皆守がアロマを銜えていない事に気付いたのは、その場所に降り立って数分してからだった。
温室で同行を迫られ、一度自室に戻ってから墓地で落ち合った。その時にはもう、彼はあの芳香をまとっていなかった。温室ではどうだっただろう。思い出そうとしても、記憶は曖昧ではっきりと断言は出来ない。そんな些細な事よりも、皆守の気配の危うさの方が気になっていた。チリチリと首筋を刺激する、針のような違和感。昂ぶる体を隠す事に、葉佩は必死だった。だから皆守の言葉も、大半は聞き流していた。そんな前口上はいいから、早く始めよう。待ちきれないとばかりに体を揺すった葉佩に、皆守は芳香などよりも余程甘ったるい表情で笑った。
銃を構え、照準を合わせる。自分の米神を撃ち抜くような気持ちで一発目を放った。それと同時に、皆守が身を低くして走った。二発、三発を無駄にして、四発目が皆守の大腿を掠った。そんな事は意に介さず、皆守が自分の間合いに到達する。低く構えた上体を、更に床に接する寸前まで落とす。後方に跳んだが、予想以上に伸びた左足が肩を打った。砕かれた、と脳が認識する前に、体が床に激突する。起き上がる前に、皆守がその体を跨いで膝を付いた。顔を近付け、熱い吐息で囁く。
「お前は俺を求めてた。そうだろ?葉佩」
まるで恋うような瞳が、うっとりと微笑んだ。左手で顎を固定される。気が狂いそうな恐怖と、涙が滲むほどの悦びが背筋を震わせた。知らず、口の端が歪む。吐息すら震える。呆然と、しかし確かに、葉佩は肯定を返した。
「そうだよ、俺はずっとお前のそんな顔が見たかった」
「俺もだ。お前のこんな顔が見たかった」
そう言って、皆守が葉佩の眼球に顔を近付けた。葉佩の心臓が、痛いほど強く脈打つ。銃口が皆守の胸に触れる。発射する瞬間、頭が真っ白になるほどの快感が全身を走り抜けた。弾丸が彼の体に突き刺さり、赤い液体が舞い散る。衝撃で後ろに倒れた皆守に向かって、興奮を隠さずに声を発した。
「どいつもこいつも、ぬるすぎてどうしようかと思ってたんだ」
仰向けに寝転がったまま、皆守が喉の奥で笑った。無防備に晒された体の中心に、更に弾丸を撃ち込む。二度リロードし、全弾を撃ち出した。踊るように跳ねながら、皆守は尚も笑い続けている。口径の小さい拳銃では、彼を傷付ける事さえ出来ない。肉を抉った弾丸が、筋肉に押し返されて吐き出されるのを見る。異形の肉体に、陶然と見蕩れた。血の混じった甘い声が、「はばき」と囁く。そのあまりの甘美な響きに、思わず銃を取り落としそうになった。もう一度、皆守が囁く。
「なあ葉佩」
「うん、なに?」
「お前は本当に、俺に夢中なんだな」
「ああ、ばれてた?」
「隠してたつもりか」
「いや、実はあんまり隠してなかった」
優雅とさえ思えるほどにゆっくりと、皆守が身を起こす。再生する肉が、破れた服の隙間から見えた。誇らしげに、皆守が異形の体を屹立させる。自身の血に濡れた唇が、妖艶に弧を描いた。赤い舌が、これ見よがしに付着した血液を舐め取る。
「安心しろ、失望はさせない」
「おお、期待してるよ」
「俺はお前を狂人だなんて言わない」
「そりゃどーも。お前の方が狂ってるもんな」
「たとえお前が殺しながらイくような変態野郎だったとしても、だ」
「変態は酷いなぁ」
「本当の事だろう」
「まあね」
指摘されると、さすがにちょっと恥ずかしい。まだ出してないよ、と、せめて抵抗してみた。皆守が、楽しくて仕方が無いとでも言うように笑う。その頬を飾る赤が、恐ろしいほど美しい。噛み付きたい。彼の血を、一滴残らず飲み干したい。実際にやったら確実に嘔吐するだろうが。葉佩はその時、自分が吸血鬼ではない事を本気で悔やんだ。
「どうした?銃は終わりか?」
「うん、弾切れ」
「おいおい」
「だいじょぶ、本命はこっちだから」
ベストの裏側に縫い付けた鞘から、愛用のナイフを抜く。薄汚い炎に照らされて、白刃はそれでも清らかに輝いた。冬の月に似た光に、皆守が眩しそうに目を細める。それが幸福だったらいいのに、と、葉佩が声には出さずに呟く。それが幸福だったなら、きっと二人とも仕合わせになれた。
皆守が悲しそうに笑い、視線を落とした。葉佩が握った柄に力を込める。地を蹴る音が聞こえた時には、皆守の爪先が眼前に見えた。後方に跳んだが間に合わず、鼻先に衝撃が走る。痛みではなく、ただ熱だけを刺激として知覚した。口の中に、甘くて苦い味が広がる。だが、のんびりと味わっている余裕など無い。左足の着地と同時に、予想どおりの軌道で右足が振り上げられた。銃身でそれを叩き落し、砕けた骨の感触にまたしても快感が突き抜ける。
「・・・やばい」
「イきそうか?」
「うっせぇ、まだだよ」
「我慢すると体に悪いぞ」
「余計なお世話だよ」
「邪魔そうだな、ソレ」
「あーうん、すげぇ邪魔」
「食い千切ってやろうか?」
「わあ!皆守ってば積極的ぃ!」
「さすがに本気で喜ぶとは思わなかった」
「いや、本気じゃないから。ただちょっと、それもいいかなぁって思っただけだから」
股間で存在を主張する物が、自分の肉体の一部であるにも関わらず煩わしい。失っても生きていられるのならば、切り落としたいほどだ。しないけど。取り敢えず(文字どおり)盛り上がっている一部は無視して、葉佩は冷静に刃を構えた。自分が研ぎ澄まされるのが分かる。全ての感覚が、一点を目指して収斂してゆく。その一点に、彼の命がある。鼻がひしゃげた事は、その時にはもう忘れていた。
刃を振り翳し、一直線に走る。皆守が左足を上げた。それが皮膚に触れる一瞬前に、全力で方向を転換する。空を蹴った爪先はまだ空中にあった。がら空きの脇腹に、刃を突き立てる。それでも皆守の攻撃は止まらず、振り抜かれた踵が葉佩の外膝に落ちた。膝が完全に砕けたのを感じたが、構わず刃を刺し入れる。刃先が肋骨に到達した事を察し、内臓を掻き回すように抉った。赤が散る。皆守が不明瞭な声で、喉から何事か発する。笑ったのかも知れない。刃を引き抜き、同時に距離を取ろうと身を引く。その襟を、皆守の右手が掴んだ。そのまま胸に引き寄せられたかと思うと、水月に膝が突き刺さった。内部から骨の折れる音がして、耳元で濁った水音が聞こえた。仰け反った上体を優しく抱き留められ、皆守の顔が吐息が触れるほど近付く。
「お前はただ、寂しかったんだ。なあそうだろ?葉佩」
そうだよ、と、声にならない声で返す。いつだって問い続けていた。自分に生きる権利はあるのかと。世界が返す答えは、いつも決まって『否』の一言。お前は死ぬべきだ。いや、生まれた事が間違いだ。自分で問うておきながら、葉佩はその答えに満足しなかった。襲い来る『否』を切り伏せ、撃ち殺し、屈服させて生き続けている。それが誇りなのだと言い聞かせて、ずっと目を逸らしていた。
それがどんな名で呼ばれる感情なのかも分からぬほど、寂しかった。
「ずっと一人で戦ってきたんだろ?誰にも言えずに、ずっと苦しんできたんだろ?隣の奴が死ぬと、『お前が死ねば良かったのに』って言われたんだろ?ああ、そういえば、お前の飼い主はロゼッタ協会とかいうんだったな。知ってるぞ。いつだったか忘れたが、此処に来た。殺したのは俺だ。その時も、『お前が死ねば良かったのに』って言われたのか?そうなんだな?可哀想に」
皆守が、歌うように言葉を吐き出す。耳に触れるその声が心地好くて、葉佩は血を吐きながら笑った。全て、彼の言うとおりだ。葉佩はいつだって寂しくて、苦しくて、悔しくて、可哀想な人間だった。血に濡れた皆守の手が、優しく背中を撫でる。
「殺したいんだろ?壊したいんだろ?お前を否定した世界の全てが消えてなくなればいいんだろ?だからお前は戦うんだな、全てが消滅するまで。でも俺はまだ生きてるぞ。どうした?結局そんな風に潰されて終わるのか?違うだろう?お前はそんな奴じゃない。そうだろ?葉佩。俺が死ににくい事なんてとっくに知ってた筈だ。だからお前は俺が欲しいんだ。壊しても壊れない俺を、永遠に壊し続けたいんだ。なあそうだろう?葉佩」
ああ、そうなのかも、と、やはり言葉ではなく囁く。そうして気付いた。自分の右手には、まだ刃が握られている事に。渾身の力で肩を揺らし、その勢いを利用して刃を振り上げる。その動作に、皆守が歓喜の声を上げた。ほとんど慣性と重力だけで振り下ろされた刃を、浅ましく悦びに震える体で受け止める。異形といえども不死ではない体が、熱く激しく苦痛を訴えた。その痛みにすら狂喜して声を上げる。皆守の腕に支えられていた葉佩が床に落ち、自身の血に足を取られて突っ伏した。
愛用していた防弾ベストは、彼の膝蹴りで砕かれていた。だが、ある程度の衝撃は吸収してくれたらしい。これが無かったら即死だったな、と、ぼやけた脳裡で思う。皆守の胸に刺さったままだったナイフを引き抜き、今度は首筋に突き刺した。鮮血が吹き上がり、それを顔面で受ける。粘つく液体が絡んだ喉で、皆守が嘲った。
「ぶっかけられて、その面かよ」
「いや、なんかもう、お前のだと思うと嬉しくってさ」
「変態野郎」
「お前もね」
頚椎に達した切っ先をほんの少し揺らしただけで、皆守が顔を歪めて呻く。指先が床を掻き、爪を立てた。いつもこっそり見蕩れていた綺麗な手が、ゆらりと上がる。葉佩が飛びすさると同時に、赤い指が刃のように閃いた。頚動脈の近くだったが、大きな血管は無事だ。霞む視界の真ん中で、皆守が立ち上がった。
「俺はまだ満足してないんだが」
「うん、責任もってイかせてやるから安心しろ」
「言うじゃねぇか、早漏」
「うっせぇよ不感症」
「お前は随分と敏感なんだな」
「そーかぁ?人並みじゃね?」
「さっきみたいな顔、もう一回してみろよ」
「させてみろよ」
笑い合い、刃を構える。腹に力が入らない。先程から、動く度に視界が暗くなる。全ての闇を振り切るように、葉佩は必死で目を凝らした。見たい。彼が悦びに打ち震える様を。その相手が自分なのが、頭がおかしくなったのかと思うほど嬉しい。荒い呼吸が、疲労なのか興奮なのかも分からない。たぶん両方だろう。
皆守が自分の喉を押さえて咳き込んだ。細胞が再生する熱で、大気中の水分が気化してゆく。いま彼に触れたら、どれほど熱いのだろう。想像するだけで体がうずく。
走る力はもう残っていなかったので、床に向かって体を投げ出した。見上げる位置から右腕を突き出す。逆手に持ったナイフが、皆守の脹脛を抉った。返す切っ先で、同じ場所にもう一撃。筋と肉と血管が千切れ、骨に当たって鈍い音がした。
皆守の膝が抜けた。揺らいだ体を押すように、深く刺し入れる。倒れ込んできた体が、更に深く刺し込む手間を省いてくれた。落ちてきた体を受け止めたかったのだが、自分の身の方が大事だったので諦めた。ナイフに貫かれたまま、皆守が痙攣しながら呻く。見下ろしたかったのだが、立ち上がれなかったので同じ高さから横顔を見た。
「皆守」
「・・・おう」
「動ける?」
「・・・無理」
「じゃ、俺の勝ちだね」
「抜かせ。お前だって動けないんだろうが」
そのとおりだったので、悔しくなって床に手を付いた。喘ぎながら腕で体を引き摺り、皆守に乗り上げる。刺さったままのナイフが動き、炎に煽られて乾き始めていた血液の上に、じわりと赤が染み込んだ。皆守が搾り出すように声を発する。同時に、赤い粘液が口から溢れた。
「お、イイ声♪」
「・・・」
「どうした?黙んなよ」
「・・・」
「もっと聞かせろよ」
「・・・」
「おーい、寝るなよー」
「寝てない」
そう言いながら、皆守が手を伸ばして葉佩の頬に触れた。振り払うのも億劫だったので、歯を立てる事で抵抗を示す。甘くて苦い指が、からかうように口中でうごめいた。熱い体が、葉佩の胸の下で呼吸している。
体はもう動かなかったが、何故か産まれて初めて自由というものを体感したような気がした。
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