幼少の頃から八剣は感じていた。自分がいるべき場所は此処ではない。自分が欲するものはこんな物ではない。では何を欲するのか。その答えの存在すら疑っていた。
 世界とはまるで、化け物の腹の中のようだ。いつまでも此処にいれば溶かされる。そして、やがては化け物を動かす一部に成り果てるのだ。いつからか彼に住み着いたその想像は、恐怖と焦燥を掻き立てた。溶かされて堪るか。小さく強く、八剣は呟き続けた。

 何度目かの傷害事件の身元引受人は、見知った親権者ではなかった。その時八剣は、横柄な公務員に媚び諂うように頭を下げる親の姿を見なくて済んだ事に内心で安堵した。そして、その見覚えのない身元引受人の言葉に、全身が震えるほど狂喜した。
「拳武館は、君を歓迎する」
 やっと待ち焦がれていた場所に行ける。我が物顔で人を汚物のように扱った高慢な権力者を、自分の手で裁く事が出来る。その空想は、少しの間八剣の精神を慰めた。しかし、八剣は程なくして自分の認識の甘さを痛感する。かつて彼が居た場所に、彼よりも強い人間は存在しなかった。嫌悪と侮蔑の視線も、たった一閃で恐怖に変わる。自分は持たざる者を支配する立場に在ると、そう信じていた。
 愚かな自分を憎みはしたが、しかし八剣は恥じなかった。いつか辿り着く事が出来るのは、求め続けた自分だけだ。それを目指す事すらしない満たされた者達に何を言われても(時に笑われても)八剣は自分を誇る事をやめなかった。
 八剣を見て人は、餓えた鬼だと眉を寄せて囁き合う。それが侮蔑である事など百も承知で、彼はそれを誇った。















 八剣は拳武館に所属してから、一人の男と出合った。
 その男は字が読めなかった。言葉も多くは知らず、嘲笑を浴びる事も頻繁にあった。訛りの強い口調は更にその男を愚鈍に見せていたが、彼にそれを矯正する意思は無かったらしい。彼は、嘲笑も侮蔑も恐れていなかった。そんなものは片手で沈黙させる事が出来る。軽く弾けば潰れるような脆弱な存在が、自分を脅かす道理など無い。
 必要なのは他人から与えられる評価ではない。大義名分でもない。餓えを満たすのは、そんなものではない。
 粗野な笑みを浮かべながらそんな事を言う巨漢に、八剣は(認めたくは無いが)連帯を感じた。何より、無知を笑われ続けた八剣にとって「そんなことも知らねぇのか」と言える相手は、得難く心地好かった。幼稚な自尊心を満たしてくれて、純粋に力だけならば八剣が知るどんな者よりも秀でている。
 彼らが行動を共にするようになるまで、時間はかからなかった。
 しかし拳武館は、八剣が求めていたものを与えてはくれなかった。法律という正義に抑圧され続けた彼は正義など信じていないし、友情に傾倒するような優しい精神も持ち合わせていない。彼が誇る力を見せれば見せるほどに、蔑みの目はその度合いを増した。
 求めた場所は、此処ではなかった。
 悟ったが、しかし八剣は絶望しない。寧ろより強く、激しく求めるようになった。焦燥を感じていたのかも知れない。折れそうになる信念を、何処かで感じていたのかも知れない。疑念を振り切るように、八剣は自分が在るべき場所を一心に探し続けた。しかし、彼は多くの道を知らなかった。その手の刃を振りかざす事だけが、彼の知る唯一で最良の道だった。

 赤い髪の男が囁く。修羅だけが生き残れる、悪夢のような世界。その場所を支配するのは金ではない。一部の人間が作った法律でもない。優秀な頭脳でもない。牙と爪だけが、その世界での存在価値を決める。
 性懲りも無く、八剣はその言葉に飛び付いた。任された依頼は彼にとって詰まらないものだったが、此処で力を知らしめればいい。やがて全てが自分の力を認めるだろう。今度こそ、と強く願う。
 一人で行こうとしていた八剣に、同行を命じられた細身の少年が近付いた。
 その少年を、八剣は嫌悪していた。彼は、満たされた場所から荒野を見下ろし、其処で彷徨う餓狼を蔑んでいる。正義などという権力者の戯言を恥ずかしげも無く掲げ、それに殉ずる事に疑問すら抱かない。その愚昧な精神に、八剣は憎悪すら感じていた。所詮は狗だ。そう吐き捨て、八剣は満月を見上げた。
 赤い月が八剣の愛刀を照らす。その光を受けて輝く刃は、彼を求めた場所に導くだろう。八剣は、自分を狂人だとは思わない。しかし、自分に憐れみと蔑みの目を向ける人間がいる事を、認めないほど愚かではない。認めた上で、八剣は笑う。何とでも言えば良い。俺には求める場所がある。信じるものがある。檻の中で鞭を恐れ身を寄せ合う狗が、何を言おうと届きはしない。

 標的の一人である赤毛の剣士(それだけで気にいらない)をいつものように沈黙させ、八剣は楽園に近付く自分の足音に耳を澄ませた。靴音も高らかに進み続ける彼は、ひたひたと忍ばせた足で近付く死神には未だ気付かない。仮に気付いたとして、死神さえも一息に斬り伏せる気でいる。それが可能だと信じているのだ。
 此処は帝釈天の膝元だ。信仰心など欠片も持ち合わせていないが、雷を従えるその古き神の名を、八剣は密かに好んでいた。仏教に習合され穏やかな顔を持つようになったが、インドラという名は恐怖の代名詞だった時代があると聞いた。遥かな時間を隔てたその時代に、轟音と目映い光を従えて天空を駆けていたであろう男神を思う。其処に在る自分を思う。愚かしい空想だ、と笑う自分の声に、笑い返す。
 きっと其処が、俺の場所なんだ。

 戯言だと、笑いたければ笑えば良い。
 いつか、俺は其処に立つんだ。