予感のようによぎったのは、冷たい花の香りだった。慌ててアロマに火を点ける。むせ返るほどの人工香を吸い込んで、皆守はようやく少しだけ心を取り戻した。
世界が移ろうのを無視して、不変をひたすらに信じるのが、皆守が最近になって見出した安寧への糸口だった。
重たい体をどうにか部屋まで運び終えて、上着を脱ぎ捨ててベッドに突っ伏す。もう夜なのに、やけに明るいのが不快だった。そうか満月が近いのかと舌を打ち、夜ごと姿を変える不義に、無為に苛立つ。
変わらないもの、裏切らないもの、そんな夢を見ながら眠りに落ちた。
目が覚めても、世界は変わらない。いつもと同じ朝だ。朝というよりも昼に近かったが、それもいつもどおりだ。のろのろと体を起こして、脱ぎ捨てた上着に腕を通す。
教室に向かおうと考えたのは一瞬だけで、足は保健室に向かっていた。まだ眠いのだから仕様がない。誰にともなく言い訳して、声もかけずに保健室の戸を開く。
接近する気配に気付いていたのだろう、劉が椅子に座ったまま振り向き、冷たく微笑んだ。
「やあ、今日はどんな理由かね?」
「眠い」
「そうか、夜に眠れないのか?」
「いや、寝てるけど眠い」
「それは、睡眠障害を疑った方がよさそうだね」
「ああ、うん、それだ」
「それはいけない、では、カウンセリングをしてあげよう」
「じゃ、俺はこれで」
「おや、帰るのかい?」
「眠いつってる奴になんでカウンセリングなんだよ」
「根本から解決しないと、物事は何も解決しない」
「いや、眠いつってんだから」
「なぜ眠いのか、それが分からないと、解決しようがないだろう」
「寝れば解決するだろ」
「でも、君は寝ているのに眠いんだろう?」
「もういいですさようなら」
「悩みがあったら、またおいで」
「悩みが増幅される予感しかしない」
どうやら、劉は機嫌が悪いか、あるいは未だかつてないほど上機嫌だったらしい。皆守にはどちらが真実かなど計りようもないが、とにかく通常と違うものからは逃げるに限る。触らぬ神に祟りなし。まったく、神という存在はどうしてこうも人を煩わせるのか。彼女は神ではないのだが、神はかつて人だったという。ならば、やはり人を煩わせるのは人なのだろう。
仕方ないので屋上に来た。幸いにも、人影は見当たらない。ようやく息をつき、皆守は給水塔に寄りかかって目を閉じた。
ただ静かに眠りたいだけなのだ。誰にも邪魔されず、阻害されず、目を閉じて時間が過ぎてゆくのをじっと待っている。望むのは、ただそれだけなのに。
それだけなのに、どうして叶わないのだろう。殊更に大きな声で欠伸をして、ほとんど横になっていた体を、せめてと斜めにする。八千穂だけだったら、声も出さずに気配を消してやりすごしていただろう。身を起こしたのは、もう一人いたからだ。
自主休講を責める八千穂に、というよりも、その背後の見慣れぬ男に向かって、寝言のような口調で言いながら口角を上げてみる。
非生産的で無意味な、と口にしたところで、見慣れぬ男が表情を変えた。片方の眉だけを少しだけ上げて、唇を斜めにする。それが何を表す動作なのかは、皆守には分らなかった。
「夢という安息を生産する時間を過ごした方がマシだからな」
男が友好的な笑みを浮かべる一瞬前に、いわく言いがたい不思議な顔をしたのを、皆守の目は確かに捉えた。捉えたが捕える意思もなく、流れ去る会話はそのまま無為に立ち消えた。
あの男には何も届かないのだと、奇妙な確信だけが皆守の心臓の近くに残った。
あの男は、≪墓≫に入るだろう。禁じられた扉を開くだろう。間違いなく道を進み、やがては到達するだろう。どこに到達するかは分からないが、きっとどこかに。
浮かんだ言葉に火を点けて、肺に吸い込み虚空に溶かす。そうして消えてしまうまで、皆守は煙を見つめ続けた。
満月だからというだけでなく、妙に明るい夜だった。夜に強くなる花の香りは、皆守の気持ちをざわめかせる。夏が終わったのだと、季節は移りゆくのだと、終わらぬものなどないのだと、夜気に混じった芳香がひっそりとささやく。
アロマに火を点けて耳をふさぐと、今度は月が吠え始めた。どうしてくれよう、この夜を。
耐えかねて部屋を出た。ひやりと肌を撫でる風がおぞましいほど心地よくて、皆守は終わりを想起する。夢見ていた密やかな終焉ではなく、もっと暴力的な、嵐のような。
声が聞こえたが、皆守は驚かなかった。やはりそうかと唇を歪め、声のする方へと足を向ける。トロ職人がどうとか、前後を推測するのが難しい会話が耳に届いてきた。
なんだトロ職人て。マグロの解体する人か。だったらマグロの解体職人って言えよ。トロ専門の職人か。他の部位には目もくれずトロだけを取り出すのか。赤身は無視するのか。
心の奥から溢れ出す言葉はとめどなく、飲み込みそこねてつい声をかけてしまったのは、果たして失敗だったのだろうか。
一目で堅気ではないと分かる格好で、昼間と同じように笑みを浮かべて、その男は立っていた。体格にしては大きい手の平が、少し煤けたグローブに覆われている。今は首にかかっているゴーグルには、細かい傷が見て取れる。よく手入れされた、使い込まれた道具だ。
笑みを浮かべたまま、イカれた格好の男が皆守を見た。真直ぐに皆守を見て、口を開く。
「こんばんは」
「そんな普通に挨拶するな、びっくりするだろ」
「え、夜に会ったら、こんばんは、だよね?」
「うん、あってるよ葉佩クン!」
八千穂が力強くうなずく。まっすぐに、信じて疑わないとでも言うように、八千穂は彼の言葉を肯定した。もしかしたら、彼は日本語が得意ではないのかもしれない。そう思って見ると、どことなく日本人離れしているような、そうでもないような、よく分からない風貌だった。
面倒臭くなったので、そのまま口にしてみた。
「お前、何者だ?」
「と、トロ職人です」
「赤身は捨てるのか」
「そんな勿体ない事しないよ!」
思わぬ強さで否定された。それなのに、不快な感じがしない。拒絶ではない否定を、彼はどうしてこんなにも自然にやってのけるのだろう。
彼は、本質的に優しいのかも知れない。あるいは、心の底から他人に興味がないのかも知れない。
「チェーンソー持ってんのか?」
「なんでチェーンソー?」
「マグロってチェーンソーで解体するんじゃないのか?」
「え、包丁じゃねぇの?」
「じゃあ包丁は持ってんのか」
「俺は解体人じゃない、トロ職人だ」
「トロを取り出す職人じゃないのか」
「トロを作り出す職人だよ」
「おい八千穂、夜の墓地への立ち入りは校則で禁じられている」
「え、葉佩クンの職業は結局どうなったの?」
「トロを作り出す職人なんだろ」
「諦めた!」
「どうしろってんだ」
「あ、ねえやっちー、あの人、誰だろ?」
「え、あ、ええっとねー、誰だっけ?」
数秒前の発言すら、彼の心には残らないのだろうか。
虚無によく似た深い闇をぼんやりと眺めていた皆守に、助けを求めるように八千穂が視線を送る。その眼差しが無邪気に、そしてどこまでも無防備に見えるのは、ともすれば皆守こそが無邪気で無防備な人間だからなのかも知れない。
とりあえず皆守は、彼らの疑問に答えられるのだ。不本意ながら。
「墓地の新しい管理人だ」
「へー、そうなんだー、こんばんはー!」
「え、新しいって事は、古い人はどこへ?」
「出ていけ、もうここへは来るな」
墓守の声は、それが本心からの言葉であると容易に察せられる声だった。しかし、彼の願いは叶わないのだと、皆守は知っている。もしくは、墓守自身も知っているのだろう。
ロープが必要だなどと話す二人の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、皆守は歩きながら靴底にアロマを押し付けた。こちらを見ていなかったはずの転校生が、器用だね、と笑った。
人工の芳香を消して、月に照らされる道を見た。
移りゆくのだ、何もかも。月は姿を変え、星は位置を変え、花は色を変え、風は向きを変え、安寧はたやすく蹂躙され、不変などという幻は見るも無残に叩き壊され、静謐は汚され、秘所は暴かれ、堅牢で揺るぎないと信じていた壁さえもやがて瓦解し、誓約も決意も破られ捨てられ、踏みにじられるのだ。
彼の背中を見ていると、なぜだろう、少しだけ楽しみだ。
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