酔っていた。
それ以外に言い訳は見付からなかった。望んでいなかったといえば嘘になる。確かに、幾度となく夢想しては湧き上がる熱を自覚した。だが、その夢を実現させるつもりなど無かった。脆弱な精神を、ただ密やかに守りたい。ずっとそう思っていた。それもまた、嘘ではないのだ。
昨夜の映像を思い出してしまい、夷澤はその場で頭を抱えた。皆守はまだベッドで寝息を立てている。それを確認したのは、三分ほど前の事だ。夷澤はその三分間で、後悔とそれを押し退けて叫ぶ歓喜を、どうにかして落ち着かせた。体の奥が、未だ燻るように熱を持っている。そして体の表面は、それ以上の温度を発していた。
腫れ上がった肩を冷やしながら、夷澤は血の混じった唾液を洗面台に吐き捨てた。口の中も傷付いている。舌でその箇所を撫でながら、痛みにではなく顔を歪めた。しかしどれだけ苦い顔をしようとも、感じているのは気が遠くなるほどの甘さだ。
港から少し外れた路地で、皆守はその時には既にゆらゆらと揺れていた。足元の覚束無い皆守を心配しながら、夷澤はその目が何かを含んでいる事に気付いていた。
「皆守せんぱーい、飲みすぎじゃないっすかぁ?」
「うん、まあ、飲みすぎかそうじゃないかって言われれば、飲みすぎだな」
「じゃあもう帰りましょーや。俺もちょっと飲みすぎました」
皆守はいつものように黒ビールで始め、二杯目からブランデーに移行した。夷澤はダブルのハイボールから始めた。バーボンのストレートを呷ったのは、確か店を出る直前だったような気がする。その間の事は、あまり記憶に無い。時折、気紛れのように言葉を交わして時間を過ごした。二人とも饒舌な性質ではない。空間に落とされた言葉は、決して多くはなかった。だがその緩やかに過ぎる時間が、夷澤を少しだけ普段より穏やかな気持ちにさせた。
「せーんぱーい、揺れてますよー」
「ん?そうか?世界が揺れてるのかと思った」
「ああ、そうなのかも」
月影と戯れるように歩く背中を追って、ゆったりと道を踏む。皆守は、先程から随分とご機嫌だ。紫煙と踊りながら、時々含み笑いを漏らしている。視線は合わせないが、夷澤を意識の内に入れているのは確実だった。その肩が、ふ、と沈んだ。視界から皆守が消えた。状況を把握し損ねた夷澤が、目を見開いて立ち止まる。次の瞬間、真下から空を切る音と共に革靴が飛んできた。油断していた体は、全く反応できずに立ち尽くしている。靴底の向こうで、皆守が笑っていた。
「どうした?」
「それ俺の科白なんすけど」
「来ないのか?」
「もしかして、誘ってます?」
「なんだ、本当に気付いてなかったのか」
「何がっすか」
「お前、物凄い目で俺のこと見てるぞ」
少し崩れた浴びせ蹴りの体勢のまま、皆守が左手のパイプを口に運んだ。流れる紫煙を見詰めながら、夷澤が胸中で笑みを浮かべる。顎に触れる直前で静止した足を、手の平で押し返す。隠す気など、初めから無かった。
「あんたはもっと鈍い人だと思ってましたよ」
「一応言っとくが、俺はお前より強いぞ」
「分かってますよ。だからっす」
「そりゃいい心がけだ」
僅かな違和は、先程から感じていた。無防備に晒される背中。視線は逸らされているのに、神経のほぼ全てがこちらに向いているのが分かった。気紛れに乱れる靴音は、彼が攻撃する時の音とよく似ていた。
夷澤はずっと思っていた。眠たげな瞳が燃え上がる様を、間近で見たい。同時に、彼が炎に焼かれる様など見たくない、とも思っていた。晩夏の午睡のように穏やかに微睡む姿を、ずっと見ていられたら。だが、奥で燻る瞳を眼前にして、溢れたのは狂ったような歓喜だった。
「やらせてくれんすか?」
「お前次第だ」
皆守が微笑んだ。彼が生に執着していないのは知っていた。覚悟などではなく、この苦界から解放される時を待ち望んでいる。その事実が、耐えようもなく辛かった。どうすれば届くのだろう。何度も心で呟いた。答えは今も出ない。きっと言葉では伝わらないのだと、漠然と感じていた。
人を殴るのが楽しいなどと、一度たりとも思わなかった。だが不快を快に変換する方法を、夷澤は知っていた。自分が人間である事を忘れればいいだけだ。いつも表皮のすぐ下で固く凝っている破壊衝動を、解放してやればいい。だがその方法は危険をはらんでいる。周りが見えなくなるのだ。いつだって、気付くと狂人を見る目が自分に突き刺さった。拳を打ちつける作業に熱中するあまり、背後に近付いた殺気に気付けなかった記憶もある。そんな自分を、夷澤はずっと嫌悪していた。
皆守は、いつだって冷静に見えた。複雑な軌道を描く爪先は、正確に急所を捉える。それを支配する目は、決して燃え立つ事が無い。水のように、或いは氷のように、無心に力を行使する。そう思っていた。
「あんたも、実はけっこう物好きなんすね」
「お前ほどじゃない」
「見てましたよ、あの時」
「ん?」
「あんたがあいつとやってる時」
「・・・」
皆守が気まずそうに視線を落とした。その目が高温の光を放つ瞬間を、夷澤は見ていた。
暴力で人を傷付け、恐怖で支配する。それを快楽だと感じる、暗く病んだ精神。他人と触れ合う方法を、他に知らないのだろう。皆守が知る唯一の交わりは、暴力と致死だった。そして皆守は、初めから最強だった。交わりは痛みではなく、屈辱でもなく、ただ快楽だった。
「俺にもやらせてくださいよ」
「やりたいのか?」
「やりたいっすよ」
「ふうん」
見慣れた表情で嘲るのを、視界の真ん中で確認する。皆守が手の平を上向けて差し出した。夷澤の真正面で、僅かに中指が引かれる。それが合図だ。夷澤が力強く地面を蹴った。
一息で懐に入り込み、脇腹を目掛けてジャブを放つ。躱されたのは計算どおりだ。引いた体を追う事はせず、空いた間合いを保って誘う。誘われて、皆守が一歩踏み出した。右足の着地と同時に、空を裂いて爪先が振り上げられる。予想以上の速度で飛んできた靴を、夷澤が左の肘で受け止めた。威力を殺しきれずに重心が傾いだ。皆守が左足を引き、今度は右足を振り抜く。その瞬間を待っていた。攻撃が切り替わる一瞬の隙を見逃さず、右拳を真っ直ぐに突き出す。皆守が、攻撃の為に振り上げた右足を防御体制に移行する。同時に飛びすさり、再び間合いを取った。
「俺も、悪くないでしょ?」
「ふん、言ってろ」
相変わらず見下げた物言いだが、その瞳が静かに光を放ち始めた。それを察した夷澤の胸に、歓喜が沸き起こる。知らず歪んだ唇は、拳と同じく真っ直ぐに皆守の胸を打った。
皆守は、初めから最強だった。如何なる努力も必要とせず、ずっと一人で高みに立っていた。在るがままに振舞えば、それだけ世界は遠くなった。振り返り、来た道を眺める事も無い。見上げても、臨むべき高みなど存在しない。誰も届かぬ場所に、たった一人で立っている。
まだ終わってはいない。そう主張する為に、夷澤が靴底でアスファルトを叩く。皆守が、じり、と音を立てて道を踏む。壮絶な色の瞳で夷澤を見据え、唇の端を僅かに上げた。夷澤には、それで充分だった。狂喜を隠さず、身の内で暴れ回る衝動を解放する。揺らめくように立つ人に、激情を叩き付けた。
目視は諦めた。勘と反射神経だけで、空を切る爪先を躱し、受けた。一撃でもまともに食らえば、その時点で勝敗が決まる。皆守の弱点は、もう知っている。持久力だ。最強ゆえに、皆守は長期戦の経験が少ない。食らい付けば、勝機はある。
予想どおり、皆守の足取りに変化が多発し始めた。距離を測り、間合いを取ろうとする動作が増えた。表情にも焦燥が見える。見出した変化に、気持ちが妙に沸き立つ。心が欲するままに、夷澤が一歩前に出た。防御を掻い潜り、身を低くして走り込む。鋭く振られた左足を躱し、無防備な腹に右拳を突き刺した。
皆守が膝を付いた。打たれた腹を押さえ、うずくまって咳き込む。
「っしゃあ!取った!」
「げほっ・・・」
「取りましたよね!いま!」
「・・・吐きそうなんだが」
「あ、じゃあ吐くとこ見てます!」
皆守の喉が、ゴクリと音を立てた。嘔吐はどうにか堪えたらしい。もっと無様に敗北させたかった。よぎった思いを言葉にする前に、意識が痛みに塗り潰された。何度も防御に使った右肩が、動かす度に激痛を発しているのには気付いていた。右腿は、既に腫れ上がっている。気を抜くと意識が遠退くのだが、勝ちには違いない。
「皆守先輩に勝ったー!」
確かめるように宣言し、夷澤がその場に座り込んだ。後ろ手に上体を支えようとして、体重を掛けた腕の痛みに飛び上がる。膝が思うように曲がらないのは、きっと完治に数ヶ月を要するだろう。壁に凭れながら立ち上がった皆守が、呆れたようにそれを見ていた。見上げる夷澤は、含むものなど何も無いというように晴れ晴れとした笑みを浮かべている。
皆守は、もう知っていた。夷澤が叫ぶその言葉を、永久に理解できない自分を。汗も涙も、情熱すら必要とせず、皆守は敵を沈黙させた。思いが報われた瞬間など、記憶のどこにも存在しない。だから、こんな風に笑う、その思いなど。
子供のように笑う夷澤に、皆守が無言で手を差し出した。差し出された手を取る事はせず、夷澤が拳を突き出す。その行為の意味を察してしまった皆守が、嫌そうに顔を歪めてアロマに火を点けた。そんな経験は無いのだが、皆守はそれに返す方法を即座に思い付いた。夷澤が、焦れたように何度も拳を小さく突き出す。
積み上げて、一つ登って、確かに近付く高み。その喜びを、夷澤は全身で叫んでいる。見上げる瞳が、切ないほど眩しい。理解する事は無いのだと、その事実が酷く悲しい。
「そんなに嬉しいか」
「嬉しいっすよ」
尖った指の付け根に、ゴツンと音を立てて拳をぶつけた。それが共に歩む者への表敬だと、理解はせずとも、皆守は知っていた。夷澤が更に相好を崩す。望んだものを得た充実感だけが、そこには存在していた。
羨ましいなどとは思わない。ただ、理解する事は無いのだと、皆守はそれだけを惜しんだ。
|