特に用もなく、蓬莱寺はいつもどおり緋勇の部屋のドアをノックした。しかし応答がない。応答がないのもよくある事なのだが、室内から気配がまったくしない。すでに日は沈んでいるのに、灯りもついていなかった。眠っているという事も、いつもではないが低くない頻度である事だ。
 土曜日の午後8時。どこかへ出かけていても不思議ではない。不思議ではないが、俺をさしおいて、と理不尽な感情がちらりと胸中をよぎった。理不尽だという自覚はあるので態度には出さないが、やはり面白くない。自分の中のどうしようもない感情を持て余し、為す術もなく溜息をつく。
 きびすを返しかけ、気付いた。通りの向こうから人影が近付いてくる。その人影が見知った顔だと判断できるほどに接近するとほぼ同時に、聞き慣れた声が飛んできた。

「おお、京一はん!」
「おい、ひーちゃんどうしたんだ!」

 嬉しそうに笑った劉よりも、背負われている緋勇にまず目がいった。あの緋勇が、劉に背負われているのだ。尋常ならざる事態だと瞬時に判断し、表情を硬くして走り寄る。
 アニキ重いわーなどとのんきに額の汗を拭く劉から、脱力した緋勇を奪うような勢いで抱き上げ、ふと鼻を突いた匂いに眉を寄せた。どこか甘いような、深く醸されたような、平たく表現すると、酒臭い。

「飲んでたのか?」
「うん、じいちゃんと」
「それにしちゃ、お前は酔ってねぇな」
「わいはじいちゃんと張り合うほど命知らずやあらへんよ」
「ああ、だいたい分かった」

 つまり緋勇は、道心とまともに張り合ったのだろう。顔には出ないが熱しやすく負けず嫌いの緋勇が、老獪なあの男に煽られて冷静でいられる道理もない。
 自律を尊ぶ緋勇は、裏を返せば熱しやすく負けず嫌いな自分をよく理解しているからこそ、そのように振舞うのだ。蓬莱寺は最近になってそれを理解した。垣間見える彼の稚気が訳も分からず妙に嬉しいのが、少々腑に落ちないのはさておき。

「で、まんまと潰されたんだな?」
「さっすが京一はん、話が早うて助かるわ」
「お前も止めろよな」
「わいにアニキを止めろと?」
「ああ、わりー、無茶言った」

 酔っ払いを挟んで、二人が同時に嘆息する。猛虎にならないだけマシか、と肩をすくめた蓬莱寺に、劉は何も言わずに苦く笑った。まあ、道心がいたのなら惨事は免れただろう。新宿が今日も平和で何よりだ。
 低く呻いた緋勇を抱えなおし、劉に礼を言って部屋の前まで戻ってきた。

「おいひーちゃん、鍵」
「かぎ?」
「部屋の鍵」
「・・・京一か」
「おう」
「前から言おうと思ってたんだが、お前は」
「ん?」
「・・・」
「おい寝るな、続きはどうした!」
「鍵ならある」
「なに言おうと思ってたって?」
「劉はどうした」
「帰ったよ」
「ひとつ、お前に言っておく」
「な、なんだよ」
「俺は酔ってない」

 会話は諦めて、緋勇のポケットを探った。ついでに頭をはたいておいたが、これくらいは許されるだろう。

 探し当てた鍵でドアを開き、歩けると主張してやまない緋勇を引きずって部屋に入る。悪友の中でも決して弱い方ではない緋勇をこれほどまでに正体不明にさせるとは、あの老人もなかなか侮れない。
 そんな事を考えつつ、何はさておき水分補給を提案してみる。不本意ながら、酔っ払いの介抱なら慣れたものだ。

「ひーちゃん、水」
「俺に命令か?」
「いや、俺じゃなくてお前に」
「京一」
「なんだよ」
「・・・どこだここ」
「お前んち」
「劉は?」
「いいから飲め」
「望むところだ」

 差し出された水を一気に呷り、緋勇がぎらりと挑戦的に視線を上げた。いや、俺に挑まれても、とは思ったが口には出さず、もう一杯注いでやろうと蛇口をひねる。すると、背後から襟首を掴まれた。なんでだ。
 ぐらりと揺れて背中にぶつかった緋勇が、絞め殺さんばかりの強さで更に襟を引いた。

「おいこら、何してやがる」
「俺の事は気にするな」
「なあひーちゃん」
「俺は酔ってない」
「あんまり無防備にしてんなよ」
「燃やすぞ」
「なんでだよ」

 緋勇が本当に氣を掌に集めたので、慌てて振り向いて水をぶっかけた。頭から水をかぶった緋勇は狙いどおり冷静になったようで、ほっと胸を撫で下ろす。濡れたまま床に座り込んだ緋勇をどうするか、それが問題だ。
 意識はあるようで、緋勇は意外と明瞭な声でまたしても蓬莱寺を呼んだ。彼に呼ばれるのが、蓬莱寺は嫌いではない。

「京一」
「いいからお前はもう寝ろ」
「どこにいたんだ」
「ここにいるよ」
「昼間は」
「えっと、まあ、そこら辺」
「いなかったぞ」

 床に寝そべろうとする緋勇をどうにか起こし、せめて布団まで、と言いかけたが、言えなかった。緋勇の右手に頭部を掴まれたからだ。ぎりぎりと音がしそうなほど圧迫され、冷たい怖気が蓬莱寺の背筋を走る。
 自分を律しようとする緋勇は、自分が強大な破壊力を有すると知っているのだ。では、理性や思考がひどく鈍ったこの状態で、彼は自分を律する事ができるのだろうか。

「ちょ、あの、ひーちゃん?」
「どこにいたんだ」
「えっと、あの、歌舞伎町の辺りに」
「いなかったぞ」
「もしかして探してたのか?」
「いや、探してはいない」
「そうかよ」

 振り払うまでもなく緩んだ拘束に息をつき、もしや彼は理性が鈍くなると自分を欲するのだろうか、などと幸福な空想にひととき酔い、しかし突きつけられる現実からの逃避は果たせず、丸くなろうとする緋勇にタオルをかぶせて濡れたシャツを肌から引き剥がした。

「何をする」
「いいから酔っ払いは寝ろ」
「俺は酔ってない!」
「はいはい、酔ってなくてもひーちゃんは寝る時間だぞー」
「歌舞伎町のどこにいたんだ」

 しつこく絡まれてうんざりする反面、どこか心が沸き立つような気分になるのは何故だろう。彼が自分を求めているように錯覚するからだろうか。
 もしかしたら、自分が彼の不在に感じるような、あの表現しがたい焦燥感を抱いていたのでは、と考えるでもなくぼんやりと思っていたら、急に首の後ろを掴まれた。
 どうでもいいが、先程から人を鷲掴みするのはやめて欲しい。無遠慮に引っ張られて、硬い胸に否応なく突っ伏すはめになった。嬉しくない。しかも後頭部を固定されて身動きがとれない。緋勇の肩が首に触れていて息苦しい。苦情が声になるより早く、緋勇がまた「どこにいたんだ」と言った。

「ええと、だから」
「俺から離れるな」
「・・・うん」
「動くな」

 頷いた直後に殴られた。分かっていたが、ひどい男だ。どうしてこんな男に、と危うく思考が逸れそうになって、未だ危機を脱していない我が身に気付く。
 不用意な発言は危険だと判断し、慎重に緋勇の顔を窺おうとして、また殴られた。そろそろ怒ってもいいだろうか。

「おい龍麻、いい加減にしろよ」
「それはお前だ」

 蓬莱寺と同じくらいか、それ以上に攻撃的な目で緋勇が睨み返す。たちの悪い酔い方をする、とまたしても溜息をつきそうになって、ふと顔を上げた。
 冷たく研ぎ澄まされた瞳が、真直ぐに蓬莱寺を見ている。本当に酔っていないのではないかと思うほど、それは静謐な光を放っていた。
 しかし油断してはいけない。彼は酔っている。もはや泥酔といっても過言ではない。きっと明日には、蓬莱寺を引きずり倒して殴った事も忘れているに違いない。抱きついて離れなかったなどと、言っても信じないかも知れない。蓬莱寺ですらこの状況を信じられないのだから、それも無理からぬ事だ。

 自分の思考が勝手に導き出した諦観という答えに、蓬莱寺はしかし否を以って立ち向かった。諦めて手放すには、この感情はあまりに深く根付いてしまった。無理に引き剥がせば、きっと自身も傷付く。

「つまり、ひーちゃんはさ」
「喋るな」
「俺がいなくて寂しかったんだな?」
「成る程、まさかそう来るとは」
「なんで予想してねぇんだよ、明らかにそれ以外ねぇだろ」

 顔を上げて睨むと、緋勇は拘束を解いて腕を下ろした。解放されて、蓬莱寺が身を起こす。しかし立ち上がるのではなく、仰向けに寝転んだままの緋勇の横に座り込んだ。

「そーゆーのは寂しいっていうんだよ」
「・・・そうか」

 床に付いた腕を、まるで逃がすまいとでも言うように掴まれた。自由を奪われた左腕はそのままにして、空いている右腕で黒髪を撫でる。緋勇は眉をしかめたが、何も言わずに目を閉じた。
 どこにも行かないと、約束できるほどに蓬莱寺は無知ではなかった。それでもどうか自分を信じて欲しいと、彼を信じたいと思う程度には強く思う。

「なあ、ひーちゃん」
「なんだ」
「寂しいって言えよ」
「言ったらどうなるんだ?」
「俺が一晩中いてやるよ」
「一晩だけか?」
「朝になっても寂しかったら、明日もいてやるよ」
「そうか」

 緋勇が眉を寄せた。見慣れた不機嫌な顔ではなく、怒っている表情でもなく、不快を表すでもなく、どうとも名状しがたい顔を隠すように両手に埋める。緋勇の顔が見えなくなってから、泣きそうな表情にとてもよく似ていたと思い立った。
 緋勇はどうやら本格的に眠る体勢に入ったようだ。せめて布団まで引きずっていってやろうと、重たい体を引き上げ、ようとしたら緋勇が目を開けた。顔が近いのは仕方ない。肩を抱えようとしていたのだから。

「寝てろよ、運んでやるから」
「いや、明らかに引きずっていく気だろう」
「だって重たいんだよお前」
「それでどうして寝てられると思うんだ」
「持ち上げるとか無理」
「持ち上げなくていいから、放せ」
「やだ」
「・・・」

 苦労して布団まで運び終えて、なんだか変な顔をしている緋勇を投げ落とす。かなりの労力を費やして運んでやったのに、礼を言われるどころか睨まれて、しかし腹も立たないのは何故だろう。

 無言のまま布団に潜り込んだ緋勇が、しばらくして顔を出した。眠たげな声で、小さく呟く。

「・・・まだいるか?」
「ずっといるよ」

 酔っているのだから、これくらいは許されるだろう。