緋勇は夜の街を歩いていた。
紫暮に誘われて顔を出した道場で、常になく熱くなってしまったのだ。その異能を差し引いても、紫暮は優れた能力を有する格闘家だ。居合わせた壬生の無邪気な挑発もさる事ながら、磨き抜かれた技と力は緋勇にたやすく時間を忘れさせた。心地好く疲弊した体を運ぶ足取りも軽く、緋勇は家路を急ぐでもなくゆったりと歩いていた。
その背中に、よく知った声が届く。振り向けば、一目で素面ではないと分かる蓬莱寺が立っていた。その横には村雨もいる。どうやらこの不良少年どもは、宵の口から飲んだくれていたようだ。
大声で緋勇を呼んでおきながら、蓬莱寺は目が合った直後にふいと顔を逸らした。緋勇が眉を寄せる。
「よお先生、あんたがこんな時間に出歩くなんて珍しいな」
村雨が薄く笑い、気安い仕草で歩み寄った。蓬莱寺は、警戒するような姿勢でじっとその場に突っ立っている。普段ならば、緋勇の顔を見るなり嬉しそうに走り寄ってくるのが蓬莱寺という男だ。
「京一はどうしたんだ?」
「あんたが構ってやんねぇから拗ねてんだよ」
「そうか」
「ま、ちょいと撫でてやれば機嫌も直るだろ」
「そうだな」
自分で言い出しておきながら、村雨はなんとも言えない表情で視線を泳がせた。ここまで素直に肯定を返されるとは思っていなかったらしい。
言葉を交わす二人を睨むような目で見詰めていた蓬莱寺が、袱紗を握りなおして眼光を鋭くした。その瞳が燃えるような闘志を含み、緋勇を真直ぐに貫く。しかし緋勇がそれに応を反すより早く、引き結ばれていた蓬莱寺の唇がほどけた。ともすれば泣きそうな声音で、緋勇の愛称を叫ぶ。
「ひーちゃんは俺が嫌いなんだろ!」
「!?」
彼は、緋勇が思っていた以上に酔っているようだ。糾弾するかのごとく、袱紗に包まれた彼の愛刀が緋勇を指し示す。
苦笑して肩をすくめた村雨は夕刻からずっと愚痴に付き合わされていたのだが、緋勇はそんな事を知る由もない。どこから出発してどのような道筋をたどってそんな結論に至ったのか、緋勇が判じかねて村雨を見やる。その仕草にさえ追い詰められて、蓬莱寺が不安げに瞳を揺らした。
「ええと、京一、意味が分からないんだが」
「あいつ飲み始めからずっとこんな感じだったぜ」
「ひーちゃんにくっつくな斬り落とすぞ!」
「何をだよ!」
「京一」
「な、なんだよ」
わずかばかりの苛立ちをこめて、緋勇が低く名を呼ぶ。自分の理不尽な物言いに気付いたのか、はたまたその尖った眼差しに気圧されたのか、蓬莱寺が少しだけ怯んだ。しかし反省にまでは到達できなかったらしく、下がった切っ先を再び攻撃的な角度に戻す。
緋勇が、音もなく片足を前に出した。蓬莱寺が一瞬だけ喜色を浮かべ、すぐに頬を引き締める。通りすがったほろ酔いの中年男性が、対峙する二人を不思議そうに眺めていた。それを片手で追いやり、村雨が呟くように問う。
「お二人さんよ、ここがどこだか忘れちゃいねぇか?」
深夜に程近い時刻なればこそ往来もまばらだが、それでも人影は絶えない。ひとたび互いを視界に入れれば即座に昂ぶる二人と違い、村雨は少々酔ってはいるが常識を見失う人間ではなかった。
水を差された戦士二人が、同時に小さく舌を打つ。だが、いまだ覚めらやぬ蓬莱寺はさも忌々しげに村雨を睨みつけ、同じ瞳で緋勇に向き直った。
「ひーちゃんは俺といても楽しくねぇんだ!」
「いや、そんな事はない」
「すぐどっか行っちまうし!」
「それはお前もだろう」
「あんま喋んねぇし!」
「そ、そうでもない、だろう?」
「触ると殴るし!」
「そうだったか?」
「肘とか曲がらない方に曲げようとするし!」
「お前が動かなければ極まらないんだがな」
「やだっつってんのに入れちまうし!」
「お前だって最終的には喜んでただろう」
「中で出すなって言っても聞かねぇし!」
「だからあれはお前が」
「天下の公道でどこまでぶちまける気だお前ら!」
何やら危うい発言に、村雨がたまらず割って入る。
ちなみに、蓬莱寺の発言を補足すると「(味噌汁にわさびを入れるのは)やだっつってんのに入れちまうし」、「(部屋の)中で(炎を)出すなって言っても聞かねぇし」という意味だ。含むところは何もない。村雨が思わずいかがわしい想像をしてしまったのは、ひとえに彼の不徳である事を記しておく。
ともあれ、何故か大慌てで二人を黙らせた村雨が、視線の余熱がただよう空間を攪拌しつつ、涙まで浮かべる蓬莱寺の肩に手を置いた。直後、その手を体ごと引いた。緋勇の発した剄が恐ろしいまでの速さで鼻先を通過したからだ。
村雨の胸に、疑問が豪雨のごとく降り注ぐ。一瞬でどこへともなく流れていった言葉たちを為す術もなく見送り、村雨が一歩引いてかぶりを振る。酔いも回ってきたし、そろそろ帰ろうと踵を返しかけ、ほぼ同時に腕を取られてたたらを踏んだ。
「おい村雨、どこ行くんだよ」
「いや、ちょっと平穏な世界に」
「おめーも飲み足んねぇだろ、もーちっと付き合え」
などと恐ろしい事を言う蓬莱寺の襟首を掴み、緋勇に放り投げるような動作で押し付ける。足元のおぼつかない蓬莱寺を受け止め、緋勇が腕の中の相棒をじっと見下ろした。一瞬だけ身を預けた蓬莱寺は、しかし肩に回された手を振り払い、決然と言い放つ。
「ひーちゃんは俺の体だけが目当てだったんだろ!」
「いいじゃねぇか、体の相性って大事だぜ?」
「なんの話だよ!」
「おめーらの話だよ」
「お前が言うとなんかやらしいな」
「自分は健全な発言してるみたいに言うな」
何も言わない緋勇は、振り払われた姿勢のまま微動だにしていない。それを無言の肯定と断じたのか、蓬莱寺が奥歯を食い締めてその酷薄な瞳を見詰める。袱紗を固く握り締める手が何を欲しているのか、村雨には容易に察せられた。
なんだか可哀相になってきたが、さりとて自分にできる事はないと過たず理解している村雨は、どうやってこの場を離れようかと考えていた。ところで、緋勇の周囲の空間が陽炎のように揺らめいているのは何故だろう。
地を這うように低く、声が発せられた。
「京一」
「なんだよ」
村雨を壁にしつつ、蓬莱寺が応える。名を呼んでおきながら続く言葉もなく、緋勇が眼光を研ぎ澄ました。一瞬だけ後ずさりかけた蓬莱寺も、すぐに怯懦を振り切って視線を上げた。村雨の背中に隠れながら。
腕を掴まれ固定された村雨が、貼り付く蓬莱寺を冷静に見下ろす。
「おい、ガン飛ばすんなら正面きってやれよ」
「う、うるせぇ」
「まあ怖いのは分かるけどよ」
「怖くねぇ!」
「そうか?」
「ひーちゃんは、その、ほら、あれだから」
「ああ、あれか」
「俺に懐いてっから」
「それかよ」
「甘えたりとか、して、きたり、したらいいなぁって」
「おい待てそっちは現実じゃないぞ、戻ってこい!」
「あと、あいつ首が弱いんだぜ」
「それはたぶん脊椎動物全般に当てはまる急所だ」
密着してささやき合う二人を、緋勇はじっと無言で見詰めている。しばらくそのまま世界から隔絶されたように停止していたが、やがて唇を引き結んで踵を返した。
蓬莱寺が、まるで裏切られたように目を見開いて叫んだ。
「ひーちゃん!」
「なんだ」
「どこ行くんだよ」
「帰る」
「なんで!」
「とっとと風呂に入って寝たい」
「俺より風呂が大事なのかよ!」
「お前は村雨と遊んでいればいい」
「いや、俺ももう帰るからな」
「ひーちゃんだって紫暮と遊んでたんだろ!」
「壬生もいた」
「ほらやっぱり!」
「あと、風呂よりお前が大事だ」
蓬莱寺は口を開けたまま黙った。村雨は、そもそも風呂と人間を比較するのは愚かだという当たり前すぎて口に出すまでもない意見を常識に則って呑み込んだ。緋勇は特に表情を変えずに歩き出した。その背中に、我に返った蓬莱寺が走り寄る。追いついて肩を掴み、緋勇の顔を自分に向かせてから、まるで勝ち誇るような表情で告げた。
「風呂に勝っても嬉しくねーぞ」
「そもそも風呂と人間を比べるのが間違ってる」
「それもそーだな」
当たり前すぎて口に出すまでもない意見を真顔でやり取りする二人を見送り、村雨は虚空に向かって溜息を吐き出した。
友人の顔を思い浮かべて「飲みなおすか」と呟いた村雨は、彼らと同様に迷惑な奴だと苦笑されつつ結局は許容されているのだと、ちゃんと自覚している。
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