それは月夜だった。
 眠れないのはいつもの事だが、ふと外を歩いてみようなどと思ったのは珍しい事だ。窓から見える月はまぶしいのに静謐で、どこか穏やかに感じられた。満月なのに、うるさくない。
 ふうと紫煙を吹きかければ、我関せずの風情で月はゆったりと雲を脱いだ。さくりと、草が足元で鳴る。虫の声はさわがしいのに、今宵は不思議と音さえも静かだった。
 墓地まであと数歩の場所で、長身の影を見つけた。彼もこちらに気付き、ふわりと視線をさまよわせる。影に相応しく、境界を行き来するような、あやうげな視線だった。知らず頬が緩む。
 長身の影は影のまま、長い腕をゆるりと上げて、細い指で月を指した。

「綺麗だね」
「何が」
「月が、綺麗ですね」
「漱石かよ」
「知ってたんだ」
「意外か?」
「君が本を読むなんて思ってなかった」
「どっかで聞きかじっただけだ」
「あれ、後世の創作だったらしいけどね」

 そう言って笑った彼が、昼間の彼と同じ人間なのだと、皆守はようやく認識した。取手は上げていた指を下ろして、「愛の告白じゃないから、安心してくれ」と薄く笑った。皆守はうまく笑えずに、無為に煙を吐き出す。
 月を見上げていた取手が、ゆるりと視線を動かして皆守を見た。

「君は知ってたかい?」
「さあな」
「僕は知らなかったよ」
「ほお」
「虫が鳴いてる」
「うん」
「あれも、綺麗なんだね」

 そうか彼は知っているのか。漠然とした不安のような、嫉妬のような、憧憬のような、そんな気分になった。月が綺麗だとか、虫の声が綺麗だとか、そういうものを、皆守はまだ知らない。あるいは、もう忘れてしまった。
 闇に囚われて、激痛と苦悶に襲われても、取手は月を綺麗だと言う。吸った煙を吐き出すのは諦めて、皆守は曖昧な色を肺に留めた。












 それは雨の夜だった。
 目を閉じると雨音が耳について、かといって目を開けたまま眠るのも難しい。出歩く気分ではなかったが、部屋にいると女の髪の毛が降ってくる幻が見えるので外に出た。
 ライターを擦ってから傘を忘れた事に気付いたが、取りに戻るのも億劫で、肩が濡れるのを不快に思いながらその場所に向かう。不幸中の幸いか、辛うじて火は点いた。
 ざらざらと低く呟くような雨音が耳障りだ。耳を塞いでうずくまろうとしたら、声がした。

「君も散歩かい?」
「ああ、お前もか」
「傘は差さないのかい?」
「忘れたんだ」
「じゃあ、入れてあげるよ」
「いらん」
「それは、上手なやり方じゃないと思うよ」
「そうか?」

 青い傘の下で、取手がうすく微笑んでいた。それでなくとも白い頬が、死人のように青ざめて見える。いっそこの場所には相応しいほどだ。
 雨の降る夜半過ぎ、青白い影を美しいと感じた自分が、どこかおかしいと皆守は分かっている。

「傘は、あった方がいい」
「そうか、そうかもな」
「濡れると寒いだろう?」
「風邪を引くような季節じゃない」
「それに、惨めな気持ちになる」
「自分が惨めじゃないとでも思ってるのか?」

 意地の悪い質問に、取手はやはりうすく笑った。途方に暮れて泣き出す寸前のように微笑んで、ゆっくりと傘を下ろし、持ち手を上にして地面に転がした。どうしてきみは、とかすれた声で言いかけて、唇を噛み締める。空を見上げて、目を閉じて、「そんな事を言わないでくれ」と、小さな声でささやいた。
 悲しいのだと、苦しいのだと、全身で叫んでいるようだった。皆守にも分かるほど明確に、それは痛みと嘆きを伝えるふるまいだった。












 それは熱帯夜だった。
 夏が去ったかと思えば戻ってきて、また去ってゆく。秋の入口ではよくある事だ。夏が名残を惜しんでいるとしたら、迷惑以外の何物でもない。少なくとも皆守は、とっとと去りやがれ夏と強く思っている。
 寝ていても起きていても立っていても座っていても、温度からは逃れられない。温暖化とか人間とか世界とか、または皆守はよく知らないが一神教で信じられているような存在とか、漠然としたものをぼんやりと呪いながら部屋を出た。
 今夜の取手は、さすがにいつもより薄着だった。

「暑いね」
「脱いでもいいか」
「いいけど蚊に刺されるよ」
「なんでお前は刺されないんだ」
「なんでだろうね?」
「よっぽどまずいのか」
「失礼な」
「味見してやるよ」
「真顔で冗談を言わないでくれ、ちょっと怖い」
「冗談だ」
「うん、分かってる」
「本気にしたか?」

 取手でもイラっとくる事があるのだと、この夜に皆守は初めて知った。大振りの平手はそれでもそこそこの速度で皆守の側頭部にぶつかった。皆守には避けられる速度だったが、避けようとは思わなかった。

「君は、なんていうか、めんどくさい人だね」
「そうか、初めて言われた」
「性格を指摘できるほど近しい友達がいなかったからじゃないかな?」
「お前は意外と毒舌なんだな」
「僕も、初めて言われたよそんな事」
「友達がいなかったからだろ」

 言いながら、皆守は不思議な気分になった。親しい友人というものは、記憶のどこを探しても存在しない。軽口を叩いたり、会話の途中でチョップされたり、そんな記憶もない。今夜が初めてだ。
 もしも彼が友人ならば、もしかしたら自分は想像していたよりも悲劇的な終焉を迎えるかも知れない。そんな事を考えた。友人が救われるのは嬉しい事だが、それは置いていかれるという事でもある。きっとそれは寂しいに違いない。想像しただけでこんなにも切なくなるのだから、いざ直面したら泣いてしまうかも知れない。

 取手がちょっと気味悪そうに控えめな声を出した。

「あの、なんで泣きそうになってるんだい?」
「色々想像したら泣きたくなった」
「ああ、そうなんだ」
「お前とは友達にならないでおこうと思う」
「え?」
「死ぬ時に寂しくならないように」

 なんともいえない顔をして、取手が口を閉じた。その横顔をぼんやりとした目で見ていた皆守は、同じ目で空に視線を移した。まだ夜は明けないが、ほどなくして朝が来る。その空を、ただ呆然と見上げた。
 何を思ってか、少しだけ心配そうに取手が名を呼ぶ。散漫とした気持ちのまま、皆守は彼に視線を戻す。

「あ、ええと、ちょっと涼しくなってきたね」
「そうか?」
「もうすぐ秋だから」
「ああ、そうか」

 伝えたいのだろうとは、皆守にも分かる。しかし伝わらないのだと、取手には分からないようだ。
 世界は綺麗だ。彼はそう感じている。それを共有したいと考えている。それは、人を愛せるという事だ。月も虫も雨も悲しみも熱帯夜も、彼は拒絶しない。皆守は、傘すら受け入れられない。

 彼は救われるべきだと、皆守は汗に濡れて思う。月や虫の声が綺麗だと言って笑い、悲しいと言って泣く、彼は誰よりも先に一刻も早く、救われるべきだ。
 そして、それは真実となるだろう。彼は間違いなく救われる。救われる理由がある。

 皆守には分からないが、彼の目に映る月が、今夜も綺麗だといい。