その足を切り落としたら、あいつは止まるだろうか、と考えた。実行に移すほどの度胸も無いので、あいつは今でも自由に飛び回っている。時折、気紛れのように顔を見せる事もある。その度に思う。どうすれば奴は止まるのだろう、と。情熱を失い、退屈な日常に埋もれて生きる事を受け入れるのだろう。
商店街に笹が飾られているのを見て、皆守は今日が七夕である事を思い出した。紙切れに願い事を託すなどという遊びに参加する気は無いが、年に一度の逢瀬を思うと少しの感傷が湧き上がる。その物語が怠惰を戒める色も有している事を、皆守は知っていた。かつて葉佩が語ったのは、膨大な量の情報を含んだ、思考とも、一人連想ゲームともとれるような散漫な言葉だった。興味が無かったので、その大部分は忘れてしまっている。
幸いなのかどうなのかは判断しかねたが、今日は心地好い風が吹く快晴だ。都会の空には天の川など架かりようもない事を、少しだけ残念に思う。船の代わりに川を渡るのは、カササギだったか白鳥だったか。ぼんやりとそんな事を考えながら、慣れた道を踏む。自宅のアパートまで残すところ三歩ほどの場所で、皆守の足が止まった。
「・・・おい」
「あ!皆守!おかえり!」
「何してやがる」
「いや、こっち来たから顔ぐらい見とこうと思って」
「そりゃあご苦労な事だ」
「まあね」
「・・・他の奴らは?」
「やっちーには会ったよ」
一番ではなかった事に僅かな嫉妬を覚える自分が、途方もなく嫌になる。胸中に吹き荒れる様々な感情をどうにか飲み下し、無表情を保って葉佩を部屋に招いた。大荷物を抱えているようにも見えるが、それが彼の持ち物の全てだと思えば少ないようにも感じる。帰る場所など必要ないときっぱりはっきり言い放った葉佩に、皆守は今でも憧憬を抱いていた。そして、どうしようもないほどの憐れみも。
「まだ定住しないのか」
「地球上の全部が俺の家って考えれば、悪くないよ」
「そんなもんか」
「そんなもんだよ」
葉佩のリクエストで、コーヒーではなく紅茶を淹れる。土産だと言って差し出された茶葉は、湯を注ぐと不思議な芳香を醸した。甘いような、苦いようなその香りが、皆守の嫌う感情を思い起こさせた。
茶を淹れながらそこはかとなく憂鬱そうな顔をする皆守を、葉佩が見留めて笑った。
「いい匂いするだろ?」
「まあ、悪くはないんだが」
「やっちーはすっげぇ喜んでくれたのに」
「あいつは何を渡しても大概は大喜びする」
「プレゼントし甲斐があるよね」
「逆に無いとも言える」
「誰に対しても同じ反応ってのが嫌なんだ」
「・・・」
「まあ飲んでみてよ。味はそんなに甘くないから」
さらりと言い当てられ、皆守が思わず絶句した。その様子に気付かぬ素振りで、葉佩は淹れたての茶をすすっている。会話が途切れてしまうと、葉佩は皆守などには興味なさそうに床に寝そべった。ふと皆守の脳裡に、床を掃除をしたのはどのぐらい前の事だろう、という疑問がよぎったが、思い出せなかったので何も言わずに目を伏せる。地べたにも平気で座り込む男だ。気にする必要は無い。
暫く無言で不思議な香りの茶を飲んでいたら、葉佩の寝息が聞こえてきた。見下ろせば、まるで行き倒れのような格好で眠っている。その額に治りかけの擦過傷を見付け、皆守がほんの僅かに眉を寄せた。
痛みにも、悼みにも、葉佩は怯まない。孤独も嘲笑も恐れてはいない。眼前で友人が死地に向かっても、ただ悲しそうに、悔しそうに唇を噛んだだけだった。どうすれば、この男は壊れるのだろう。
隣人が物騒な思考を弄んでいる事など知らず、葉佩は弛緩しきった表情で目を閉じている。
「葉佩」
名を、呼んでみた。返事は無い。ただの屍のようだ。本当に屍だったら、ずっと此処に留まってくれるだろうか。何処へも行かず、皆守だけが存在しているこの空間に。自分の思考の飛びっぷりに呆れ、皆守が声を殺して笑った。狂気と呼ぶにはあまりに穏やかなこの心を、何と名付ければいいのだろう。
もう一度だけ「葉佩」と呼んでも反応が無かったので、そっと手を伸ばした。硬い髪に指先が触れる。その瞬間、葉佩が音を立てて身を起こした。思わず声を上げて上体ごと手を引いた皆守を、ぼんやりと見詰める。
「なんだ皆守か」
と言って、葉佩がまた突っ伏した。再び聞こえてきた寝息に、何故か硬直していた皆守の体から力が抜ける。葉佩の反応は、もはや自動的なのだろう。信頼が無い訳ではないのだろうが、それでも葉佩は本当には眠っていない。全てを預けられているのではないのだと、そんな言葉に容易く痛みを感じる自分を殺したくなる。
「おい、せめてベッドで寝ろ。貸してやるから」
「んー」
「そんな所で寝られたら邪魔だ」
「うー」
呻く葉佩に苛立ち、触れば起きるのだと思い出して腕を掴んだ。だが予想に反して、葉佩は低く唸っただけで目を開かない。更に強く引いてみても、覚醒する気配は感じられない。体を丸めて眉間に皺を寄せた葉佩を、うんざりと見下ろす。数秒間その間抜け面を見詰め、もう一度だけ手を伸ばしてみた。
「葉佩」
触れる直前に名を呼ぶ。葉佩は目覚めない。指先が、頬に接触した。反応は無い。今度は手の平で額に触れてみる。葉佩はまだ目を閉じている。傷跡をなぞる。耳を撫でる。髪を引っ張る。まだ起きない。もう一度、囁くように呼んだ。触れた体は弛緩している。口元に指を当てる。熱い吐息が、くすぐるように触れた。
夏の午後、少しの風が吹いている。朝に聞いた天気予報では、今夜も晴れらしい。一年に一度の逢瀬を思い、皆守が無音で悲しそうに、悔しそうに唇を噛んだ。子供騙しの、つまらない御伽噺だ。天候に左右されるような無力な彼等が、どうして願いを叶えてくれるなどと信じるのだろう。否、きっと誰も信じてなどいない。願いを叶えてくれる存在など、何処にもいないと知っている。
冷めてしまった茶は、もう香りを立ててはいない。しかし皆守の胸には、あの甘いような苦いような芳気が満ちていた。
この心臓は、なんて切ないもので満たされているのだろう。
触れる吐息が乱れる事のないように。
それだけを願って、皆守は目を閉じた。
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