それは2月14日の昼休みだった。
明るい日差しが降り注ぐいつもの木の下で、緋勇が決然たる表情で蓬莱寺を見た。その手には、見るからに怪しげなチョコレートがある。美里、桜井、遠野、裏密の連名で貰ったチョコレートらしいが、どう見ても禍々しい。黒魔術を操るあの少女が主体となった事は容易に知れる風体だ。まさか命に関わる事はないと予想されるが、この世には死よりも恐ろしいものが存在する、ような気がする。裏密を見ていると、いつも蓬莱寺はそんな気分になった。
そんな逡巡を切って捨てるように、緋勇がチョコレートを綺麗に真っ二つに割った。仮にもバレンタインに貰ったチョコレートをそのように扱う彼の神経も問い質したいところだが、それ以前に二つに割るというその行為の意味に思い当たり、蓬莱寺は絶望にも似た感情を込めてその手を見詰めていた。予想どおり、片方が差し出される。
意を決してそれを受け取ると、強い眼差しで緋勇が頷いた。いや、それ余計に怖いから、っていうか決死の表情に見えるから、そんな澄みきった目でそんな禍々しい物こっちに寄越すな。胸中で渦を巻く思いを飲み込み、蓬莱寺も覚悟を決めた。
幸いにして大きさは控えめだった為、押し留めた恐怖が再び湧き上がる前に口に放り込んだ。
「・・・」
「・・・」
「普通だな」
「おお、むしろ美味い?」
身構えていたほどには異常な物ではなかったらしい。拍子抜けしたような気持ちで、互いに顔を見合わせる。
そもそも見た目は禍々しいが、バレンタインに渡されたチョコレートだったのだ。たとえそれが義理でもお遊びでも、危害を加える意思など疑うのが無粋というものだろう。
菓子の良し悪しなど論ずる舌を二人は持たないが、それでも頻繁に口にする駄菓子よりは美味いと感じる。純粋に好意を表すプレゼントだと、蓬莱寺は素直に思った。デコレーションに関しては、まあ、裏密なりの親愛の表現だったのかも知れない。そういう事にしておこう。
昼休みが終わるまでにはまだ時間がある。昼寝でもしようと地面に寝転がったら、寝床にするには硬かった。背中が痛い。そう言って手招きしたら、深く思案するような表情で実は何も考えていなかった緋勇がいともあっさりと傍らに腰を下ろす。
一瞬だけ彼の純真さを裏切ってしまったような気持ちになったが、信頼の表れだと断じて自分を納得させた。誰にでも気軽に膝を貸すような男だとは思えない。それが自分の身勝手な願望である事も、蓬莱寺は理解している。そもそもそんな事を緋勇に頼むような人間が自分以外に存在しないという事実は、初めから考慮の外だ。
しかし、そうして得た枕も硬かった。やっぱいいや、と言って転がると、緋勇がどこか憮然とした表情で睨んでくる。しかしすぐに視線を逸らし、何も言わずにそのまま虚空を見詰めていた。視線の先を追っても空しか見えない。という事は、空を見ているのだろうか。違うのかも知れない。蓬莱寺には見えない何かを見ていたとしても、確かめる術はない。それが、少しだけ寂しかった。
まだ指先に付いていたチョコレートに気付き、口に含む。甘い筈のそれが苦いような気がするのは、きっと彼が自分を見ていないからだ。緋勇の横顔を眺めながら、腹の辺りに灼熱の雪が積もってゆくのを感じた。
襟の隙間から覗く白い首筋が芳香を醸しているように錯覚して、蓬莱寺が思わず瞬いた。
口の中が甘い。きっと、緋勇の口の中も甘いに違いない。唐突に湧き上がった衝動をぼんやり見詰めていると、緋勇が僅かに視線を揺らめかせた。
蓬莱寺の心臓の近くに、やけに熱い痛みが走る。彼の名を呼ぼうとして、自分の声がひどくかすれている事にも気付いた。いつの間にか溜まっていた唾液を飲み下し、もう一度。
「ひーちゃん」
応える代わりに視線を向けた緋勇が、音もなく手を上げる。その指が頬に触れる寸前に、蓬莱寺は身を起こした。浮遊するような動きで眼前をさまよう手を掴み、続く腕と肩を引き寄せる。直後に、腹に衝撃が走った。だが衝撃の原因を確かめる暇もなく、緋勇が掴まれた手を取り戻して緩やかに蓬莱寺の首筋に近付ける。
咄嗟に身を引いたのは、思考以前の反射だった。自分の首を伝う液体が、自身の肉体で生産された血液であると認識する。そして、緋勇の指先にも同じ色が付着している。腹に感じた衝撃は、彼の膝に打たれたのだ。少し遅れて嘔吐感が込み上げる。
緋勇が無表情のままゆらりと間合いを詰めた。
「ひーちゃん?」
緋勇のこんな表情は記憶にない。無表情なのはいつもの事なのだが、普段の彼は強い意志を秘めている。その頑迷ともいえる確固たる精神が、今は見出せないのだ。
訝しむ蓬莱寺には一切の関心を払わず、緋勇が開いた距離を瞬く間に詰める。反射的に腕を上げて顔をかばったが、するりと間隙を突かれた。緋勇の手が顎に触れ、唇の端をかすめる。
もしも緋勇がいつもどおりの表情でいたら、蓬莱寺は無邪気に喜んでいただろう。警戒心の強い動物が自分にだけは懐いてくれるような気持ちで、誇らしくさえ思っただろう。
蓬莱寺は再び跳びすさった。右目の下に裂傷が走っている。あと僅かでも反応が遅れたら、視力すら失っていたかも知れない。そんな可能性に思い当たり、高鳴る鼓動が恐怖によるものだと認識する。
「おい、ひーちゃん」
呼ぶ声も震えていた。
夢を見るような表情のまま、緋勇が踏み出す。緩やかに見える足捌きだが、蓬莱寺はその軌道を目視できなかった。死角から飛び出してきた拳を、躱しきれずに木刀で受ける。砕け散った得物を放り投げ、次撃から逃れる為に地面に身を投げた。そのまま転がり、身を起こす。ほぼ同時に、緋勇が覆いかぶさった。無手の拳が振り下ろされる。
「ひーちゃん!」
夢中で名を呼び、辛うじて攻撃の軌道を流す。それでも殺しきれなかった威力が、肩に激痛を走らせた。
下半身は完全に動きを封じられている。武器は砕かれ、緋勇は自分が人であった事を忘れている。咄嗟に行えた動作は、腕で緋勇の上体を拘束する事だった。ある程度の距離を置かなければ、打撃は威力を乗せにくい。いわゆるクリンチだ。
その直後、緋勇の指が首をなぞった。背筋が凍るような正確さで急所を押さえられている。延髄と肩甲骨の内側。骨の継ぎ目をやわりと撫でられ、我に返った時には既に遅かった。緋勇の拳が、背中に激痛を走らせた。たまらず上擦った声を上げて苦痛を散らし、悲鳴のように名を呼ぶ。緋勇がそのまま中指を延髄に差し込めば、その時点で蓬莱寺は絶命するだろう。
「龍麻ぁ!」
為す術は見当たらず、腕を回した背中に爪を立て、ただ乞うように名を呼んだ。
脳裡に、自室の蔵書(18禁)処分しとくんだった!という後悔がよぎる。醍醐、あとは頼んだぜ。気に入ったのあったら持ってっていいから。親友に心で語りかけ、蓬莱寺は死を覚悟した。
ごとん、と顔の横で音がした。同時に、胸に緋勇の体重が圧し掛かる。真白になった頭に、無防備なぬくもりがじわりと染み入った。
「おい、ひーちゃん?」
恐る恐る呼んだ声に、しかし応は反らない。重たい体を、何はさておき腹の上から地面に落とした。抵抗もなく転がった体は、完全に弛緩している。眠っているようだ。ぴたぴたと頬を叩いてみたが、やはり反応はない。人に死の覚悟まで強要しておいて、その態度はどうなんだ。
考えるまでもなく、あのチョコレートが怪しい。しかも同じ物を食べた蓬莱寺には影響がないなんて、どう考えてもおかしい。漂う思考がそこまで辿り着き、蓬莱寺はふと気付いて記憶をたぐった。
最初に思い至ったのは、白い首筋。そして、舞うように揺れる無骨な指先。少し冷たいあの手が、この皮膚に触れた。その感触と、瞬間に背筋を走った震え。恐れに近く、また悦びにも似ていた。暴力的な、しかしどこか甘美な破滅願望のような、と考え、思わず寝顔を見下ろし、すぐに目を逸らす。無防備に肢体を投げ出す彼を見る事が、何故か罪悪のように感じられた。
暫くそうしてぼんやりと緋勇の寝息を聞いていたが、目覚める気配がないと察して身を起こした。
緋勇の唇からは、正常な呼吸が規則正しく吐き出されている。もう一度、頬を叩いてみた。やはり反応はない。そのまま目蓋に触れ、鼻梁をなぞり、唇をよけて顎を撫でた。緋勇はまだ目を閉じている。普段は気難しげに引き締められている顔が、今はあどけなく緩んでいた。
口の中の傷付いた部位に舌で触れて、この状態でラーメンなど食べたら間違いなく泣きを見るだろうと考える。当分は塩気も熱い物も控えなくてはならない。奪われた娯楽を思い、その原因となった人物の眉間を弾く。その眉が僅かにしかめられ、漸く起きたかと覗き込んだが、すぐにまた規則正しい寝息が聞こえてきた。
「・・・やるなら今だな」
特に深い意味はなく、なんとなく呟いた言葉だった。緋勇はまだ眠っている。
これは夢だと認識し、緋勇は目覚めようと抵抗を始めた。白濁していた意識が鮮明さを取り戻し、掴んだ覚醒の糸を手放すまいと身じろぐ。自分の喉から出た低い呻き声を頼りに、意識をかき集める。泥濘のような頭痛を振り切り、目を開ける。
蓬莱寺が見えた。と思ったら、すぐに視界から消えた。重たい体を起こし、まだ脳の隅でわだかまる倦怠感を払拭しようと頭を振る。その間に大きく後退した蓬莱寺が、突如として声を張り上げた。
「なっ!なんも!してねぇ!からな!」
「・・・?」
「してねぇってば!」
「何を」
「な、なにって、だから、なにも」
緋勇から距離を取り、手の平を見せて不可解な動作を見せた。訝しむよりも頭痛に耐えかねて、緋勇が眉を寄せる。そうすると、蓬莱寺は更に大きな動作で主語を欠いた否定だけを主張し、腕を上げようとして、ビクリと跳ねて肩を押さえた。
彼の肩が傷付いた瞬間を、緋勇は憶えている。ゆっくりと形を成す記憶に、後悔と恐怖が湧き上がった。
この手で、彼を攻撃した。言葉になった現実に、心臓が音を立てて凍りつく。愕然と、蓬莱寺の傷付いた体を見た。頬と首に裂傷、打撲と擦過傷は数え切れない。服に隠れて見えはしないが、動作から肩と胴体、恐らく右膝も傷めている。全て自分が負わせたものだと、瞬時に理解した。
「京一!」
「お、おお!」
「すまなかった」
「え、あ、うん、え?」
頷こうとして途中で首を傾げた蓬莱寺に、続く言葉を逸して唇を噛む。謝罪すら、させてくれないのか。当然だ、衝動に負けて暴力を振るったのだから、許される道理などない。もう二度と彼の隣には立てない。
両手を地に付いて苦悶する緋勇を、蓬莱寺が慌てて呼んだ。
「ちょ、あの、ひーちゃん?」
「・・・」
「えっと、あれ、記憶あんのか?」
「ある、全部」
「あ、そーなんだ」
「悪かった」
「あ、まあ、別にそれはいいんだけど」
「いい訳ないだろう!」
語気を強めると、蓬莱寺が視線を泳がせた。「まあ落ち着け」と言いながら肩を叩かれる。いつもどおりの、気安くも力強い彼の手だった。奥歯を噛み締める。
きっと無様な表情をしていると思ったが、顔を上げて蓬莱寺を見た。困ったように笑いながら緋勇の肩を叩き、撫でるというには少々乱暴に髪をかき回す。その仕草が優しくて、それ以上につらかった。
「ええと、まあ黒っぽいアレに操られてたって事で」
「見くびるな!俺は操られたりしてない!」
「めんどくせぇな!もうどーでもいいよ!」
「俺は自分の意思でお前を攻撃したんだ!」
「え、なんで?」
「・・・なんで?」
きょとんと問われて、思わず同じような表情で蓬莱寺を見返す。
あの時、蓬莱寺は指に付着したチョコレートを舐めとった。赤い舌が見えて、体の奥で何かがざわめいて、そうしたら彼の瞳が自分を映している事に気付いて、それに触れてみたくなって、腕を伸ばしたらその手を掴まれて、熱すぎる体温にたまらなくなって、それで?
肩を取られたのでつい膝が出て、そうしたら彼が体を離そうとするので、引き寄せようとしたら更に遠ざかった。だからこちらも腕を伸ばして、でもそうすると彼が逃げるので、むきになってしまって、ああそうだ、つまりこれは。
「動く物は追いたくなるだろう」
「なにその本能のままに生きてる宣言」
「いつもは抑えてる」
「しかもそれ、人間の本能じゃねぇよな」
「そうなのか?」
「どっちかっつーと獣っぽい」
ぱしぱしと頭頂部を叩かれ、痛くはないのだが悔しい。落ちてくる手の平を掴み、その動作を止める。すると、蓬莱寺が体を震わせて手を引いた。思わぬ反応に驚いて、緋勇が掴んだ手を見下ろす。逃れようと引かれたその手を、更に強く握り締めた。蓬莱寺が窺うように名を呼ぶ。
「あの、ひーちゃん?」
「怖いのか」
「いや、だって、お前の握力って」
「俺が怖いか」
手の中のぬくもりに、祈るように問う。視線は上げられなかった。断罪を待つような気持ちで、一心に願う。
あたたかい手がするりと離れ、叫ぶような目で、だが声は発せられず顔を上げる。その顔に、べちっと音を立てて蓬莱寺の手の平が触れた。というよりも、ぶつかった。そして疑問を口にする前に、蓬莱寺の額が激突した。がつんと響いた衝撃が脳内でこだまする。
「怖くねぇよ!お前なんか!」
「・・・そうか」
どんな理由で頭突きを食らったのかはさっぱり分からないが、得られた答えに安堵した。でも痛い。
いきなり攻撃されたらお前だってびっくりするだろ!しかもじゃれてただけとか!腹立つだろ!捲し立てられて、頷く間もなく次の攻撃が飛んできた。襟を引かれ、髪を掴まれ、制止の言葉など声にする暇もなかった。延髄に指が触れた、と察した時には、緋勇の体は如何なる動作も為し得ない状態になっていた。
つまり、完全に乗り上げられ、肩を押さえられていた。笑みのように歯を見せた蓬莱寺が、眼前の白い首筋に噛み付く。食い千切るような強さで犬歯を立てられ、思わず上擦った声が喉から溢れた。
「おい!京一!」
「ほら!やっぱひーちゃんだって怖いだろ!」
「え、ええと?」
「ビクってしたもんな!怖かったんだろ!」
「まあ、そう、だな」
首筋に当てられた獣の武器に、ひやりとしたのは事実だ。満足気に立ち上がった蓬莱寺を呆然と見上げる。頭突きの余韻もさる事ながら、牙に刺された首筋が熱い。死の危険を感知した心臓が、まだ煩いほど鳴っている。
そうか、彼もこんな気分だったのか。こんな居た堪れないというか、腹がくすぶるような恐怖を彼も感じたのか。体の奥で、えもいえぬ感覚がずきりと疼く。凶暴な破壊衝動のような、静謐な悲哀のような、不思議な温度の水が胸に流れ込む。だがそれを形而下で認識する前に、蓬莱寺が低い声で緋勇を呼んだ。
「ぜってーあれだよな」
「?」
「チョコ」
「??」
「鈍い!鈍いよお前!鈍すぎる!」
何故か罵倒され、脱力しながら憤る器用な友人を見上げる。大きく腕を上げようとしてまたしても痛みを思い出した蓬莱寺が、力尽きたように隣に腰を下ろした。
責められているような気がして、緋勇が視線を落す。彼には緋勇を責める正当な理由がある。痛みを堪えて口を噤む蓬莱寺が、何に対して憤っているのかさえ分からない。どうすればいいのかも分からない。
ただ、彼に触れる許可が欲しい。だがそれを乞う術も知らない緋勇は、黙して与えられるのを待った。
もう与えられているのだが、それすらも知らずに。
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