混雑する売店で、夕薙は見慣れた後ろ姿を見留めてその名を呼んだ。振り返った葉佩が、有り触れた挨拶を投げて寄越す。それに同じような言葉を返し、ふとその手に視線を流した。

「またカレーパンか?」
「だってこの前おにぎりもってったら物凄い顔されたんだもん」
「ああ、貢ぎ物か」
「そう、王様に献上すんの」

含まれた皮肉には反応せず、葉佩はまるで笑みのように頬を歪めて見せた。友人と雑談でもするようなその表情に、夕薙が思わず苦笑を漏らす。虚無を抱いたまま微笑む事など、葉佩にとっては自然な行為なのだろう。
 殺気すら立ちこめる昼時の売店から離れ、いくらか人口密度の低くなった廊下を歩く。葉佩の目的地は、どうやら屋上らしい。その場所で今も待っているだろう人物を想像して、夕薙はヒナに餌を与える親鳥を思い浮かべた。

「なあ葉佩、お前はあいつをどうしたいんだ?」
「どうって?」
「随分と甘やかしてるらしいな」
「だって、甘えたがってんだもん」
「確かにそれはそうだろうが、それでも」
「あいつの為にならない?」
「まあ、そうだな」
「別に、あいつを立派に育て上げる義理もねぇよ」

当然のように言い捨て、葉佩がまた笑った。ああ、彼はこの笑顔に騙されたのか、と、夕薙は甘い香りをまとう友人を憐れんだ。彼は葉佩を、探究心に満ち溢れた強欲な人間だと思っている。
 目は夕薙を見ながら、口は言葉を吐き出しながら、葉佩の心は此処にない。そして、それを隠そうともしていない。確か監視を任されていた筈の彼は、本当に気付いていないのだろうか。だとしたら、問題は葉佩にではなく、皆守にあるのだろう。自分を囚人だと哂った彼の事だ。法外で生きる自己完結した英雄像が、ただ無邪気に心地好かったのかも知れない。その程度には、皆守は幼かった。

「それにしては甲斐甲斐しいな」
「まあね」
「楽しいのか?」
「うん、わりと」

あっさりと返った答えに、夕薙は憐憫を禁じ得なかった。
 葉佩は、彼に所望された好物を与え、眠る場所を提供し、逃避を助けている。野良猫に餌を投げるように、葉佩はその望みを叶えた。やがて彼が望むままに、安らかな終焉すら与えるのだろう。結果などには見向きもせず、ただ我が身を捧げる快楽を追っている。それは、葉佩が潜在的に持つ願望でもあった。
 無償の愛を、葉佩は知らない。全ての人間は、羊水から吐き出され、何を思ってか泣き叫ぶ。その直後に通過する筈の、名を授かるという重大な儀礼を、葉佩は経験しなかった。母の胸に抱かれる事も、世界で唯一の名を呼ばれる事も、泣き喚いて愛情を欲する事も知らずに生きてきた。
 かつて逸したそれらを、葉佩は彼に与えようとしている。記憶の底に存在する、愛されなかった自分を慰める為に、葉佩は彼に模造の愛を差し出している。そこに、葉佩以外の人間は存在しない。人格を持つ個人としての他者を、葉佩は必要としていない。どこまでも閉じた世界で、自分という闇を見詰め続けている。
 穏やかな昼下がり、日当たりの良い廊下で、闇を見詰める瞳が夕薙を映した。

「ねぇ夕薙」
「なんだ?」
「前にさぁ、誰も信じるなって言ったよね」
「そうだったか?」
「俺が、誰かを信じるような人間に見えた?」
「信じるな、の、線引きの問題だな」
「うん?・・・ああ、成る程」
「俺の事も信じないのなら、その言葉は逆の意味にも作用する」
「『信じるな』を信じれば、つまり信じない。『信じるな』も信じないと、つまり信じる」
「我ながら面倒臭い事を言ったもんだ」
「『この文章は間違っている』みたいだね」

パラドックスを表す有名な言葉を口にして、葉佩が階段に足をかけた。矛盾と循環を含み、軽やかに屋上へと向かう。その背中を見送ってから、夕薙は窓の外を見上げた。天に救いなど求めはしないが、どうか、と呟かずにはいられない。どうかあの憐れな獣達が空を見上げる日が来るように、神にではなく、彼等の心に祈った。

 葉佩は今夜も《墓》に潜るのだろう。皆守が望む、汚れた英雄になる為に。健気な事だ。甘やかされた子供の我儘を、身を削って叶えようとしている。皆守を包んでいるのは、優しい黄昏と花の香り。そんな中で、此処は牢獄だなどと嘯く皆守に、葉佩はそれでも夢を見せようとしている。後の事など考えもせずに、強請られるままに菓子を与える。それがそのまま愛されなかった自分を肯定する行為だなどと、自覚は無いのだろう。破綻した自分を、確かに嘆くだけの認識はあるというのに。

 午後の授業が始まる。久し振りに担任の顔でも見ようと、夕薙は教室に足を向けた。予想どおり二人の姿は見えない。きっと今頃、冷たい風が吹く屋上で身を寄せ合っているのだろう。まるで世界に二人きりのように。
 無邪気な献身を捧げる葉佩は、彼の闇さえも許容する。そうして皆守が望む彼自身の終焉すら眼前に示して、一人取り残されるのだ。葉佩が愛情だと信じるそのいびつな行為が、何も与えられなかった自分への憎悪を根拠としている限り、二人はどこまでいっても独りでしかないのだから。