東の空に赤い月が昇り始めている。限りなく真円に近いその月は、人の心に影響を与えるらしい。緋勇は、自分の中心で鳴り続ける音に耳を澄ました。獣の唸り声のように低く、遠吠えのように透き通った音だ。月が満ちると大きくなるその音は、緋勇にとって自分の弱さそのものだった。長過ぎる道程を見詰めて吐き出される溜息であり、背負った荷物の重さに零れる泣き言だった。ずっと、そう思っていた。
夕映えに沈んだ校舎が無表情に見下ろしてくる。その中には、教員としての作業(だと思う、多分)を続ける人がいる。職員室から漏れる光は頼りなく、柔らかい。それこそが、緋勇の守るべきものだ。
あの男は守人だ。確信は無いが、予感はあった。彼は自分に害を為すものではない。あの男から感じられるのは、清廉な決意と覚悟。彼の口が繰り返す警告から断絶は感じられなかった。大切な場所なのだろう。汚す事だけはしたくない。そう思った心を、緋勇は奥底にそっと仕舞う。口に出す必要は無い。
地下への扉の前で緋勇は立ち止まった。しつこいぐらいに繰り返された友人の言葉を思い出す。彼は、緋勇の身を案じている。一人で闇に潜り、一人で異形を殺戮する緋勇のその行為を、蓬莱寺は怒りすら見せて止めようとした。「俺も誘えよ」などと軽く投げられたそれが、彼の心からの願いだという事を、緋勇は知ってしまった。真っ直ぐな眼差しに見詰められて心臓が立てた音は、溜息でも、泣き言でもなかった。それなのに、思い出すだけで何故こんなにも苦しくなるのだろう。些細な言葉が、こんなにも自分を縛るのは何故なのか。
未だ低い月を見詰めながら、緋勇は進む事を躊躇い続ける足を踏み出した。扉に背を向け、歩き出した。何処か釈然としない感情を抱えて、明かりの灯る校舎を横切る。校門に差し掛かり、其処に座る人物に気付いた。
「よお、遅かったな」
「・・・何をしている」
「別に」
蓬莱寺は月を見ていた。数メートル離れた場所で立ち止まった緋勇には、視線を向けようともしない。
「お前は?」
「・・・旧校舎に下りようとした」
「やっぱりな」
唇の端を上げて、蓬莱寺は音を立てて地面に下りた。そのまま振り向きもせずに歩き出す。緋勇はその背中を見詰めている。ゆったりとした足取りで遠ざかる友人を、為す術もなくただ見ていた。ふいに湧き上がった感情の名を、緋勇はまだ知らない。どうすれば良いのかも分からない。ぼんやりと突っ立ったまま、立ち去る背中が遠のいて行くのを見ている。それを引き止めたがる自分の腕を制し、固く拳を握った。引き止めて如何しようというのか。欲する心を浅ましいと感じる緋勇は、望む事にすら罪悪感を覚えていた。それでも願う心を、鋼の精神で押さえつける。
緋勇がその背中から視線を引き剥がした瞬間、蓬莱寺が振り向いた。俯いたまま突っ立っている緋勇に向かって、苛立ったように言葉を投げる。
「俺は一人で行くなって言っただけだぜ?」
唐突に投げかけられた言葉の意味を計りかね、緋勇が目で疑問を返す。それを受けて、蓬莱寺は天を仰いで嘆息した。伝わらない言葉にも、大分慣れた。緋勇は察しが悪い。そんな事は分かっている。根気強く繰り返す事が緋勇の理解を得る最良の方法だという事も、既に蓬莱寺は悟っていた。面倒臭ぇな、などとぼやきつつ、大股で緋勇が立つ場所へと戻る。不機嫌そうなその動作に、緋勇が思わず身構えた。
真正面から緋勇を見詰めたまま、蓬莱寺は数秒で間合いを埋めた。蓬莱寺の意図が読めない緋勇は戸惑っているのだが、傍から見れば睨み合っているようにしか見えない。
「下りようとした?」
「そうだ」
「でも下りなかった」
「そうだ」
先程緋勇が発した言葉を繰り返し、蓬莱寺が眦をきつくする。戦闘態勢のように左肩を前に出し、緋勇の胸にぶつかる寸前まで寄せた。剣で闘う者の間合いではない。息がかかるほど近付いた緋勇の顔に困惑が浮かんだ。表情筋を使ったものではなく、瞳が僅かにゆらめいいただけだが、蓬莱寺にはそれで充分だった。
「何であんなとこ行きたがんだよ」
「・・・あそこには、鬼が居る」
「一匹も残しちゃおけねぇって?」
「違う」
今度こそ、緋勇の眉が寄せられた。伝えたい思いをどうやって言葉にしようかと、必死で考えている。そして緋勇は思い当たった。自分の目的が殺戮であった事に。ただ力を解放したかった。何かを壊したかった。それが許される場所に行きたかった。一人で行こうとしたのも、そんな自分を見られたくなかったからだ。
思い当たり、緋勇はそれを言葉にする事をやめた。目の前の男に告げるには、あまりに惨めな感情だった。無様な自分を知られたくない。間近で心を覗き込む瞳が、酷く煩わしかった。
沈黙を続ける緋勇から、蓬莱寺は諦めたように身を離した。ちらりと月に目を流し、同じように緋勇を見る。
「行こうぜ。付き合ってやるから」
「何処にだ」
「きゅーこーしゃ!行きたいんじゃねぇのかよ!」
「ああ・・・」
「あーじゃねぇよ」
「この天然野郎」という言葉は、辛うじて飲み込んだ。多分緋勇には通じないだろう。一向に動こうとしない緋勇を放置して、蓬莱寺はその場所に向かって歩き出した。しかし、後に続く筈の足音が聞こえない。訝しんで振り返れば、無表情で薄闇に立つ緋勇が居た。大声で促しても影は微動だにしない。
「行かねぇのかよ」
「・・・鍛錬が目的ではない」
「あ?」
「お前が行くなら、俺は行かない」
それを聞いた蓬莱寺が表情を変えた。驚き、一瞬だけ痛みを噛み殺すように歯を食いしばり、諦めたように嘆息する。
ああ、また傷付けた、と緋勇は足りなった言葉を悔やむ。いつだってそうだ。「そうかよ」とだけ言って、蓬莱寺が踵を返した。優しい彼は、それでも緋勇を一度だけ振り返った。そんな表情をさせたかったんじゃない。
いつだって、そうだ。
肩越しに見えた緋勇の姿が、闇に消え入るように揺らめいた。蓬莱寺は、引き返したがる足を無理矢理に進める。緋勇が自分を拒絶したのではない事は分かっている。それでも、その理由はさっぱり分からない。腹の辺りで渦巻く不快な感情をどうする事も出来ず、舌を打つ。闇に佇む緋勇の姿は、今夜も蓬莱寺の眠りを阻害するだろう。目を閉じる度に浮かんで来るその姿を、振り払えた例はなかった。誰かを思って眠れぬ夜が来るなどと、以前は想像すらしなかった。
黒い立ち姿だけではない。ふとした瞬間に触れた皮膚や髪、鉱物を思わせる瞳、些細な言葉、その全てが蓬莱寺の眠りを妨げた。健康に悪い事この上ない。
蓬莱寺は、自分の汗で湿った布団を抜け出した。枕元に置いてあった愛刀を握り、音を立てずに留意しながらそっと家を出る。夜気を胸一杯に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。三回それを繰り返し、蓬莱寺は道を蹴った。自分を煩わせる男の居る場所が手に取るように分かる。それが嬉しいなんて、末期だな。浮かべたのは自嘲だったが、腹の底では満面の笑みを浮かべる自分がいる。
予想に違わず、緋勇はその場所に居た。白くなった月光に照らされて佇むその姿が、蓬莱寺の心臓を強く叩く。黒い服に染みを作っている赤は、彼自身の血ではない。心成しか疲弊した緋勇が、近付く気配に気付いて顔を上げた。
「・・・何故戻って来た」
「うるせぇ」
明らかに気まずそうな表情を浮かべた緋勇が、近付く蓬莱寺を睨み付ける。戦闘の直後で気が立っているのだろう。清冽な氣が、向かい風のように蓬莱寺の皮膚を打つ。それを真正面から受け止め、緋勇に向かって足を進めた。
「近寄るな」
少しだけ強い語調で、緋勇が蓬莱寺の歩みを制した。しかし蓬莱寺には、その言葉に従う理由は無い。二人は対等だ。俺達は友人だ。心でそう言いながら、蓬莱寺は歩を進めた。
緋勇が僅かに身じろいだ。距離を測るように蓬莱寺を見詰め、足を音も無く移動させる。右肩を落とし、腰を深く落とす。防戦の時の立ち方だ。正面からその立ち姿を見たのは初めてだった。思ったが気にせず、蓬莱寺は間合いを詰める。無造作にポケットに片手を突っ込んだまま、右手の木刀に力を込めた。緋勇の表情が歪んだ。
「逃げんなよ」
思わず笑ってしまった。あの緋勇が、まるで自分を恐れているようだ。過ぎった言葉が、更に笑みを深くさせる。自分の中に存在していた感情に気付き、蓬莱寺は立ち止まった。
緋勇の行動に影響を与える事が、酷く嬉しい。約束ですらない言葉に縛られて、緋勇は今罪悪感を覚えている。それが、何故こんなにも嬉しいのか。苦しませて喜ぶ、などという悪趣味は持っていなかった筈だが、歪んだ緋勇の表情は、蓬莱寺の心を沸き立たせた。同時に、自分への嫌悪が胃を圧迫する。優しくしたいのに。笑っていて欲しいのに。
「鍛錬が目的ではない」
「それさっき聞いた」
「・・・壊したかっただけだ」
「そっか」
独白のような緋勇の言葉を聞きながら、蓬莱寺は心の隅で安堵した。ほらやっぱり、拒絶ではなかった。
八つ当たりなど、緋勇が善しとしないのは容易に想像できる。その衝動すら自分に向けて欲しい、などと思っている自分に気付き、蓬莱寺は白旗を上げた。どうしようもなく、この男の気を引きたい。緋勇が見詰める全てのものに嫉妬している。認めてしまえば、実に幼稚な独占欲だった。
蓬莱寺の纏う氣が変わった事を察知して、緋勇が窺うような視線を向ける。
「まあ、八つ当たりぐらいするよな。お前だって」
「・・・・・・」
「隠すコトねーだろ」
軽い口調で言いながら、大股で間合いを詰める。緋勇は動かない。
「そーいやお前が本気でヤってるとこ、見たことねーな」
蓬莱寺が自分の間合いで足を止めた。剣を使う蓬莱寺と、拳を使う緋勇では、攻撃の間合いが大きく異なる。特に緋勇は攻防一体を旨としている。自分の間合いを取る事を、何より重要な戦術としている。
緋勇の氣が和らいだ気配を確認して、蓬莱寺は一歩踏み出した。
一つ階段を下りるたびに、緋勇は自分が昂ぶってゆくのを感じていた。破壊と殺戮に反応して、血液が激しく体を廻る。それを快感と捉えている自分を意識して、緋勇は奥歯を噛み締めた。
闘う事の本質は破壊する事だ。「守りたい」などという言葉は、破壊衝動の言い訳だ。
体ばかりが昂ぶる。熱く激しく氣を放つ度に、精神が深く沈んで行くのを感じた。左肩の後ろに感じた激痛が、更に凶暴な気持ちを駆り立てる。意識すら必要とせず、緋勇は自分の傷を癒す。この体は、一人で闘うように作られている。仲間など必要としていない。その事実が、まるで絶望のように横たわる。
奇妙な断末魔を残して異形が地に倒れ臥す。その返り血を、緋勇は敢えて避けなかった。壊れるまで進むだけだ。投げ遣りにそう思う。自身など如何なっても良い。この身は器でしかない。自分ではない何かに満たされ、やがては精神など消滅する。それで良いと思っていた。
浮かんだ映像が、光に満ちてさえいなければ。
明るい色の髪が、日の光に照らされて目を刺す。
気安く触れてくる体温が、熱を含んで肌を焼く。
灯火のように柔らかく、星のように清廉な光が、心臓を強く叩く。
彼の住むこの場所を、守りたいと産まれて初めて思った。
巨大な鬼が咆哮を上げて息絶えた。また一つ、この手の罪が増えた。空間が静寂に満たされる。聞こえるのは自分の息遣いだけだ。淀んだ空気を深く吸い込み、吐き出す。浴びた返り血が服の色と同化し、落ちる事の無い染みになっている。クリーニングに出すのも憚られ、以前は何度か自分で洗ってみたが、結局染み付いた汚れは落ちなかった。また新調しなくては。涼やかな守銭奴の笑顔を思い出し、緋勇は今夜二度目の後悔に沈んだ。真神の制服を、彼は何処から仕入れるのだろう。
重い足を引き摺って、緋勇は数時間ぶりに空を仰いだ。月が皓々と輝いている。太陰と呼ばれるその存在は、緋勇の心をざわめかせた。切なげな遠吠えが耳を打つ。内側から聞こえるその音は、春以来緋勇の中で鳴り続けている。
不意に、幻ではない音が聞こえた。土を踏む大きなその音に顔を上げれば、得物を肩に担いだ蓬莱寺が立っていた。走って来たらしく、息が乱れている。しかしその表情は、やっと見つけたとでも言うように、喜びに溢れていた。
何の気負いもなく近付いて来る気配に、思わず拒絶を投げかけた。それでも蓬莱寺は止まらない。今は、誰にも会いたくなかった。脆弱な自分を曝け出すなど、容易く出来る事じゃない。記憶に苛まれて自己嫌悪に陥ったなどと、知られたら間違いなく嘲笑されるだろう。軽蔑されるかも知れない。
ゆっくりと歩み寄る蓬莱寺の足が止まった。ゆらり、と袱紗の先端を揺らす。乞うように、瞳が複雑な色を含んで緋勇を見詰める。その全てが、緩やかに行われた。
唐突に緋勇は気付いた。蓬莱寺の表情は、まるで泣き出す寸前のようだ。迷子が母を捜すように、蓬莱寺は何かを探している。もしかしたらそれは、緋勇の心かも知れない。
口を付いたのは、隠していた弱さだった。自分への怒りを、ただ外に向けて放ちたかった。少女一人守れない、愚かな自分から目を逸らしたかった。それを聞いた蓬莱寺が、予想に反して無邪気な笑みを浮かべた。緋勇が想像していた、嘲笑も軽蔑も無かった。母を見付けた幼子のように、ただ笑った。
蓬莱寺が緋勇の間合いに踏み入った。緋勇は動かない。戦闘態勢も既に解いている。棒立ちだ。無言で歩を進めつつ、蓬莱寺は緋勇の瞳を凝視する。その瞳から僅かな戸惑いを感じたが、蓬莱寺に止まる理由は無かった。緋勇は構えこそ解いていたが、それでも爪先はいつでも走り出せるように地を踏んでいる。
息が触れ合うほどの距離で、蓬莱寺が漸く足を止めた。武器を持っていない方の手を、ゆっくりと上げる。緋勇の目がその軌道を追う。目的を計りかねているのだろう。訝しむ視線がゆらゆらと彷徨った。害意が無い事を示そうと、蓬莱寺は口の端を上げた。俺はお前を傷付けない。眼差しに誓いを込めて、緋勇の瞳を真正面から見詰め返す。ほぼ同じ高さの頭を抱き寄せ、背中から肩に手を回した。ぱしっと音を立てて、その肩を叩く。二度、三度、そして、強く抱き締める。逆の肩に顎を乗せ、固く優しく緋勇を抱いた。
俺が許すよ。
声には出さず、無意味な言葉を胸中で囁く。俺はお前の味方だ。何があってもお前を信じてる。何度も、何度も無音で繰り返す。伝われば良いとは思うが、口にする気は無い。伝わらなくても良い。緋勇が知らなくても、蓬莱寺は決めている。今夜はそれにまた一つ新たなる誓いが増えた。
緋勇の手が蓬莱寺の背中に回った。襟首に指を引っ掛け、力任せに引き離される。詰まった襟元に首を圧迫され、蓬莱寺がくぐもった声を上げる。襟が解放されると同時に、勢い良く咳き込んだ。
「何しやがる!」
「俺に触らない方が良い」
「・・・一応訊くけど、何で?」
「お前まで汚れる」
無表情で投げ付けられた言葉が蓬莱寺の胸に落ちるまで、十秒ほどかかった。緋勇の服には血液らしき染みがある。地下で屠った異形のものだろう。既に固まって、黒い生地と判別が難しくなっている。気付いてはいたが、改めてそれを見詰める。緋勇自身の血ではない。それ以上の意味は読み取れなかった。蓬莱寺はもう一度緋勇の肩に手を置いた。
「じゃあ今度は一緒に行こうな」
「・・・すまん、本気で意味が分からない」
言葉通り、本気で困惑している緋勇に笑いかける。分からなくっても良い。気付かなくっても良い。
ただ月のように、此処に居るから。
西の空に白い月が沈み始めている。限りなく純白に近いその月は、人の心に影響を与えるらしい。緋勇は、自分の中心で鳴り出した音に耳を澄ました。梢を揺らす風のように優しく、雨音のように静かな音だ。その音は、緋勇が今まで聞いた事のないものだった。
もう一度月を見上げる。同じように蓬莱寺を見る。蓬莱寺は笑っていた。不意に緋勇は気付いた。
行く道は照らされていた。
あの日から、ずっと。
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