黄昏に沈みかけた校舎を一度だけ振り返り、葉佩は校門の横に停めて置いたDT250(中古)に跨った。必要な物は既に亀急便に託してある。何も残さず、何も持たずに発つのが葉佩の自分で決めたルールだった。記憶すら、やがては記録に成り果てる。心臓が音を立てて軋むのも、時間が経てば消えるだろう。経験から葉佩はその事を学んでいた。
 キィを挿し、スターターを踏み抜く。幸先良く一発で起動したエンジンに満足し、タンクを軽く叩く。気持ちは既に次の『仕事場』に移っていた。ヘルメットを被ろうと髪を撫でた、その時。

「九チャン!」

ほんの数ヶ月間の級友だった八千穂が、息を切らせながら葉佩の愛称を大声で呼んだ。いつもの笑顔を浮かべ、ヘルメットを抱えたままの葉佩に駆け寄る。心成しかいつもより楽しそうだ。はしゃいでいるようにも見える。
 弾丸顔負けの破壊力を生み出す八千穂の手が、葉佩の肩に触れる寸前で揺らめき、何かを掴むように拳を握った。どれだけ手を伸ばしても掴めないものがあると、彼女はもう知っているのかも知れない。

「もう行っちゃうの?」

問い掛ける八千穂の表情は明るい。だがその声が僅かに震えたのを、葉佩は聞き逃さなかった。
 空は黄昏から宵闇へとその色をゆるやかに変化させて行く。人の心のようだ、と、脳裡をつまらない言葉が掠める。薄く笑った葉佩の表情に気付き、八千穂はその意味を問うように真っ直ぐに元級友を見詰める。旺盛な好奇心は、時として鋭い洞察眼を伴う。彼女は聡明な人だ。

「うん、もう行かなきゃ」
「そっか・・・みんなには会って行かないの?」
「ごめん、よろしく言っといて」
「皆守クンは?」

唐突に出て来た名前に、葉佩が一瞬固まる。皆守の《役職》を、八千穂は知らない。地下深くで行われた二人の戦闘も、その直後に皆守が下した決断も、八千穂は知らない。或いは知っているのだろうか。知った上で、葉佩に最も負担の掛からない言動を、敢えて演じているのだろうか。

「あいつには、嫌われちゃったから・・・」
「それは絶対ない!」

きっぱりと言い放ち、八千穂は笑う。彼女が言うと、それがまるで真実のように聞こえる。

「皆守クンが九チャンのこと嫌うなんて、絶対ない」

 空は既に黄昏の名残だけを残して夜を広げている。この地に純粋な闇は存在しない。街灯りが雲を照らし、喧騒は眠らない。闇と静寂が駆逐されたこの街で皆守は育った。常闇を唯一の友としていた葉佩とは、根本的に相容れない性質を有しているのではないか。或いは、だからこそ惹き合うのか。
 ふと浮かんだ思いに得心して、葉佩は笑顔を作った。

「ありがと、やっちー」
「えへへ、どーいたしまして!」
「じゃあね」
「あ、うん・・・」

溌剌とした表情が、ほんの一瞬だけ陰りを見せる。しかし一瞬の表情は、笑顔に塗り潰された。彼女が自ら握り潰した感情を思い、葉佩は薄闇の中で眩しそうに目を細めた。
 笑顔の隙間に見えたその心を、葉佩は恐らく永遠に知る事は無い。失ったものを思い出して涙を流す事はあっても、葉佩は決して取り戻そうとはしない。掛け替えのないものばかりを失ってきた葉佩の、それが自分を保つ方法だった。諦める事だけが、前へ進む手段だった。

「またね」

だから、こんな言葉は知らなかった。

「連絡先決まったら、絶対教えてね」

 道は真っ直ぐに伸びているものだと思っていた。別れとは失う事だと思っていた。明日死ぬかも知れない。そんな生活の中での約束など、祈りのようなものだと思っていた。

「うん、分かった。連絡する」
「約束だよ」












 あの夕暮れを、葉佩は今でも思い出す。優しいあの人を思い出し、交わした約束を思い出す。あの日の約束は果たしたが、その時に再び同じ言葉を交わした。
 一人で潜る地下の闇の中で、葉佩は幾度となく死の恐怖を味わった。覚悟すらした。その度に、交わした約束が過ぎる。いつまで経っても少女のようなあの人を、裏切るなんて出来ない。
 ささやかなあの日の言葉が、今でも自分を生かしている。その奇跡を、次に会った時こそ伝えよう。
 四方を獰猛な気配に囲まれ、銃弾は尽きた。右手の日本刀は既に血に染まっていて、先端は先程何処かに落としてしまった。右足は体重を掛けるだけで痛み、左肩は全く上がらない。
 刃が閃く。以前の葉佩なら、其処で終っていたに違いない。

 死んで堪るか。
 約束したんだ。また会うと。
 次こそは、伝えると。