口を舐め回し、緋勇は満足して身を離した。とんだ悪食だと呆れつつ、干乾びるまで吸われなくて助かった、と安堵する。そうしてから、もしかしてこれは危険な行為だったのでは、と今更になって心臓が冷えた。
牙など生えていないかと舌で歯を探ってみても、特に以前と変わった部位は発見できない。春に出会って以来ずっと緋勇を見ていたが、食生活の他には取り立てて異常な事も見受けられなかったので、まあいいかと結論づけた。
翌日、空腹に耐えかねてコンビニで仕入れた弁当を食べたが、これも特に何事もなかった。朝日を浴びても灰になる事はなく、十字架にもニンニクにも拒絶反応はなかった。血を欲するような衝動も感じられず、蓬莱寺は拍子抜けしたような気分で惰眠を貪る緋勇を蹴り起こした。
「おいひーちゃん、起きろ」
「なんで」
「朝だから」
「それは理由にならない」
「なるだろ、学生だろお前」
「太陽ごときが俺を支配できると思うな」
「いいから起きろ」
悪食な上に寝汚いなんて最悪だ。しかも味を占めたのかなんなのか、寝惚けたまま頭を鷲掴みにされて、かさぶたになった傷に歯を立てられた。
間近に迫った鼻柱を人差し指で弾くと、悪食でも人体の急所は相違ないのか、緋勇が変な声を上げて顔を離した。打たれた鼻を押さえて睨んでくる顔は、見慣れた緋勇のものだ。
「そーいや何年も食ってないとか言ってたよな」
「ああ、食ってないな」
「平気なのか?」
「意外と死ななかったな」
「そんなもんか」
こうして蓬莱寺は、生きたまま化物の餌食となった。
が、特に以前と変わりなく、今日も元気に相棒の隣に立っている。
|