鮮烈な氣が皮膚を叩いた。本能的な恐怖が心臓を絞り上げる。圧倒されそうな心を、深く強く地面に突き刺す。反射的に顔を庇った腕を下ろし、蓬莱寺が視線を上げた。

 眼前に見えるのは、この心が求める唯一。

 腹の底から湧き上がるものが、戦慄なのか愉悦なのかも分からない。ただ蓬莱寺は震え、奮えた。名状しがたい鼓動に促され、喉から声を発する。それは雄叫びだ。大地に突き刺した心を、再び胸の前で構える。切っ先を眼前の男に突きつけ、奥歯を食い締めたまま口角を上げる。
 緋勇が僅かに腰を落した。両の腕を蓬莱寺と同じように胸の前で構えたが、笑みは浮かべいてない。細く、薄く、鋭く尖った視線が、それでも彼が期待しているのだと蓬莱寺に知らせる。その虚を、満たす時だけを心に浮かべる。

 蓬莱寺が先に仕掛けた。上体を低くして、真っ直ぐに走りこむ。緋勇と相対すると、自分の間合いが途方もなく遠いように感じられる。永遠のような距離を走り、その場所を踏んだ左足を軸にして、一閃。ふ、と緋勇の体が沈んだ。空を斬った刃を引き戻し、もう一撃。
 捉えたと思った緋勇の左肩が、するりと向きを変えた。突き出した切っ先は、しかし惑う理由などない。伸び切った腕を取られる前に、重力と遠心力を活用して身を離す。要するに地面に身を投げて緋勇の攻撃を躱したのだが、僅かに米神をかすめた拳に鼓動が音量を増した。顔面に入れる気だ。
 受身を取って地面を転がり、その勢いで立ち上がり、身構える。蓬莱寺が一連の動作を終えた時、緋勇は既に自分の間合いに到達していた。慌てて刃を振り、その直後に失策を悟る。恐怖に駆られて安易に得物を振ってしまった。
 刹那にも満たない蓬莱寺の後悔は、痛みと衝撃という形で報われた。無防備に上がった腕に、緋勇の手が絡まる。振り上げた得物の重さと、まだ働いている慣性に引かれて、蓬莱寺はその手から逃れる術を見失った。視界が回転する。天空と大地が交互に見えて、一瞬だけ緋勇の顔が見えた。

 頭部を庇いながら、衝撃を逃がす為に再び地面を転がる。土に混じった小石が皮膚を刺したが、そんな些細な事を気にしている余裕はない。今度は蓬莱寺が立ち上がるのを待っている緋勇を、地面に這いつくばったまま見上げる。冷やかな目に傲然と見下ろされ、羞恥と屈辱に頬が熱くなった。緋勇がそのまま足を頚椎にでも乗せれば、生死は分けられる。強い者が勝利し、弱い者が敗北する。なんて公平で、残酷な掟。
 どうした、と緋勇の唇が発音した。もう終わりか?嘲るような口調だった。彼は待っている。蓬莱寺が立ち上がり、その手の刃を振りかざす時を。そして、刃が自身に恐怖を突きつける時を。
 緋勇は飢えている。蓬莱寺が強敵を欲するのと同じ心で、自身の危機を欲している。それを打ち伏せ、痛みに耐え、夢中で勝利に食らいつく、そんな瞬間を望んでいる。ゲームや漫画ではあるまいし、死闘に昂ぶるなどと狂気の沙汰だ。気が違ってる、と蓬莱寺が吐き捨てる。俺も、お前も。
 緋勇が微笑んだ。熱した飴のような笑みだった。ぞくりと、蓬莱寺の背に怖気が走る。

 応よ、往こうじゃねぇか。誰も知らない場所へ。

 刃に言葉を乗せて、蓬莱寺が構える。緋勇が僅かに目を眇めた。数歩の間合いを挟んで、爆発しそうな心をじっと抑え込む。我慢すれば、それだけ解放の快感は増すのだ。ただ坦懐に、刃の向かうべき先を見極める。全身を使い、突き刺す場所を探す。

 動け。と、世界に命じる。静止した世界は完璧だ。流れ、揺れ、震える時にこそ、完璧な世界に亀裂が入る。あらゆる感覚を研ぎ澄まし、ひたすらに隙間を見出そうと凝らし、同時に拡散させた。
 互いの隙を待って静止した二人が、同時に地を蹴った。緋勇が走りながら上体を倒す。死角に入り、足を刈る。緋勇が得意とする戦法だ。極限まで研磨された精神が、確かにその動きを感知した。腰を落し、一息に薙ぐ。左腕でそれを受け止め、緋勇が吠えた。その逞しい腕を斬り落す覚悟で、刃を振り抜く。

 この世で最も美しい赤が視界に飛び込み、蓬莱寺の脳を焼いた。

 なんて甘美な。
 なんて醜悪な。

 これは永遠だ。
 これは刹那だ。

 矛盾ではない。それは等しく同時に存在し得るものだ。今この場に、その証拠がある。彼が証明してくれる。ずっと求めて、諦めきれずに望んで、砕け散るほど願ったものは、確かに在るのだと。
 気の遠くなるほど長い道の果て、それが今、この心に。












 骨をも断つ心算で振った刃は、しかし少しの血糊と脂に汚れただけで、あえなく大気と再会した。大きく上がった腕を引き戻す前に、真下で鋭い気合と空を裂く音を聞く。一筋の容赦もなく、緋勇の踵が蓬莱寺の壇中に突き刺さった。呼吸が止まり、膝が抜ける。蹴り上げられた力に押され、踏ん張る暇もなく爪先が浮いた。

 空を飛ぶのが自由の象徴だと、どこかで誰かが言っていたような気がする。それは嘘だと、蓬莱寺は思う。空中で、人間はこんなにも不自由だ。歩く事も、走る事もできない。剣を振るう時も、発生する反動を受け止めて地に流さなければ威力は発揮できない。大地を踏み締め、両足で立つ者こそが自由だ。

 背中に感じた衝撃で、蓬莱寺は我に返った。吹き飛んだ一瞬だけ落ちていたらしい。受身も取れずに後頭部を強打し、痛みにまた地面を転がる。無様だが、痛いのだから仕様がない。緋勇が、腕を押さえながら鼻で笑っている。それを涙で滲んだ視界の端で確認し、一撃は入れた、と淡い満足感を噛み締めた。一生消えない傷になればいいのに、などとと残酷な事を考え、もうずっと前から自覚している浅ましい心を再認識する。嘔吐感を覚え、体を丸めて大地に横たわった。
 おい京一、と、心成しか不安げな声が降ってきた。目を閉じてそれを無視していたら、血まみれの手の平が落ちてきた。頬を打たれ、もう一度、泣きたくなるほど心地好い声で名を呼ばれる。そんな声で呼ぶのに、攻撃は手加減しないのか。
 緋勇が少しだけためらってから手を伸ばし、恐らくはヒビぐらい入っているだろう肋骨に、皮膚の上からそっと触れた。されるがままに身を預け、あたたかい手の感触に意識を向ける。低く呻くと、手はビクリと震えて離れていった。惜しむ気持ちを込めて視線を上げると、緋勇が眉間にしわを寄せて唇を引き結んでいるのが見えた。怒った顔にも見えるが、往々にして緋勇は不安をそのように表現する。本当に怒っている時もあるのだが、それはさておき。

 気だるげに緋勇の名を呼ぶと、さも不機嫌そうな声が返った。一撃、入れたぜ。誇らしく宣言すれば、確認した事実に我知らず頬が緩む。敗北の妙味を知らぬ戦士を、憐れむように、慈しむように見上げた。

 彼に一太刀を浴びせた男は、もうどこにもいない。勝利してしまったから。打ち砕いてしまったから。殺してしまったから。
 あの夜、緋勇は一人で往こうとしていたのだと蓬莱寺は考えている。宿命の決戦ではなく、ただ一人の男と対峙する為に。蓬莱寺はそれに、仲間などという言葉を使って否定を被せた。あの瞬間、自分は緋勇を殺したのではないか。戦士の矜持を折って、ただ与えられた役目を果たせと、そう言ってしまったのではないか。ずっと喉元に引っ掛かっていた。

 重傷を負った緋勇が退院した日、彼が真っ先に向かおうとしたのは旧校舎だった。電飾に彩られて浮かれきった街で、緋勇は飢えた獣のような瞳でその力を振るう対象を欲した。宗教的な理由ではなくクリスマスは異性と楽しむものだと考えていた蓬莱寺の言葉を、侮蔑すら見せて拒んだ。その時にはもう、蓬莱寺は己の醜い心を自覚していた。
 緋勇は一人の男として、戦士として、雪辱という個人的な理由で闘いたかったのだ。それを蓬莱寺は否定した。ただ見守るだけなんて、耐えられなかったから。自分ではないものを見て燃え上がる彼の瞳が、耐えられないほど苦しかったから。宿星に殉ずると決意した彼の清廉な心をあざとく利用して、本当の願いを自らの手で破り捨てろと、そう言ったのだ。

 痛む体を苦労して起こし、緋勇に向かって手を差し出した。立てないから手を貸せ、と言外に主張すると、緋勇があからさまに顔をしかめ、そのままの表情で手を差しのべる。表情と動作が一致していないのはいつもの事なので気にせず、遠慮なく手を借りて立ち上がった。手が触れ合う瞬間、緋勇がほんの僅かに安堵したような顔をしたのは、指摘しないでおく。
 そんな顔をするくせに、攻撃するのに一筋のためらいも見せないのか。

 緋勇の肩に体重をかけて、またやろうな、と言って笑うと、何度やっても同じだ、と無表情な声が返った。
 そんな悲しい事を言わないでくれ。いつか必ず、お前に敗北をやるから。一人では決して味わえない、屈辱と恐怖と昂揚と忘我を、その体に刻んでやるから。その飢渇を満たす為なら、この体も心も全て捧げるから。
 だから、そんな顔をしないでくれ。

 諦めないでくれ。望み続けてくれ。つらくても、寂しくても、待っていてくれ。
 いつか必ず、そこまで行くから。

 そうしたら、俺を食らい尽くしてくれよ、相棒。