世界が赤く染まっていた。
 誰もいなくなった教室で、蓬莱寺が机に突っ伏している。だらしなく口を開き、近付いても目覚める気配はない。彼の髪は夕焼けに似ていると、唐突に緋勇は思った。
 そっと、指先で触れてみる。存外に柔らかい赤毛が、さらりと手をくすぐった。彼の髪に触れていると、綺麗な夕焼けを見た時のように胸が切なくなる。ずっと不思議だった。この男は、どうしてこんなにも、ただ存在するだけで自分を苦しくさせるのか。

 指が耳に触れると、蓬莱寺が小さく何事か呟いて顔を上げた。ぼんやりと、いかにも眠たそうな目が緋勇を映す。

「起きたか」
「ひーちゃん?」
「帰るぞ」

落とされる声には反応せず、寝言のような口調で緋勇を呼び、微笑んだ。まだ耳の横にあった手を、ゆるりと掴んで頬に寄せる。戸惑いつつも動けない手の平に、吐息が触れて、唇が触れた。
 緋勇が即座に奪われた手を取り戻し、再び突っ伏した脳天にそれを落とす。漠然と幸せそうな蓬莱寺は、それでも顔を上げなかった。手加減しすぎたか、と緋勇がこっそり舌を打つ。しかし二撃目を放つより早く、蓬莱寺が再び手を伸ばした。所在なげに漂っていた緋勇の手を引き寄せて、幸せそうな形に歪んだ唇へと近付ける。

「何がしたい」
「んー、もうちょっと」
「日が暮れるぞ」
「もう暮れてる」
「それもそうか」

返す言葉を見失い、緋勇が途方に暮れて窓の外に視線を投げた。世界は夕暮れだ。もうすぐ夜が来る。捕らわれの右手を取り戻す術も逸してしまった。だからといって、ずっとこのままではいられない。離さなければ、歩き出せない。
 呼んでも髪を引っ張っても返事はなかった。ならば殴るまで、と握った拳は、しかし何物にも到達せずに無為に空を泳ぐ。あどけない寝顔を殴って起こすなど、そんな非道な事はできない。何故か敗北したような気分になって、それでいて悔しくはないのが無性に悔しかった。

「京一」
「んー?」
「起きろ」
「やだー」
「襲うぞ」
「待ってました」
「待つな、逃げろ」
「だってひーちゃんだし」
「?」
「喜ぶだろ、俺は」
「意味が分からん」

ふわふわと浮遊する声は、睡魔を誘って拡散する。捕らわれの右手が解放される事もない。さてどうやってこの手を取り戻すか、と思案していたら、指先にちくりと痛みが走った。それは痛みと呼ぶにはあまりに小さな刺激で、しかし緋勇にはひどく耐えがたい刺激だった。つまり、蓬莱寺が指に噛み付いたのだ。子猫がじゃれるような、甘ったるい仕草で。
 緋勇は無意識に、空いていた左手でその頭部を鷲掴みした。

「んぁ?」
「いい度胸だな」
「え、なに?」
「それだけは褒めてやる」
「お、おう、照れるぜ」

さすがに顔を上げざるを得なかった蓬莱寺は、それでもなお、どこか夢見るように視線を滲ませる。静寂の教室に満ちる、窓ガラスをかすかに振動させる凄絶な氣には、まるで気付いていないかのように。
 即殺の心地で握力を行使した緋勇は、その意思に反して一向に破壊を為さぬ右手を持て余していた。これでは、ただ髪に触れているだけではないか。頭を撫でたと勘違いされたらどうしよう。撫でたくない訳ではないのだ。本当はずっと触れたかった。だが、今は違う。優しく穏やかに髪を梳くだけでは、この衝動は収まらない。

「ひーちゃん?」
「頭蓋骨は、28個のパーツに分けられる」
「へえ」
「つまり、頭蓋骨にも接続部が存在する」
「ほお」
「という事は、強く圧すればそこに大きく負荷がかかる」
「ああ、うん」
「そこが、人間の急所だ」

頭に手を置いたまま何やら不穏な事を言い始めた緋勇に、眠たげな視線が絡み付く。ひーちゃんって変なとこだけ物知りだよな。無邪気に笑う瞳に、恐怖は見出せない。それどころか動けない手をひょいと取られて、またしても口元に持っていかれた。どうして口に近付けるのだろう。腹が減っているのだろうか。え、食われる?
 混沌としてきた思考は流れるに任せておいて、なかなか完全には取り戻せない右手をどうするか本気で考える。しばし右手を預けたまま黙考するが、妙案は浮かばなかったので諦めた。

「おい京一」
「ん?」
「帰るぞ」
「どこに?」
「どこって」
「ひーちゃんが帰るのは、ここだろ?」
「教室に住んだ憶えはないが」
「そーじゃなくて」

依然として取られたままの右手を、強く引かれた。空いている方の手で殴るか、それでなくとも抵抗できないほどの拘束ではなかったが、何故か緋勇は引かれるまま机に肘を付いた。見上げてくる瞳が、悪戯に成功した子供のように細められる。三日月のようだ。三日月は、彼の得物とよく似ている。つまり、彼の瞳は刃に似ているという事か。間近の瞳を見詰めながら、ぼんやりと言葉が脳裡を行き過ぎるのを見送る。
 空の端は、まだ赤い。ふと、疑問が落ちてきた。

「昼間はどこにいたんだ?」
「んー?」
「教室にいなかっただろう」
「あー」
「どこにいたんだ」
「さあ、忘れちまった」

追求は不可能と判断して、早々に詰問を放棄する。それほど重要な疑問とも思えない。緋勇の右手を顔の近くに置いて、蓬莱寺はよく分からないがご機嫌のようだ。爪をなぞり、指の腹を撫で、手の平をくすぐる。ぞわぞわと這い上がる感触に、緋勇が眉を寄せた。

「腹が減ってるのか?」
「あー、うん、減ってる」
「だったら起きろ」
「ひーちゃんが起こして」

実力行使の許可が出た。ならば遠慮する理由はないと、そもそも遠慮する理由などどこにも存在していなかったのも無視して拳を握る。直後に、蓬莱寺が視線を上げた。頬は机にくっつけたまま、無防備に首筋をさらして緋勇を見上げる。振り上げるでもなく冷静に攻撃の形をとった拳が、行き場を失ってたよりなく虚空をさまよう。
 理不尽だ。怒りすら覚え、緋勇は唇を噛む。自分はこんなにも困惑しているのに、眼前のこの男は幸せそうに微笑み、あろう事か人の右手を菓子に見立てて遊んでいる。理不尽だ。許せない。殴りたい。抱き締めたい。おい待て落ち着け俺。

「ひーちゃん、窓」
「俺は窓じゃない」
「赤い」
「単語で喋るな」
「空も」
「何故なら今が夕方だからだ」
「どーりで、誰もいねぇ訳だ」

言いつつ、蓬莱寺が捕らえた手に唇を押し付ける。柔らかい、熱い、くすぐったい、俺を殺す気か、殺されたいのか。様々な言葉が嵐のように渦巻き、しかし声にはならず消え失せる。それを知ってか知らずか、蓬莱寺が親指の付け根に歯を立てて言った。

「ひーちゃんも赤いぜ」

 今日も惨敗だ。