年齢不詳の先輩ハンターに誘われて入ったバーのカウンターで、葉佩はM+M機関の新入りの噂を耳にした。
 華麗にして凶悪な足技を使うその男は、その組織がロゼッタ協会と敵対関係であるという理由だけでそこに存在しているらしい。その情報を得た時、葉佩は途轍もなく嫌な予感がした。足癖の悪い、かつての級友を思い出したのだ。元気そうで何より。胸中でそう呟き、葉佩は勧められたグラスを呷った。

 翌日、葉佩は二日酔いである事を隠しもせずに協会からの呼び出しに応じた。協会の事務員が、眉間に皺を寄せる葉佩には一切の関心を示さずに仕事の内容を提示する。
 内紛を繰り返すその土地は、遺跡の中よりも外で死ぬ確率の方が高いとまで言われた。だがその土地には、人類の最も古い記憶が眠っているらしい。その研究材料の探索と、遺跡の保護が最終的な目的だ。
 美しく力強い造形物が、愚かな人間の手によって永久に失われてしまう前に。そう言って、その男はまるで虫歯が痛んだような表情で葉佩を見た。彼にとっては、その造形物とやらが葉佩の生命よりも重いのだろう。当然だ。希少価値に於いても、歴史的価値に於いても、また造形美の観点に於いても、はたまた彼の個人的な感情に於いても、それは葉佩よりも優先されるべき物だという事実は揺るぎなく存在している。今更その事実に対して、なんらかの感想を持つ事もない。

 都市開発と銘打たれた蹂躙の過程で、それは発見された。調査の依頼を受けたのは、ロゼッタ協会だけではない。それは、その発掘作業に関わった業者が複数だった為に生じた事態なのだが、葉佩はそんな事に興味がなかった。受けた説明も、実にお座成りだった。つまり、今回の仕事には必要のない情報なのだろう。商売敵が妨害してくる可能性が高い。それだけ心得ていれば問題はない。
 嫌な予感ならば、昨夜からうんざりするほど噛み締めている。

 葉佩に与えられた役目は、未踏区画の探索。件の遺跡から程近い街で、まずは宿を探す事にした。宿代は自分持ちが基本だ。葉佩はこの年にしては稼いでいる方だが、散財は得意ではない。値段に見合った手頃な宿を発見し、次に重要となる腹ごしらえの計画を立てる。だが葉佩にとっては不幸な事に、宿の主人から聞き出せたのはカレー屋の情報だけだった。運命など信じないが、それでも不安材料は可能な限り取り除いておくのが、この仕事を続ける上での鉄則だ。
 いや、仕事は関係ないんだけどね。一人呟いた声は雑踏に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。魅力的なスパイスの香りが流れてきたので、葉佩は足早にその場を離れた。カレーが嫌いな訳ではない。むしろ好きだ。カレーと共に思い出す顔が、もう本当にどうしようもなく面倒臭いのだ。それでも、その原因がこの世から消え失せればいい、とは思わない。だからこそ面倒なのだろう。
 衛生とは別の安全性を考慮した結果、葉佩は世界各国に存在するハンバーガーのチェーン店で食事を終えた。宿に戻って装備を確認し、神に祈るように世界を呪ってから眠りにつく。
 どうか今夜こそ、あいつの夢を見ませんように。












 H.A.N.Tが熱源を感知した。耳を澄まし、壁に反響する靴音を聞く。そうしてから、葉佩はその場でしゃがみ込んで頭を抱えた。特に意味のある行動ではない。ただ、そうしなければ何かが溢れてしまいそうだったのだ。主に罵倒とか、死の呪文とか、自爆スイッチとか、そういう類のものが。
 頼りない光源に照らされて、影が人の形をかたどった。同時に、やけに甘ったるい響きの声が聞こえた。心臓の近くで何かが震える。叫びだしたくなる。その衝動をじっとこらえ、葉佩はその男の唇が歪むのを見た。僅かに視線を上げればあの瞳があるのだと思うだけで、逃げ出したくなる。

「お前、まだ生きてたのか」
「おーよ、残念ながらね」
「俺は嬉しいぜ、お前が生きててくれて」
「そりゃどーも」

目を合わせずに声を返しながら、彼の視線が自分に突き刺さるのを認識する。見るなと叫んでその目を抉り出す光景を想像して、しかし為し得ないのだと自覚して泣きたくなった。やっぱりこんな奴、消え失せればいいのに。世界からも、記憶からも。
 奇妙に歪んだ唇から、嘲りのような微笑が零れた。

「お前を殺すのは、俺だからな」
「なるべく優しくお願いします」
「善処する」
「それ、日本人の『NO』だよね?」
「自分が楽に死ねるような人間だと思ってるのか?」
「死に方なんて考えた事ない」
「じゃあ考えろよ。どうされたい?望みどおりにしてやるよ」

柔らかい声が囁くのに耐えきれず、葉佩が口を閉じた。本当は耳を閉じたかったのだが、生憎と葉佩の耳にそのような機能は付いていない。精神に触れないようにと遮断する事もできない。どんな密やかな声でも、それが彼の声であれば無意識に拾ってしまうのだ。偽りの友人を演じていた頃から、その不可解な現象はずっと葉佩を苛んでいた。

 ふと、葉佩の手が自動的にライフルのグリップに触れた。その動きを追って、精神が情報を作り上げる。300メートルほど先の曲がり角、その壁の向こうに人間ではない気配がある。この場所を守るものが、侵入者を排除しようとゆっくりと近付いていた。
 二人が床を蹴ったのは、寸分違わず同じ瞬間だった。

 銃撃の音に混じって、軽やかな靴音が鼓膜を揺らす。通路は広くない。動きを封じれば、彼の爪先だか踵だか知らないが、兎に角どこかが異形に衝突するだろう。呪われた彼は、人では有り得ない破壊力を持っている。そして、葉佩の放った弾丸が彼を撃ち抜く事はない。
 予想に違わず、凶悪な踵が異形の脳天(とおぼしき部位)に打ち落とされる。念の為もう数発だけ撃ち込んでおいたが、完全に事切れた化人は断末魔すら許されず塵に返った。ふ、と息を吐き出す音が聞こえ、肩越しにあの目が葉佩を見て、僅かに細められ、すぐに逸らされた。意味が分からない。なんだその目は。そしてどうした俺の心臓。うるさいぞ。
 葉佩が自分の動悸にうろたえていると、カチリと音がして甘い香りが辺りに広がった。思わず息を止め、顔を逸らす。
 錯覚してしまう。ここがどこなのか分からなくなる。自分が誰なのか、目の前に立つ男は誰なのか、葉佩に別れを告げた男は誰だったのか。境界がぼやけて視界がゆがむ。帰りたいと、訳も分からず唐突に思った。帰る場所なんて、どこにもなかった筈なのに。
 葉佩、と、場違いに穏やかな声が告げた。おののいて目を見開くと、滲んだ視界の真ん中で彼が少しだけ困惑したような顔をしていた。

「そんな顔するな」
「どんな顔してる?」
「・・・俺が、死のうとした時みたいな顔」

ビクリと葉佩の肩が揺れ、床に雫が落ちた。

 ずっと彼が怖かった。彼が失われた世界を想像する度に、気が狂うほど怖くなった。きっと何食わぬ顔で生き続けるだろう自分が恐ろしくて、こんな薄情な自分は死ねばいいと思った。彼と視線が合う度に、彼が偽りの名を呼ぶ度に、どうせいつかは消えてしまうのに、と考えて絶望した。

 白い手が伸びてきて、頬に触れた。火に触れたように錯覚して身を引くと、手は名残惜しげに離れていった。危うくすがりつきそうになって、どうにか思い止まる。それに触れてしまったら、もう二度と戻れない。戻りたいなどと思った記憶はないのだが、それは確かに恐怖だった。
 逃げるように踵を返し、異形の残骸を踏み散らして走った。早く仕事を終えてこの場を離れなければ、息もできなくなる。鼻腔に残る香りを消そうと、辺り構わず撃ちまくった。折り悪く飛び出してきた化人が、文字どおりの流れ弾に当たって砕け散る。情報の記録はH.A.N.Tがやってくれるので、葉佩はひたすらにライフルを乱射しながら走った。
 固く閉ざされた扉を力任せにぶち破り、何やら大仰な雄叫びを上げる化人にもあらん限りの銃弾を送る。背後で誰かが戸惑ったように「はばき」と言っていたが、それは自分の名前ではないから振り向きもしなかった。

 全弾を撃ちつくし、肩で息をしながら倒れ伏した化人を見下ろす。どうやらこいつがこの遺跡の最後の番人だったらしい。今回も楽な仕事だったぜ、と結論付け、ざっと見回して秘宝らしき物も見当たらなかったので、そのまま地上に戻ろうとライフルを肩に担いだ。
 その瞬間、伏していた化人が飛び上がって鉤爪を振りかざした。咄嗟にトリガーを引いたが、弾は全て使い切っている。あ、しまった、と呟き終わる前に、眼前まで迫っていた異形が真横に吹き飛んだ。銃口を上げたまま「あ」の形に口を開き、葉佩が呆然とその軌道を追う。吹き飛んだ化人が床で一回バウンドして、壁に激突した。
 轟音と震動が周囲に満ちて、やがて静寂が降りてくる。その静寂をくすぐるように、甘い香りと声が落ちた。

「油断してんじゃねぇよ」
「・・・すんません」
「お前らしくもない」
「いや、どっちかってーと俺らしいと思う」
「お前は俺が殺すんだからな」
「ええと、ああ、そうだっけね」
「勝手に死ぬなよ」
「まあ、善処します」

 ゆるりと紫煙が葉佩を囲み、再び恐慌が襲ってきた。緩慢に、助けられたのだと理解する。続けて、逃げ切れなかったのだという事実もぼんやりと理解する。そして、何故かあの瞳が間近にある。心臓がうるさくなるので、あまり接近しないで欲しいのだが。身を引こうとしたら、頭を鷲掴みされた。脚力が自慢の彼は、握力もなかなかのものだ。痛い。凄く痛い。そして近い。じりじりと後退し、壁に背をぶつけて止まる。すると、顔の両脇に手を付かれた。

 だから嫌だったんだ。葉佩が心で呟く。こうなってしまっては、きっと絶対に逃げられない。
 墓場の石より軽い命が、葉佩の持つ唯一のものだった。他には何もいらないと思っていた。闇と石と謎さえあれば、それで満足だった。それが幸福なのだとすら考えていた。それなのに、この男はそれを実にたやすく打ち砕く。姿が見えないだけで、声が聞こえないだけで、葉佩の幸福はあっけなく崩れ去る。
 つまり、葉佩は《學園》での仕事を終えて以来、ずっと満たされていなかった。気が狂うほど渇いていた。

 忘れるな、と、またあの声が囁いた。しかも耳元で。

「俺が殺すまで死ぬなよ」

 で、いつ殺してくれるんだよ。