世界が深夜になる少し前、旧校舎を引き揚げた魔人達が各々帰路に着こうと散開する。駅に向かう者達に手を振りながら、劉がふと思い出したように緋勇を呼んだ。
「今夜じいちゃんがおらへんねん。アニキんち泊めてぇな」
「構わんぞ」
「おおきに、やっぱアニキは優しーなー」
「おい、なんでジジイがいねぇと泊まるの決定なんだよ」
「じいちゃんの結界って冷暖房に除湿加湿もできるんよ」
「それはさすがに嘘だろ」
「うん、ちょっと嘘ついた」
「ちょっと?」
「快適空間なのはほんまやで」
「ふーん」
道心の結界なくしては野宿もつらかろう。そう思い、緋勇は快く承諾を返した。聞けばあの不良老人は、上野で浮浪者仲間と宴会の約束があるとかで劉を置いて出かけてしまったらしい。老獪でありながらも人懐っこく、更にはその能力を以って雨風をも遮る道心は、仲間内でも人気者のようだ。
予想どおり「俺も行く」と言い出した蓬莱寺に頷き、「あまり羽目を外すなよ」という醍醐の提言を背中で聞きながら、3人が連れたって帰路を踏む。コンビニで仕入れた食料に酒類が紛れ込んでいたのは、予定調和というものだ。物事を予め定めておく大いなる存在など、その場の誰も信じてはいなかったのだが。
部屋に着くなり風呂の順番を決定する為の第一回(かどうかは定かではない)腕相撲大会を開こうと蓬莱寺が提案し、しかし緋勇と蓬莱寺の対戦になって台に使用したテーブルが破壊される危険性が発生し、緋勇の「もういいからお前ら先に入れ」という言葉に従った結果、劉と蓬莱寺が一緒に風呂に入る事となった。「狭い」「邪魔」「うぜぇ」「何すんねんこのドアホ」などの微笑ましくもなごやかな罵声が近所中に響き渡り、苦情に対応せねばならない明日を思った緋勇の機嫌が急降下したのは、表記するまでもないだろう。
まだ何事か言い合いながら出てきた二人に、冷厳なる眼差しで「騒いだら叩き出す」と宣言して風呂に向かった。
緋勇が風呂から上がるのを待ちながら、そこはかとなく疲れきった劉が何やら期待するような表情で蓬莱寺の耳に囁く。必要以上に接近した劉に、蓬莱寺があからさまに身を引いた。
「アニキって酔うとどーなんやろね」
「さあ、なんかあんまり変わんなそーだよな」
「やっぱ強いんかな」
「あれで弱かったらおもしれーけど」
まだ水気の抜けない髪にタオルを当てながら、緋勇がもう始まっていた宴に加わった。劉の手の中の湯飲みは、コークハイとおぼしきどす黒い液体で満たされていた。蓬莱寺はまだビール、と思ったら、ジンの代わりに焼酎を注いだ「ドッグノーズもどき」という珍妙な代物だったらしい。
緋勇が差し出されたビールを一気に呷り、息をつく。早くも出来上がりつつあった劉が、大袈裟に拍手喝采した。
購入した飲食物を消費し尽くしても、緋勇は顔色を変えなかった。なんだつまんねぇの、と蓬莱寺が胸中で落胆していた事など知る由もなく、何故か膝に懐いてくる劉を見下ろす。しきりに腹を触ってくる劉の米神に拳を当てながら、グラスに残っていた焼酎の日本酒割りを呷った。好きこのんでそんな物を飲んでいる訳ではない。気付いたらこうなっていたのだ。緋勇は、芋焼酎と合成清酒を混ぜるととんでもなく不味いのだと、この夜に初めて知った。そんな事実は知りたくなかったのだが。
この世には、知らない方が幸せに生きられる事もある。不意に遠くを見詰めた緋勇を、蓬莱寺の声が引き戻した。緋勇の膝で幸せそうにくつろいでいる劉を指差して「それ重くねぇ?」と、さも面白くなさそうに言う。それを聞いた劉が、緋勇の腰を抱き締めたまま顔を上げた。
「わいは軽いで!蝶のように舞い!クラゲのように刺すんや!」
「うわ戦いたくねー」
「まあ重くはないな」
「って言いながらぐりぐりするのやめてぇな」
「そんなもんで済んでる奇跡に泣いて感謝しろ」
と言って、蓬莱寺がひょいと手を伸ばした。緋勇の肩にその手を置いて、何かを待つように動きを止める。劉が疑問符を下から投げて寄越したが、届いた様子もない。同じように疑問符を浮かべる緋勇を見て、肩に置いた手を僅かに揺らした。瞬間、緋勇がその手を取って捻り上げた。蓬莱寺が喉から呻き声を搾り出し、取り戻した腕を庇いつつ床を叩く。
眼前で突如として始まった喜劇のような悲劇に、劉が口を閉じるのも忘れて緋勇を見上げた。たった今その手で相棒の腕を捻り上げた緋勇は、何事もなかったように無表情だ。見上げる劉を、「何かあったのか?」とでも言いたそうに見下ろしている。
「ええと、アニキ?」
「どうした」
「あー、京一はん、なんかした?」
「京一がどうした」
「・・・」
無意識に、間接が砕ける寸前まで相棒の腕を捻る男。劉は心の中で、緋勇をそのように定義しなおした。その次に、上体を緋勇の膝に預けている我が身に思い至った。もしかしてこれは、龍のあぎとに自ら頭を突っ込むのと同じ行為なのでは。一刻も早くこの場を離れたい、という願望が湧き上がって心臓を叩き、僅かでも身じろげば開かれたあぎとが瞬時に閉じられるかも知れない、という恐怖が身を凍らせた。
膝の上でくつろいでいた劉は、固まったように全ての動きを止めている。緋勇が怪訝に思って手を伸ばすと、小さく声を上げて身をすくませた。構わずその髪に手を置いて撫でてみると、緊張していた体がゆっくりと弛緩してゆくのを感じた。気紛れに髪をもてあそぶ手に、劉がくすぐったそうに目を細める。
床に伏して痛みに耐えていた蓬莱寺が、身を起こして緋勇に詰め寄った。
「なんでだひーちゃん!」
「何がだ」
「なんで俺だと腕ひしぎなんだ!」
「いや、あまりに隙だらけだったから」
「劉だって隙だらけじゃねぇか!」
「・・・」
問い詰められて、緋勇がまだ膝に乗っている劉を見下ろす。劉も緋勇を見上げていた。その瞳には絶対の信頼が宿っている、ように緋勇には見える。それが錯覚だったらなどと、緋勇は決して考えない。それを自分が裏切るなどと、可能性すら考えない。有り得ぬ事だと、ただ無心に信じている。そんな相手の隙を突く必要など、どこを探しても見当たらない。そう言うと、蓬莱寺は諦めたように溜息をついて脱力した。恨めしげに小声で囁く。
「醍醐もけっこー肩とか叩いてるよな」
「そうだったか?」
「小蒔なんか背中バシバシ叩いてるし」
「さすがは小蒔はん、勇者やな」
「なのに反撃しねぇよな」
「反撃というのは攻撃に対する行動だ。あれは攻撃じゃない」
「俺だって攻撃してねぇ」
拗ねたような口調で言われ、緋勇が眉を寄せた。言葉を探して虚空を見詰め、しかし発見できずに今度は劉を見る。
困惑した目に見下ろされた劉は、漠然とではあるが、緋勇が望むであろう言葉を探し当てていた。それを提示するのは容易い。しかし、劉は口を噤んだ。大好きな義兄に対する独占欲もあるのだが、それ以上に恥ずかしかった。何がって、それに気付きもしないでこんな論争を繰り広げる二人の存在が。
緋勇の眼差しに応える代わりに、劉は硬い大腿に頬を寄せて目を閉じた。だが塞げぬ耳が、拾いたくもない音を拾って正確に言葉へと変換する。
「なあ、俺だけだろ?」
「そうだったか?」
「なんで俺だけなんだよ」
「ああ、お前だけだな」
「折れたらどう責任とってくれんだよ」
「俺が一生お前を守ろう」
「守られるとか、ぜってーやだ」
「だったら折られなければいい」
劉はその時、優しく髪を撫でる手がとても寂しかった。
いつもあの視線の先にあって、あの手が触れたいと欲する彼を、羨ましいとは思わなかったが。
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