息苦しさに目を覚まし、緋勇は自分が危機に瀕していると察した。体勢は緩い裸絞めで、幸いまだ極められてはいない。しかしあと僅かでも蓬莱寺が腕に力を込めれば、緋勇といえども意識を保つのは難しいだろう。下手をすれば死に至る場合もある。それでも緋勇は、弛緩した腕を解こうとは思わなかった。
後頭部の辺りで、安らかな寝息が聞こえる。膝にも蓬莱寺の脚が絡まり、何やら複雑な体勢で拘束されている。彼を起こさずに体を離すのは難しいと判断して、緋勇は背中のぬくもりを許容した。吐息がくすぐったいのも我慢して、蓬莱寺が目覚めるのをじっと待つ。
過去にも何度か経験したこの時間が、緋勇は嫌いではなかった。
ふと、たった今まで見ていた夢が浮かぶ。
夜と鬼。真直ぐに自分を見据える瞳。熱い手の平。一人で駆け抜けた暗い森。陽光のような気配。どこか懐かしく、胸の奥が痛むような気持ちになる。この記憶は過去の現実か、はたまた脳が作り出した幻か。たゆたうように思いつつ、夢ではないと意識のどこかで確信する。これは遠い記憶だ。
ぬくもりに包まれて夢の記憶をもてあそんでいると、蓬莱寺が何事か低く囁いた。不明瞭に呟き、覚醒した気配を緋勇に伝える。しかし拘束は解かれず、ゆるやかに絞められた。ようやく抵抗のきっかけを得て、緋勇は遠慮なく肘を鳩尾に叩き込んだ。たまらず腕を解いて、蓬莱寺が悶絶しながら地面を転がる。
体を折り曲げて苦痛に呻く声を聞きつつ、緋勇は離れていった腕を惜しむ自分に気づいて眉を寄せた。あたたかい体が遠ざかり、朝の空気が身を切るように感じられる。大陸の冬は寒い。体温を奪われぬよう、なるべくなら密着していたいのだが、蓬莱寺の手癖の悪さにそれも叶わない。まったく困った奴だと溜息を吐き、まだ地面と戯れている蓬莱寺を見下ろす。
くすぶる残り火に風を送り、熾きに火を点けて小枝を入れた。どうにか勢いを取り戻した焚き火に向かい、「腹が減ったな」と独り言を呟く。そうすると、軽く咳き込みながら、蓬莱寺が身を起こして歩み寄ってきた。
「なあひーちゃん」
「どうした」
「どうしたっつーか、なんで殴られたんだ俺」
「朝っぱらから盛るからだ」
「さ、盛ってたか!?」
「それはもう、身の危険を感じるほどに」
本心からそう答えると、蓬莱寺は両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。だってしょーがねぇだろ朝なんだから。起きたら目の前にひーちゃんいるし、ひーちゃんあったけーし、寒いし、朝だし!
最初は小さな声で、だんだんと音量を増し、最後には叫ぶような声で、蓬莱寺が主張する。しかしその言葉から彼の正当性を拾い上げる事ができなかった緋勇は、地面を叩いてまだ何か言っている男を無視して、朝食の準備に取り掛かろうと立ち上がった。
「近くに水場があったな」
「分かるだろ男なら!」
「魚でも獲ってくるか」
「ってゆーか俺、ほんとに何した?」
「憶えてないのか?」
「え、ええと、もしかして、なんか、しちゃった?」
どこか不安げに、窺うような上目遣いで蓬莱寺が見詰める。その顔が本当に怯えているように見えて、緋勇は彼が安心するようにと微笑みを浮かべようと努力して、しかし表情筋は思うように動かなかったので諦めた。結果的には無表情のまま片目を眇めてしまったので、蓬莱寺はもういっそ憐れなほど動揺している。今にも泣き出しそうなその様子に、緋勇の心がひそやかに愉悦を含んだ。
だが緋勇は、寝惚けた勢いで絞められた程度でどうにかなる男ではないと自負している。いじめて楽しむのはやめて、的確に事実を提示してやった。
「裸絞め」
「は?」
「スリーパーホールドと言った方がいいのか?」
「ああ、あれか」
背後から首に腕を回し、頚動脈を圧迫する、という極めて危険な技だ。寝ながら食らってしまうという自分の不甲斐なさにもうんざりするが、どうも蓬莱寺を相手にすると警戒を解いてしまうのだから仕方ない。彼から与えられるものは、いつだって緋勇を心地好くさせる。それが柔らかい拘束でも、予想外の速攻でも、待ち構えていた切っ先でも、驚愕や戸惑いの表情でも、緋勇は同じように自分の中の空洞が満たされるのを感じた。
思考ともいえない漠然とした感覚に気を取られていたら、蓬莱寺が何かを諦めたような顔で溜息をついた。
「いちおー言っとくけど、頚動脈は狙ってない」
「気管狙いだったか」
「チョークでもねぇ」
「というと?」
「分かんねぇか?」
「頚椎か」
「どんだけ信用ねぇんだ俺」
夢を見ていたのだと、苦い顔で蓬莱寺が続ける。そうかと返した緋勇は、頷きはしたものの理解はしていない。理解していないという事を、理解していない。
無言で手招きした蓬莱寺に、特に疑問もなく歩み寄る。地面に座った蓬莱寺の傍に膝を付くと、左肩を軽く叩かれて、そのまま背中に腕を回されて、肩甲骨の辺りも叩かれた。硬くて熱い手の平が、ゆっくりと背筋を撫でる。右肩には蓬莱寺の顎が乗っていて、頬の横で遊ぶ髪がくすぐったい。反撃すべきか、しかし痛みはない。攻撃ではなく、暖をとりたいだけなのか。ぼんやり考えていたら、鼻先で笑顔が咲いた。
「こーゆー事」
「そうか」
「うわあ、分かってなさそー」
「よく分からなかった」
「うん、まあいいや」
説明する気はないらしい。ついでに髪を掻き回されて、さすがに耐えかねて振り払おうとしたら、今度は同じ手が乱れた髪を丁寧に整え始めた。害するのではなく触れてくる手を拒めなくて、中腰で浮かせていた上体を彼に預ける。そうすると彼は、何がそんなに、と思わずにいられないほど嬉しそうに笑った。
武器に触れ続けて硬くなった手の平に、また夢の記憶が浮かぶ。
殺そうと思った。煩わしい子供。何も知らずに自分を見詰めた眼差し。消え失せれば、きっとこの心は安らかになる。一心に叩き付けた。たやすく吹き飛んだ幼い体に、酷く失望したのは何故だろう。
「俺も見た」
「何を?」
「夢」
「どんな?」
「・・・」
夜と鬼。不意に触れてきた熱い手の平。何も知らないくせに、守られているだけのくせに、弱いくせに、どうしてそんなに真直ぐに見詰める。この虚を覗くな。恐れて目を逸らせ。怯えて逃げろ。さもなくば死ぬぞ。この身の虚が、お前を殺す。
脳裡を流れる記憶は曖昧で、それでいて突き刺さるように鮮明で、言葉にするのは困難だった。だから緋勇は何も言わずに、湧き上がった遠い日の衝動と、髪を撫でる手の感触に目を細めた。無言にも動じず、蓬莱寺が何故か誇らしげに言う。
「俺も見たぜ」
「頚椎を折る夢か?」
「ちげーっつってんだろ」
「む、違ったか」
「餓鬼の頃にさ、死にそうな怪我したんだ」
「意外性の欠片もない幼少時代だな」
「うるせぇよ」
今とあまり変わらないと言外に揶揄すると、低い声で不機嫌そうに凄まれた。だが髪を梳く仕草は柔らかで、彼が毛づくろいに夢中になりつつあると察する。存外に甲斐々々しい男だ。
夜、山道を歩いていたら鬼に会った。怖かったけどそれ以上に悲しくて、あるいは嬉しかったのかも知れない。冷水のような白い花のような不思議な印象で、恐ろしく強くて、でもどこか果かなくて、切なかった。でも強かった。死にそうになった。絶対に負かしてやると意気込んでずっと探していたのだが、今ではもう、顔も思い出せない。
思いつくままに語られる言葉は散漫としていて、緋勇にはほぼ理解できなかった。それでも懐かしそうに語る彼の横顔は淡く甘く、その記憶が後悔だけではないのだと緋勇に伝える。少しだけ、面白くない。
蓬莱寺の言葉が尽きるより早く、緋勇は欲望を意識した。それは先程から腹の辺りにわだかまっていて、緋勇をどうにも落ち着かない気持ちにさせる。求めているのはこんなにも穏やかな手ではなく、かといって白刃を操る屈強な手でもない。察してくれない彼がもどかしい。同じ気持ちではないのか。こんなにも欲しているのは、自分だけなのか。要するに腹が減った。
そう言って立ち上がると、蓬莱寺が「俺も」と言って立ち上がる。
「お前は夢の続きでも見てろ」
「寝てろって事か?」
「忘れたのか京一」
「なんか忘れたか?」
「俺は鬼より強い」
きょとんと瞳を丸くしてから、蓬莱寺が破顔した。それはもう、とろけそうな表情で。忘れてねぇよと笑う彼は、きっと何もかも理解しているのだろう。相棒が鬼より強い事は勿論、思い出話にまで嫉妬する狭量な男だという事さえも。
|