ぐらりと視界が揺れた。肩でバランスをとって、左足を前に出す。なんとか転倒は免れたが、視界はまだ歪んでいた。軽く頭を振って、目蓋の中の点滅をやり過ごす。頭を振ったせいで気持ちが悪くなった。唾を飲み込む。深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。何度かそれを繰り返して、緋勇はようやく視界を取り戻した。
目を上げると、蓬莱寺が見えた。怒っているような、傷付いているような、とにかく嬉しそうな表情ではないという事だけは分かった。何か言いたいのだろうかとも思ったが、問い質す方法も緋勇は持っていないので、仕方なく何も言わずに目を逸らす。
撤収しようと言い出したのは、蓬莱寺だった。気遣ってくれたのかと、あるいはいつもの気紛れかと、判じかねて緋勇はただ無表情に頷いた。
おなかすいたと、心なしか嬉しそうに桜井が言う。程なく満たされる事を確信していれば、空腹も苦痛ではないのだろう。
シャワーを浴びて、あたたかい寝床に突っ伏して、などと考えれば、疲労もどこか心地好い。帰る場所があるというのは幸福な事だと、しみじみ思う。思いながら、これから食べるラーメンや、少し熱めのシャワーや、日の当たる窓辺に広げておいた布団の事を考えて、しかし緋勇は一向に浮上しない心を持て余していた。
地上に戻り、深呼吸をしていたら、醍醐に肩を叩かれた。それは優しい触れ方で、緋勇は何度か経験したその手のあたたかさに、何度でも驚く。少し高い位置にある醍醐の顔を見上げて、その表情にも驚く。
「緋勇、大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「お前のそういうところが、俺はどうも好きじゃないんだ」
「そうか」
「心配ぐらいさせてくれ」
そう言ってから、醍醐は照れくさそうに目を逸らした。「ふらついてただろう」と周囲には聞こえないよう小さな声で言って、わずかに責めるような目で緋勇を見る。
この男が優しいのは、もう知っていた。知っていたが、緋勇はまた驚いた。
「おーい何してんだよ、行くぞ!」
「先に行っててくれ」
「なんだよ、お前ら行かねーの?」
「緋勇、どうする?」
やはり小声で、醍醐が問う。緋勇が、可能な限り自分の体調不良を隠しておきたいのだと、知っているからだろう。もしかしたら、醍醐にもそういう気持ちがあるのかも知れない。
蓬莱寺は、答えない緋勇を見て、それから醍醐を少しだけ睨んで、「じゃあ先に行ってる」と言い捨てて、もう一度だけ緋勇を見て、美里と桜井に歩み寄った。
気をつけてね、と美里が手を振る。本来ならば自分が言うべき言葉だったと遅れて気付き、しかし美里が言われければそんな
事にも気付けなかっただろうと思い至り、どうしようもなくなって何も言わずに歩き出した。
醍醐も何も言わずに歩き出した。しばらく無言で並んで歩き、醍醐が自分を送っていくつもりだったのだとやっと気付き、不要だと口に出そうとして、先程の言葉を思い出す。心配したいのだろうか、この男は。
無言のまま自宅に着いてしまって、それが気遣いだと明言されていないので礼を言うきっかけも見出せず、「じゃあな」とだけ言って鷹揚に微笑んだ醍醐に黙って頷き、そうしてから、頷くのではなく礼を言えばよかったと後悔した。
醍醐はもう背を向けて歩き出していた。
靴を脱いでから、そういえば血を流したのだと思い出す。そうかこれは貧血かと納得して、上着を脱ぐのも面倒で布団に突っ伏した。傷はもう塞がっている。跡も残らない程度の、小さな傷だ。ただ、少しばかり深かった。流れた血液が多かった。それだけだ。
カチリと音がして目が覚めた。次いで、ひそめた声で名を呼ばれた。
「おい緋勇、鍵ぐらいかけろ!」
「うるさい」
「あと、せめて上着は脱げ」
「黙れ」
起きるどころか目蓋を上げるのも億劫で、眠っていたままの姿勢で応える。そうすると後ろから襟を引っ張られて、慌てて身を起こさざるを得なくなった。ぐらぐらする頭をどうにか固定して、上着を引っ張ろうとする手を振り払う。
蓬莱寺がさも不機嫌そうな表情で唇を曲げたのだが、そんな目で睨まれる理由はない。ない、と思ったのだが、緋勇が知らないだけで、もしかしたらあるのだろうか。
「抵抗すんなよ」
「おい待て何を」
「いいから脱げって」
「なんでだ」
「うわ、シャツ血みどろじゃねーか!」
「だから布団に血が落ちないように上着がいるんだろう」
「お前、バカなんだな」
咄嗟に拳が出たが、これは仕方ない。手っ取り早く黙らせるのに、他に手段を思いつけなかったのだ。突き出した拳はごつんと音を立てて蓬莱寺の額にぶつかって、わずかな熱を発生させた。
とにかく体がだるい。気分が悪い。それなのに、この男がいると眠れない。さわがしい。鬱陶しい。
「なあ緋勇」
「うるさい」
「いつやられたんだ?」
「お前には関係ない」
「全然、気が付かなかった」
「だろうな」
「なんで隠すんだよ」
「隠してない。お前が気付かなかっただけだ」
「あいつらも心配してたぞ」
「いらん」
体を横にしようとしたら、また襟を引っ張られて頭をはたかれた。それは驚くほど柔らかくて緩やかで、優しい触れ方だった。あたたかい手は、髪に触れたまま静止している。
何度もこの手に触れられたが、緋勇は何度でも驚く。そのあたたかさに、優しさに、何度でも驚いて、それが恐ろしくて身をすくませる。
「触るな」
「なんでだよ」
「近付くな」
「だからなんで」
「お前まで汚れる」
「ああ、やっぱバカなんだな、お前」
「黙れ」
布団に倒れ込もうとすると、またしても襟を引っ張られた。そのまま上着を脱がされて、シャツにも手を掛けられた。眉をしかめただけで抵抗せずにいると、その手がぴたりと止まって、ためらうように少しの間だけ留まって、ゆっくりと離れていった。
震える声で名を呼ばれ、緋勇は逃げるように目を閉じる。醜悪な体だろうと、愚かしくも誇るような心で思う。傷は誇りだ。確かめるように言葉にする。声には出さず、緋勇はそれを誇った。でも、できれば、優しいこの男には見せたくなかった。
「なあ、緋勇」
「気が済んだか」
「は?」
「俺に触るな、出て行け」
「痛むのか?」
「痛くない」
えぐれた肉は、元どおりとはいかないまでも再生した。斬れたところも、焼けたところも、折れたところも、もう痛くない。ただ、醜く隆起した傷跡は、いつまでも消えなかった。それでいいと思っていたが、彼にこんな顔をさせてしまうのなら、せめて後悔ぐらいはしておけばよかった。もう遅いが。
ささやく声が聞こえた。その声がまるで痛みを堪えているようで、きっと目を開ければ痛そうな顔をしている蓬莱寺が見えるのだろうと思うと目も開けられず、緋勇は眠る姿勢のまま触れる手のあたたかさに息を吐く。
触るなと寝言のように呟きながら、もっと触れてくれと願い、涙が出そうになった。
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