日が傾いた頃、葉佩が漸く目を覚ました。覚醒してすぐに認識した柔らかいシーツの感触に、思わず頬が緩む。次いで、寝覚めた場所が、眠った場所と違う事に首を傾げた。鼻に触れた香りに、空腹を思い出す。皆守が肩越しに振り向き、「やっと起きたか」と言ってまた視線を前に戻した。皆守が立っているのは、キッチンと思しき場所だ。辺りに漂う香りは、その視線が向かう先を葉佩に教えている。
「カレーだね」
「文句があるならさっさと出て行け」
「カレーだねって言っただけだろ!」
「うるさい、喚くな」
「俺、さっきあそこで行き倒れたよね」
「俺が運んでやったんだ」
「あ、やっぱそうか。ありがと」
「重かった」
「そりゃ軽くはないだろな」
戦う為の体なのだと、言外に含めたつもりだった。葉佩はそれを誇っている。だが皆守は、葉佩の誇示と稚気に富んだ言い回しなど気にも留めずに鍋をかき回している。どうやらご機嫌斜めのようだ。数ヶ月振りに、しかも唐突に自宅を訪問し、あまつさえベッドまで占領して寝入ってしまったのだから、不機嫌にもなろう。そう思い、葉佩は素直に謝罪を落とした。
「悪かったよ、皆守はスプーンより重たいもん持った事ねぇもんな」
「本気で蹴り出すぞこの浮浪者が」
逆効果だった。背を向けた皆守が、更に機嫌を傾がせた事を察知する。殺気すら感じるのは錯覚だろうか。まだ眠気の残る頭で、そんな事を考える。本気で彼が殺意を持っていたら、この体がこんなにも弛緩している筈がない。葉佩は自分の本能に、絶対の自信を持っていた。日向の匂いのする柔らかいベッドを差し引いても、人前でこんなに長時間の熟睡を経験した記憶は無い。自分がこんなにも緩やかになれるのは、今は鍋に夢中の彼が居るからだと、葉佩は確信していた。
「ねえ皆守」
「・・・もう作っちまった」
「はい?」
「今更、食わないで行くとか言っても遅いぞ」
「言わないよ」
「・・・そうか」
華奢な背中が音も無く揺れるのを、葉佩はじっと見詰めた。断片的な夢の記憶が浮かび、それでなくとも緩んでいた頬が、もうどうしようもないほど溶けるのを自覚する。同じ夢を、葉佩は何度となく見ていた。願望の現われだと、今ではもう分かっている。
皆守が振り向きもせずに「皿」とだけ言った。葉佩が戸棚から二人分の食器を取り出す。皆守の美意識に基づき、ルウとライスが綺麗に分割されて盛り付けられるのを、鼻歌でも歌いたいような気分で見詰めた。同じ食卓で同じ料理を食べる事がこんなにも嬉しいのだと、葉佩は最近になって漸く知った。
「ねえ皆守」
「・・・」
「今日って七夕なんだよね」
「・・・らしいな」
「短冊に願い事とか、しないの?」
「すると思うのか?」
「思わない。言ってみただけ」
「死んだんだったか?」
「・・・誰が?」
「織姫と彦星」
「ああ、ええとね、それは記紀と関連させた説で」
「分かったもういい」
長くなりそうな気配を察知して、皆守が透かさず葉佩の言葉を遮った。出鼻を挫かれた葉佩が、しょんぼりとスプーンを銜える。時節の話題など、その場しのぎでしかない。
いつまで、というような言葉を、皆守は決して口にしない。だから、葉佩も言わない。代わりの話題を探し、先程の夢の話をしてみた。その途端、皆守が顔色を変えた。よどみなく動いていた手が止まり、顔を隠すように覆う。
「皆守?どした?」
「・・・なんつー夢見てんだお前は」
「しょーがねぇだろ、夢なんだから」
「そう、だな、夢だから、な」
「そんな嫌そうな顔すんなよ」
「別に嫌って訳じゃ、ああ、いや、まあ、なんだ」
「何だよ」
「お前の欲求不満に俺を巻き込むな」
面白いぐらいに動揺している皆守を、葉佩が不思議そうに見詰める。視線を逸らしたまま食事を再開した皆守の口元を見る。夢の中の熱くて柔らかい感触は、まだ微かに残っていた。だが、葉佩はそれが幻だと信じている。夢じゃなかったのかも、などと思わないでもなかったが、口には出さない。
動揺から立ち直った皆守が、やはり目を伏せたまま言った。
「なあ葉佩、それが、その、夢じゃなかったら、どうする?」
「逃げる」
即答した葉佩に、皆守が肩を撫で下ろした。
踏み出せば、きっと戻れなくなる。葉佩は強欲な自分を知っていた。全てを奪うまで、きっと自分は止まれないだろうと自覚している。壊れたまま流れるように生きる葉佩には、誰かと共にある事など許されない。
いっそ縛り付けてくれないかな、などと、葉佩は戯れに考える。この足を切り落として、強制的に閉じ込めてくれれば。だがそんな葉佩なら、皆守は興味を失うだろう。風のように、雲のように、雨のように訪れる葉佩だからこそ、皆守はあんな瞳を向けるのだろう。空を見るような目で、眩しそうに、切なそうに。その目が、自分の一本だけ残った正気の糸なのだと、そんな事実は絶対に言わないと決めている。
自分の皿を空にした皆守が、無言で立ち上がった。次いで葉佩の皿を見て、少しだけ目を見開く。
「珍しいな。まだ食べてないのか」
「あ、うん、いや、食うよ」
「辛くしすぎたか」
「いや、美味いよ」
皆守が辛党で良かった、と、葉佩は常々思っている。もしも皆守の作る物が甘かったら、まるでそれが幸福のように思えてしまうだろうから。甘さという幸福から、逃げ切る自信は無かった。
夢の感触を思い出し、葉佩はその甘さに頭を抱えた。ずっと此処に居たい、なんて。離れたくない、なんて。葉佩が旅人でなくなったら、皆守はきっと失望するに違いない。
皆守が憧れる、自由な雲である為に。
葉佩はその誘惑を振り切って、今日も旅立つ。
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