夕食を終えて風呂にも入り、さて寝るかと皆守がベッドに突っ伏した瞬間、隣室から葉佩の声が聞こえてきた。

「うわびっくりしたぁ!」

本気で驚いているが、声はどこか嬉しそうな色を含んでいる。何事かと皆守は思わず耳を澄ました。

「なんでいるっつーかどっから入ったんだよお前」

誰かに話しかけているようなのだが、相手の声は聞こえない。しかも会話の内容から察するに、どうやらこの《學園》にとっては招かれざる客らしい。いつもの亀急便への対応ではなく、親しい友人に話すような、楽しむような声だ。

「見つかったらうるせーぞ、早く帰れ」

どこか甘やかに、優しげな声がささやく。そんな声で誰と話しているのか。皆守の胸に不快な黒煙が広がる。
 葉佩という男は、誰にも心を許していないのだと思っていた。気安い口調で、軽薄な言動で、虚無だけが満ちた心を隠しているのだと、皆守は彼をそのように定義していた。それは多分に希望的観測で、しかし皆守にとっては意味のある幻だった。自分だけが孤独に病んでいるのではない。自分だけが弱いのではない。そう考えて安心する為に、葉佩が見せるその幻は皆守にとって必要なものだった。

「ああ、外は寒いもんな」

じわりと胸に染み入るような、あたたかい声だった。皆守はその時、寮の壁を厚くするよう阿門に嘆願しようと心に決めた。だが訴えるのは明日にして、差し当たり現状をやり過ごす手段として布団を頭まで引き上げた。そうして耳を塞いでしまえば、この声は聞こえなくなる。聞こえなければ、こんな気分にならなくて済む。

「どうするお前、ここにいる?」

聞きたくないのに、耳は音を丁寧に拾い上げて言葉に変換する。無意識に噛み締めていた唇を、ゆっくりとほどく。知らず笑みの形に歪んだ唇が、ひび割れて小さく痛んだ。舌で滲んだ血をすくい取り、唾液と混ぜて嚥下する。
 こんな寒い夜に、凍えながら血を流している人のすぐ隣で、葉佩はそんな事も知らず嬉しそうに誰かと話している。優しい声で、優しい言葉をささやいている。酷い裏切りだ。彼は孤独ではなかったのだ。闇と同化しなければ生きてゆけぬほど、闇に怯えていたのではないのか。

「つっても俺も、もうすぐ行かなきゃなんだけど」

 今度こそ、皆守は両手で耳を塞いだ。
 彼は行くのだろう。その足で、どこまでも。隣人の懊悩など気にも留めず、輝かしい戦歴を残して誇らしく、憐れな心は押し隠したまま。その日を夢想して、皆守はいつも泣きたくなる。その日にきっと自分は存在しないのだという確信に、泣きそうになるほど安堵する。

「じゃあ行ってくるね。帰ってもいいけど、いてくれたら嬉しいな」

 窓の開く音がして、次に少し間が空いて着地の音。靴底が地面を掴み、確かな足取りで葉佩が《墓地》へと向かう。一切の迷いもなく、ためらいもなく、ただ真実を求めて。
 遠ざかる足音は、実際のところ常人では感知できないほど無音に近いものだった。しかし皆守の耳はそれを聞き、正確に情報を作り上げる。硬い爪先が小石を蹴ったのも、落ち葉を踏んだのも、ぬかるんだ土を踏んだのがわざとだったのも、鉄が触れ合って音を立てたのも、彼が高揚して軽く息を吐いたのも、皆守は知り得た。そして、そんな自分の能力を憎んだ。












 朝に程近い夜半すぎ、皆守は土を踏む音で目を覚ました。嫌な夢を見ていたような気がするが、いつものように思い出せない。胸の辺りで漂う不快感はもうどうしようもないと分かっているので、そこに紫煙を注入して純黒を濁す。
 ひそめた足音が窓の下までやって来て、様子を窺うように暫し止まる。やがて聞こえたきたのは、軽やかに壁を登るかすかな軋み。凍てついて静まり返った空間に、疲労と満足の息遣いが染み込んでゆく。
 皆守が身を起こして、しかもこの寒い中、あろう事か毛布から抜け出したのは、自分でも説明の難しい衝動からだった。

「あ、いてくれたんだ」

窓を開く音と同時に、葉佩の嬉しそうな声が聞こえた。眠っていたら、きっと聞こえなかっただろう。どうして目覚めてしまったのか。悔やんでも、もう遅い。皆守は目覚めて、聞いてしまった。
 冷えきった部屋よりも更に冷たい廊下に出て、数秒も必要とせずに葉佩の部屋の前に立つ。一つ息を吸い、吐き出してから、ノックもせずにドアを蹴り開けた。

 皆守の接近にはまったく気づいていなかった葉佩が、突如として瓦解したドアに驚愕の目を向けた。破壊したドアを踏み越えて、やけに静かに入室してきた皆守を、少しずつ後ずさりながら注意深く窺う。おそらくは無意識だろう、ピタリと皆守に向いていた銃口を下げて、笑みのような表情を浮かべようと努力している。目を細め、歯を見せる。獣の威嚇とよく似たその行為が、どうして友好的な動作として世間一般に認知されているのだろう。葉佩が窓ガラスに背中をぶつけ、震える声で皆守を呼んだ。

「み、皆守くん?」
「おはよう葉佩」
「お、おう、おはよう」
「葉佩」
「は、はいっ!」
「うるさい、時間を考えろ」
「・・・ごめんなさい」

疑問符を撒き散らしながらも言葉を発する葉佩を黙らせて、皆守はゆっくりと部屋を見回した。まず目に入ったのは、大量の黒板消しと石。これはもう見慣れた光景だ。散乱した銃器も、その他の謎の物体も、見慣れない物は見当たらない。ましてや、葉佩が心を向けるような人物など。

「おい葉佩」
「は、はい、なんですか?」
「誰と話してた?」
「へ?」
「誤魔化すな。話してただろう」
「あ、き、聞こえてた?」

うわあ恥ずかしい、などと口中で呟きつつ、これまた芸術的に散らかった机に手を伸ばす。もしやあの全てが独り言とか、想像上の友達とか、そんな事は、ないとは言いきれない。皆守が切なくなるような仮説を胸中でもてあそんでいると、葉佩は机の上にあった薄茶色の細い物体を手の平に乗せて差し出した。

「こいつ」
「?」

正体を判じかねて、皆守がそれに顔を近づける。枯枝のような色と形状だが、何かが違う。じっとそれを注視していると、その物体が僅かに振動した。思わず声を上げて後ずさると、葉佩がさも愉快そうに笑う。

「カマキリ」
「・・・ああカマキリだな」
「こんな冬に珍しいよな」
「まあそうだな、普通は夏だな」
「どっから入ったんだろ」
「え、お前、これに話しかけてたのか」
「この寒空の下に放り出すのも可哀相でさぁ」
「や、優しかったんだなお前」
「だって可愛いだろ、こいつ」
「・・・」

 俺より可哀相な奴がいた。皆守は安心して自室に帰ってベッドに潜り込んだ。