それは、師匠の言いつけで酒を仕入れた帰り道だった。
 灯りの少ない山道に、自分と同じ年頃の少年が佇んでいる。宵闇よりもなお黒い髪の隙間から、茫洋とした瞳がちらりと見えた。藍色の袖から覗く肌は気味が悪いほど白い。
 ぞくりと、体の奥から冷たい感触が湧き上がる。秋の川水に足先を入れたような、白い牡丹が凛と咲いたまま落ちるような、清冽なるその刺激を蓬莱寺は不快と認識した。一瞬だけ垣間見た瞳から逃げる為に、しかし恐怖を悟られまいと、慎重にその横を通り過ぎる。
 蓬莱寺には、喧嘩で同世代に遅れを取った記憶がない。たとえ相手が立派な体格を持つ大人であっても、臆する理由など存在しないと考えていた。それなのに、知らず木刀を握り締めていた手が湿っている。
 走り出したい気持ちを抑え、どうにか冷静な歩調で道を踏む。振り返ってもう一度あの姿を確かめたいという欲求と、早く師匠の顔を見て安心したい(あの男の顔を見て安心するなんて認めたくはなかったが)という欲求が、同時に心臓を圧迫した。

 一心に足を動かし、やがて見憶えのある灯火が視界に入った。
 暗い夜道を歩く自分の年齢など忘れ、あんな子供がどうしてこんな場所に一人で、という疑問がふとよぎる。もしかしたら、帰り道を見失って困っていたのかも知れない。心細くて、誰かに助けを求めたくて、でも言えなくて、泣きたくなっていたのかも知れない。
 いつものように笑う男の顔を見る。頼まれていた酒瓶を投げつけると、期待に反して事もなげにそれを受け止めつつ「何かあったのか」と訊かれた。「何もない」と返し、それは嘘だ、と同時に心に浮かべる。『何もしなかった』があった。それはきっと、悪事を働くよりも罪深い行いだ。
 布団にもぐり込んで目を閉じても、あの少年の事ばかり思い浮かんだ。家に帰れただろうか。まさか、まだあそこに佇んでいるなんて、そんな莫迦な事はないだろうな。凍えていたら、寂しくて泣いていたら、そう考えると、何も言わずに逃げるように去った自分が悔やまれた。どうしてあの時、あんなにも早く立ち去りたいと思ったのだろう。

 睡魔と踊る悔恨に耐えかねて、蓬莱寺は布団を跳ね除けた。音を立てないように寝床を抜け出し、夜半も過ぎた山道を走る。きっとあのあと、少年は家に帰ったのだ。あたたかい食事と寝床を与えられ、今頃はその幸福も自覚せずに微睡んでいるに違いない。何度も自分にそう言い聞かせながら、それでも足は止まらなかった。
 そうして再びその場所に立った時、蓬莱寺は自分の行動が正しかったのだと確信した。

 彼は佇んでいた。

 幽鬼にも似た白い肌が、夜闇にさやけく映る。当たって欲しくない予感が的中してしまったのに、蓬莱寺は何故か安堵したような気持ちでその少年に歩み寄った。日の下で見たらどれほど美しいかと思わせる髪の隙間から、月よりも冷たく酷薄な視線が蓬莱寺を刺す。怯みそうになった心を、唇を噛んでこらえた。口中に溜まった唾液を飲み下し、声が震えぬよう腹に力を込めて、問いかける。

「お前、迷子?」
「消えろ」

返った言葉を、咄嗟に理解できなかった。数秒の間をおいて、漸く理解できなかったのだと理解する。眉を寄せた蓬莱寺を見て、その少年はさも忌々しそうに唇を歪めた。

「消えろ。子供がこんな時間に出歩くな。取って食われるぞ」
「いや、お前も子供だろ」
「うるさい。俺は違う」
「つーか取って食われるとか、誰に」
「黙れ。死にたいのか」

斬って捨てるような物言いに、もともと温厚ではない蓬莱寺の精神が熱した。今では馴染んだ木刀を、誇示するように上げる。心配してわざわざ来てやったのに、なんという傲慢な態度。確かに助けてくれと頼まれた訳ではないのだが、こうも人を軽視するような言葉ばかり吐かれると面白くない。

「おめーさぁ、口の利き方って知ってる?」
「知らん。知る必要もない」
「あるだろ、必要」
「それはお前が人だからだ」
「犬だってもーちっと話できるぜ」
「犬に人間と同じ思考回路があるとでも思ってるなら、お前は本当に救いようがない」
「あーもーいーや」

 真夜中の焦燥は、どうやら要らぬ世話だったらしい。果かなげに見えたのは、きっと錯覚だったのだ。だが、言われっぱなしでは収まらぬ。せめてその冷ややかな瞳が驚愕に見開かれたら爽快だろうと考え、素早く切っ先を流す。鼻先でもかすめてやろうと、軽い気持ちで放った悪戯だった。
 後悔するより先に、蓬莱寺は恐怖した。

「その薄汚い棒切れは、お前の武器か」

それは質問の体を為していたが、答えを期待するものではなかった。
 たおやかな白い指先が、蓬莱寺の唯一の武器に触れている。押しても引いてもびくともしない。いっそ武器を手放してしまおうかとも考えたが、手はすがるように愛刀の柄を離そうとしなかった。武器を失えば、戦う術はなくなる。この状況で、そんな選択を行えるほど蓬莱寺は死地を知らない。

「俺に武器を向けたな」

 柄を握り締めたまま、蓬莱寺は膝を折った。動けない。声も出ない。呼吸すらままならない。後悔すら追いつかず、蓬莱寺はただおののいた。
 夜のように黒い瞳が見える。朝のように白い手が見える。その全てが、黄金に輝いているように見えた。












 永遠のように感じた刹那を過ぎ、蓬莱寺は山が震える音を聞いた。自分を見詰めていた瞳が、するりと逸れる。あんなにも恐ろしかったのに、何故か惜しむような気持ちになった。純粋なる殺意を含んだその瞳が、素晴らしく貴重なものに感じられたのだ。
 だがそんな不可解な心象を形而下で認識する前に、少年が地を蹴った。軽やかな音が耳に残り、藍色の袖が視界の端をかすめる。口を開けたまま振り仰いだ夜空には、たった数秒前まで自分を殺そうとしていた少年の姿があった。その向かう先にあるのは、空を覆わんばかりの異形の物。

 鬼の話ならば、過去に何度か聞いた。陰と陽がどうとかいう話はほぼ忘れたが、実際に剣を合わせたなどという素っ頓狂な事を真顔でのたまう男の声は憶えていた。排斥されたまつろわぬ民の成れの果てだとか、祟りを起こす神と同意だとか、役に立つとは思えない知識が脳裡をよぎる。

 小さな体が、今度こそ黄金に輝くのを見た。異形が慟哭を上げる。喪失を嘆くようなその声に、蓬莱寺の心臓が切なく締め付けられた。もう二度と戻らない誰かを想って、この鬼は哭いているのではないか。そんな益体もない思いが、喪失も慟哭も知らぬ幼い胸を鋭く刺した。
 冷酷な拳が黄金をまとって振り上げられる。少年のようにも見えるあの子供は、本当は鬼よりも恐ろしい存在なのかも知れない。轟音が鳴り響き、巨大な鬼が崩れ落ち、月も星もない空から少年が降りてきた。苦悶の声を上げる鬼に向かい、突風のような氣を瞬時に練り上げる。
 蓬莱寺が叫んだのは、自分でも理解しがたい衝動からだった。先程の恐怖も忘れ、少年の今まさにとどめを繰り出そうとしている腕にすがりつく。

「おい待てよ!」
「慌てるな。お前もちゃんと殺してやるから」
「慌てるよ!なんだその爽やかな殺人予告!」
「まずはこいつからだ」
「待てって!泣いてんじゃねぇかそいつ!」
「呼ぶな。奴らに名前を与えるな」
「は、え?」
「そんな事も知らないのか。莫迦が」
「あああ殴りてぇこいつ!」

 この子は、どうしてこんなにも憎んでいるのだろう。全てを破壊したいとでも言うように、目は冷たく研ぎ澄まされている。この鬼を殺す為だけに、彼はここに立っていたのだろうか。

「なあ、もういいだろ?許してやれよ」
「許すのは俺じゃない」
「でも」
「黙れ。何も知らない子供が」

じゃあお前は何を知ってるんだよ。そう言おうとして、しかし蓬莱寺は声を呑み込んだ。きっと彼は知っているのだ。鬼が哭く理由も、消し去る以外にその心を救う術がないという事実も。
 掴んでいた腕がふわりと離れた。渾身の力で拘束していたつもりなのに、どうやって抜け出したのか。蓬莱寺が再び彼の体に触れるより早く、少年の拳が氣を放つ。一筋のためらいもなく、愚直なまでに清廉な攻撃だった。
 どうしてそれがこんなにも悲しいのか、蓬莱寺には分からなかった。

 憐れな異形は、断末魔すら許されず塵に返った。凄絶な氣を放った拳を解かぬまま、鬼殺しの少年がゆらりと蓬莱寺を見る。それが鬼を見た瞳と同じ色で、蓬莱寺は訳も分からず叫びたくなった。
 そんな目をするな。世界にはきっと綺麗なものもある。悲しい事ばかりじゃない。お前の中にも、きっとある。だから、そんな目をしないでくれ。涙が溢れるように言葉が溢れ、しかし一つたりとも声にはならず、あの白い手が眼前にかざされた。
 ああ、彼は誰にも届かない場所にいるのだと、蓬莱寺は絶望のように思う。そうしてから、絶望など棲まわせるほど自分の心は広くないのだと思い出す。いつだって、心はここではないどこかを見上げていた。
 歩く為の二本の脚がある。切り開く為の手がある。負けたくないと叫び続ける心がある。
 それならば、今夜も例外ではない。

 不思議な軌道で向かってきた手の平を、硬い矜持で叩き落す。少しだけ驚いたように、黒い瞳が見開かれた。心が沸き立ち、たまらなくなって突き上げる。黒髪を斬撃がかすめた。舞い落ちた髪がひとすじ、ふたすじ、虚空をさまよう。それが地に降り立つより先に、蓬莱寺は雄叫びを上げて得物を振り上げた。
 少年の頬が歪む。唇を引き結び、奥歯を噛み締めたのが分かった。黒い瞳が燃え立ち、月のように光を放つ。
 蓬莱寺も同じように頬を歪め、歯を見せる。腹の底から湧き上がる衝動が悦びだと、幼い彼はまだ知らない。

 木刀の先が、彼の脇腹を捉えた。誘われたのだと察する余裕もなく、夢中になって振り抜く。しかし直後に向かう先を逸して、透かされてよろけた上体に強烈な一撃を食らった。地を転がり、それでも得物は離さず、少しだけ息を乱した少年を見遣る。

「つえーなお前」
「・・・」
「もっとやろうぜ」
「・・・」
「殺すんだろ?やってみろよ」
「死にたいのか」
「死にたくねぇよ」
「だったらどうして逃げない」
「もったいねーから」

少年が変な顔をして黙り込み、そうすると酷薄だと感じた顔が年相応の幼い形になった。恐ろしかった白い頬が、今は僅かに紅潮している。袷の隙間から見えた肌に、悪い事をしているような気分になった。えも言われぬ心地好い刺激だ。こっそり舐めてみた秘蔵の酒は苦かったが、あのじわじわと内臓を侵した味は忘れられない。幼い蓬莱寺は、それが背徳の妙味だと知りはしないが理解していた。
 誰も彼を知らないといい。

 鬼を殺した少年が、戸惑ったように眉を寄せる。その仕草がなんだかとても不安そうで、心細げで、蓬莱寺は幼い自尊心が満たされるのを感じた。

「怖くないのか」
「お前こそ、怖いのかよ」
「俺は何も怖くない」
「だったら、なんでそんな顔してんだよ」
「うるさい!」

悲鳴のような声と同時に、黄金の氣が破裂した。躱す暇もなく、真正面からそれを受ける。重たい刃のような氣に切り裂かれ、蓬莱寺が為す術もなく吹き飛んだ。皮膚が焼けるように痛み、これは拙いとぼんやり思う。やはり、触れてはいけないものだったのだ。闇に咲く花は恐ろしいものでしかないのに、どうして綺麗などと感じるのか。
 死の覚悟など果たせよう筈もなく、蓬莱寺は間近に迫った闇の淵にあらん限りの罵倒を投げた。遠くなったその耳に、涙交じりの声が届く。

「何も知らないくせに、守られてるだけのくせに、弱いくせに!」

お前こそ、泣きそうになってるくせに。確かに弱いけど、一撃で死にそうになってるけど、守られてるなんて訳の分からない言いがかりだ。怖がっていたのはそっちだろう。だから、俺の勝ちだ。
 耳元で怒鳴る声が途切れた。風の音に似た男の声が、かすかに蓬莱寺の鼓膜を揺さ振る。弾かれたような動作で少年が振り向いた。それと同時に、頬に触れていた何かが遠ざかる。それが異形を滅した少年の手だったと、少し遅れて気が付いた。
 乱れていた黄金の氣が、硬くこごってゆくのを感じる。

 聞こえたのは、もう嫌になるほど聞き憶えのある声だった。
 くそじじい、ぜってぇあとで殴る。声の主を察した蓬莱寺が、霞んだ意識の表層で毒づく。ずっと見てやがったのか。悔しいと思う反面、安堵している自分に気付いて舌を打ちたくなった。あの男なら、きっと助けてくれる。数え切れないほどの死地を越えて来たのだろうあの人は、いつだって優しかった。
 ああ、やはり守られていたのだと、蓬莱寺は大きな手に抱き上げられながら唇を噛んだ。












 蓬莱寺が目覚めた時、既に日は中天にあった。身を起こそうとして走った痛みに思わず声を上げると、見慣れた背中が振り向いて笑った。熱を持った自分の体を見下ろし、適切な処置が施されているのを確認して溜息をつく。無言のまま再び背を向けた男に、こちらも顔を逸らしたまま声を投げた。

「なあ、あいつは?」
「泣いて帰った」
「マジで!うわ見たかった!」
「泣かされてた奴がほざくんじゃねぇ」
「泣いてねぇ!」
「しかも俺の袖にしがみついて泣いてたぞ」
「気色わりーこと言うんじゃねぇよ!」
「はっはっは可愛い奴め」
「棒読みがすげぇ怖い!目ぇ笑ってねぇし!」

懲りずに身を起こそうとして布団に突っ伏し、また笑われた。殴るような勢いで頭を乱暴に押さえ付けられたが、「いいから寝てろ」と降った声はくすぐったくなるほど優しくて、蓬莱寺は逆らう事もできなくなる。
 白昼の寝床は平穏そのもので、外はのどかな晴天で、時々聞こえる物音も既に馴染んだ人のもので、あれは夢だったのではないかと天井を見ながら考える。しかし体を苛む疼痛は確かに現実のもので、記憶の中の闇に佇む姿は鮮烈で、たとえようもなく激した精神はまだ心臓の近くに残っていた。

 次に会った時は、必ず決着をつけよう。お前の誇る力なんて本当は小さくて弱いものなんだと、必ず伝えよう。そんな誓いを勝手に立てて、蓬莱寺は怪我が治るや否や夜の森に飛び出した。
 夕暮れに落ち着かなくなる弟子の様子に気付いてはいたが、男は何も言わなかった。意気消沈して夜明けに帰る姿を見ても、以前は右から左だった氣や鬼の話をやけに熱心に聞くようになっても、時折ぼんやりと物思いに耽る横顔を見ても、やがて真夜中の散歩を控えるようになっても、何も言わなかった。
 誓いはいつか果たされると確信していたから。