高校を卒業して数年が経った。目覚めた黄龍の力は龍脈の底で再び永い眠りについたらしい。
 決戦を終えた緋勇は、まだ蓬莱寺の隣にいる。つまり器として産まれた彼は、生きる意味を失ったのに生きている。その事実を心から祝福している蓬莱寺に、緋勇は少しだけ困ったように唇の端を歪めた。

「終わったら死ぬんだと思ってたんだ」
「それ、あいつらの前では言わない方がいいぜ」
「お前ならいいのか」
「いい訳ねぇだろ。許すけど」

蓬莱寺がそう言うと、また苦く笑った。その表情があまりにも彼らしくなく果かなげで、蓬莱寺は理不尽に苛立ちを募らせる。本当は脆弱な人間だったのでは、などと考える自分に、吐き気すら覚えた。
 かつての自分が彼の心を知らず、ただ寄りかかっていただけなのでは、という思考に繋がるからだ。彼の負担になっていたのでは、と考え、では今は違うのだろうか、などと、似合わない煩悶を繰り返す自分があざとく感じられるのだ。

 あんなにも遠かった人が、今では手の届く場所にいるような気がして、喜びと悲しみが同時に胸を刺激する。そんな気持ちを言葉では表せなくて、蓬莱寺はだから手を伸ばした。
 躱されると予想した手は、しかしあっさりと緋勇の皮膚に触れた。どうして避けなかったと問い詰めたい衝動に駆られ、また正体不明の嵐が発生する。それを表現するどんな言葉も持たず、ただ緋勇の泣きたくなるほど無防備な背中に手を伸ばした。緋勇はその手を拒む事も握り返す事もせず、ただじっと息をひそめている。何かを待つように。
 而して、蓬莱寺は常に漠然とした不安を感じていた。

 緋勇は穏やかになった。接触を拒まなくなった。闘う必要はないと断じているのか。それは良い事だ。これで遠慮なくさわれる。撫でられる。抱き締められる。それ以上も、もしかしたら。
 そんな風に考えながら、蓬莱寺は不安になる。

 じゃれ合う目的で放った拳すら躱さなくなった。それは、躱せなくなったのではないだろうか。
 まるで役目は終えたとばかりに緩やかになってゆく緋勇は、ゆっくりと死んでいるのではないか。天命を全うし、生きる理由を失ったのではないか。
 顔を見に来たら冷たくなっていた。そんな映像を想像してしまい、蓬莱寺は更に不安になった。その不安が死の予感のように感じられて叫びそうになった。想像した未来があまりに現実味を帯びているように感じられて泣きたくなった。
 そんな事を考える自分が、つまりは彼を誰よりも器としてしか見ていないのではないかと思い立ち、居ても立ってもいられなくなって、だがどうすれば良いのか分からなかったので走って緋勇の部屋まで来た。












 ノックと同時に返事も待たずにドアを開ける。名を呼びながら上がり込み、室内の静寂にまた泣きそうになった。何度も彼の名を呼びながら、ドアというドアを片っ端から開け放つ。残るは寝室のドアのみ、というところで蓬莱寺は急に足が竦んだ。心臓が冷たくなったように錯覚し、ノブに掛かったまま震えている指先を見下ろす。

 どうして物音がしないのだろう。
 ここは緋勇の部屋なのに、どうして彼の気配が感じられないのだろう。
 いつも眩しいほどに存在を主張する黄金の氣が、どうしてこの身を包んでいないのだろう。

 息を吸ったら、喉が変な音を立てた。
 最後に顔を見たのは、昨夜の事だ。月が綺麗だったからと誘い出し、公園を歩きながら喋ったり黙ったり肩に触れようとしてやっぱりやめたりした。月影に淡く揺れる黒髪に満足して、幸せな余韻を口中で転がしながら別れた。じゃあまた今度、などと言った気がする。どうせ明日も会うだろう、などと言われた気がする。それは約束ではなく、ただの戯言だ。月に酔った二人が、特に意味など含まずに落とした言葉だ。
 しかし、あれが約束だったからなんだというのだ。軽い口約束が、一体どんな保証をもたらすというのだ。

 どうしてこんなに静かなのだろう。
 どうして何も応えてくれないのだろう。
 どうして。

 眼前に見えた問いの答えから慌てて目を逸らす。あの男がそう簡単にくたばるなんて、有り得ない。だって彼は強くて、あんなにも容易く、以前はさわれなかった強くて、実に容易く、右手が彼の左頬に当たった強くて、背後から忍び寄っても反応しなかった強くて、以前なら、背後に立っただけで後ろ回し蹴りが飛んできた強かった、のに。
 纏う氣が柔らかくなった事には気付いていた。目を閉じている事が多くなったようにも思えた。肩に腕を回しても、身を硬くする事が少なくなった。それは、つまり、彼が












「京一」
「ぎゃあ!」
「何をしている」
「へ、あ、ひーちゃ」
「どうした」
「ひーちゃん?」
「泣いてるのか?」

まだ泣いてはいなかったが、泣きそうにはなっていた。
 コンビニの袋を提げて、緋勇が怪訝そうな顔で立っている。それは、つまり、彼が外出先から帰って来たという事だろう。鍵も閉めずに出かけるな、という、普段なら意識せずとも発せられるだろう言葉すら浮かばず、蓬莱寺はただその顔を凝視した。緋勇が首を傾げ、右手を上げる。硬い緋勇の手の平が、べちっと音を立てて頬に当たった。

「丁度良かった、買いすぎたんだ」
「あ、ああ、え?」
「まあ、どうせお前が来るだろうと思ってはいたんだが」
「え、ええと、あ、何が?」
「おでん」

そう言って、緋勇が袋の中身をテーブルに出した。蓬莱寺はまだ立ち尽くしている。頬に残る感触をなぞるように、自分の手で触れてみた。あたたかい。というよりも、腫れている。思ったより強く打たれたようだ。痛みを確かめ、漸く我に返った。
 やかんを火にかける緋勇の背中に、そっと忍び寄ってみる。ゆっくりと腕を上げ、無防備な背中に触れようと指を伸ばした。だがその動作が完遂される前に、顔面にまたしても手の平が当たった。

「火の傍で遊ぶな」

振り向きもせずに言い放たれる。やはり、彼の背後を取るのは容易な事ではないらしい。では、あの時はどうしてあんなにも、と考え、蓬莱寺の脳裡に一つの仮説が閃いた。

「ひーちゃん」
「なんだ」
「ひーちゃん、動くなよ」
「なんでだ」

仮説を裏付ける為に、白い首筋に柔らかく噛み付いてみた。全身を強張らせたのを感じたが、拳も踵も肘も爪先も頭突きも飛んでこない。腕を回しても、襟足に息を吹きかけても、緋勇はただじっとしている。
 耳の近くで奥歯をすり合わせた音が聞こえたので、これ以上は危険と判断して身を離す。緋勇の手の中の茶筒がひしゃげて、床に落ちた茶葉から煙が立っていた。シンクが手の形に溶解していたのを見てぞっとした。どうやらギリギリだったようだ。それはさておき、蓬莱寺は自説が証明された事に満足して椅子に腰を下ろした。
 蒸気を吹き出すやかんに向かい、緋勇はただじっと身じろぎもせずに立っている。表情を見たいと思ったが、蓬莱寺はその衝動を押し留めた。まだそこまでは許されてはいないと思ったからだ。ゆっくりと、だが着実に、緋勇は許している。自分が人として生きる事を。

 黄龍の器などと呼ばれ、人としての全てを無視されて、それを受け入れた緋勇は、いま蓬莱寺の前でやかんを睨んで葛藤している。或いは、自我を構築しなおしている。接触したものを壊してしまうのではないかという恐怖や、ただ消え失せてしまうと考えていた自分自身を、この俗悪な男にさらけ出した結果を考えている。
 そのような期間なのだと勝手に納得して、蓬莱寺は彼の反応を待つ事にした。

 振り向いた緋勇の目には、背筋が震えるほどの光が宿っている。こいつにはきっと永遠に勝てないのだろうと、甘くしびれるように思った。同時に、いつか絶対に負かしてやる、と声には出さずに誓った。

 つまり、幸せすぎて不安になったのだ。
 そんな結論を出して、蓬莱寺は得物を掴み上げた。愛しい彼に己の心を思い知らせる為に。