「いつか、あなたにもわかるわ」

 その言葉が真実だったと、皆守は漸く気付いた。理解してしまった。狂気のような、その想いを。

 葉佩は皆守と違って、自分に夢を見たりはしなかった。だから、救うなどとは決して言わない。かつては、確かにそうだった。それでもその根底に、浅ましい自己顕示欲が横たわっていたのも否めない。
 誰もが葉佩を、英雄を見るように見ていた。自分を救い上げてくれた、信念と野望に満ちた男。そんな視線を受けて、所詮は若輩者の葉佩は、いとも容易く勘違いしてしまった。ただ欲望のままに扉を開くというその行為が、期せずして誰かを救うのだと。それは無意識の罪悪感が作り出した、自分を正当化する手段だったのかも知れない。
 命を鍵として施錠された扉を開き、隠された部屋を暴く。人間に銃口を向け、引き金を絞る。それが罪悪であるという事実すら、葉佩は知らなかったのだろう。誰も、葉佩にそれを教えなかった。人としての意識が低い葉佩にそれを気付かせたのは、隣で微睡む級友の姿だった。
 冬が深まるにつれて、皆守はその視線の色を変えた。季節が冷たく閉じるように、その瞳は冷たくなった。花の香りで覆い隠した罪と、開かれてゆく扉。友人を演じる自分の姿と、間近に迫ったその時。皆守を取り巻く全てが、彼を苛んだ。不幸な事に、それに気付かぬほど葉佩は愚鈍ではなかった。

 而して、葉佩は夢を見た。
 彼を救うという、愚かで浅はかな夢を。












 薄く笑って、皆守が左手を上げる。

 一日を終えた後に、皆守はこうしてよく手の平を見せた。「じゃあな」と告げて背を向ける。珍しくもない、至って平凡な別れの挨拶だ。時にそれは朦朧とした意識の中で行われ、寝言のように聞こえた事もあっただろう。返す葉佩も、仕事を終えて疲れ果てた体で、同じように右手を上げた。その度に葉佩が一つの言葉を躊躇っていたのを、皆守は知らない。「おやすみ」に続く、祈りの言葉。戯れに、「いい夢見ろよ」などと言い放つ事もあった。痛烈な皮肉だったのかも知れない。そんな他愛ない(?)言葉の裏に、葉佩はいつも、もう一つの言葉を浮かべていた。隠された言葉を、皆守は今も知らない。

 葉佩が、無表情のまま目を見開いた。何事か声を出そうとして、発せられずに口を閉じ、また開ける。そんな動作を何度か繰り返し、最後に溢れたのは涙だった。縋るように手を伸ばし、皆守の名を呼ぶ。
 その瞬間、皆守は思い出した。

「いつか、あなたにもわかるわ」

傷付けばいい。忘れぬように。
微睡みの中でも、わたしを思い浮かべればいい。
思い出しては泣くといい。
壊れるほどに、泣けばいい。
悔やんで、悔やんで、悔やんで。
一生わたしを想えばいい。
彼の中に、わたしが根付けばいい。
いつか彼を愛する誰かが、わたしに嫉妬すればいい。
消えない傷を、貴方にあげる。

 欲望に塗れた薄汚い《宝探し屋》が、消えない傷を刻まれる様を想像する。滑稽なほど気分が昂揚した。隣に佇む黒衣の男が、悲しそうに目を伏せる。自分を憐れんでいるのだと悟り、皆守も同じように目を伏せた。
 葉佩が泣いている。愚かな自分を悔いている。そうだ、それは皆守の為に流された涙ではない。自分を憎んで上がった慟哭だ。矮小で臆病な男が、見出した免罪符の喪失に泣いているだけだ。悠久の時を繋いだ人々を、踏み躙って此処に立つ、自分の姿に恐怖したのだ。
 皆守は理解した。あの女が、呪いのように吐き出した言葉を。同時に、もう一つの祈りも。

「私で最後にして」

誰かの傷になるという、醜く甘美な誘惑に屈した。それを嘆き、願った言葉。
 眼前の死にではなく、皆守が瞠目した。阿門がそれに気付き、そっと皆守の肩を押す。まだ間に合う。お前だけでも。無音でそう語る瞳に、皆守がまるで裏切られたように顔を歪めた。やはり無言のまま否定の動作を見せた皆守に、砂礫が降り注ぐ。
 他人に与えられた意味だけで生きる脆弱な皆守にとって、義務とはさぞかし心地好いものなのだろう。思考も感情も委ねて微睡みに逃げた皆守を、阿門はずっと憐れんでいた。拠るものが無ければ、皆守は立ってもいられない。だが縋り付くその手は、阿門の僅かな自尊心を刺激した。誰かを救えるという幻を、永い時を経て疲れきった心は慈雨のように感じている。自我など疾うに消失したと思っていた阿門は、その事実に酷く動揺した。












 石の壁が崩れ始める。葉佩が、叫び疲れて膝を折った。
 赤い部屋で赤い魔人を打ち破った時、葉佩は一枚の写真を手に入れた。そしてつい先程、皆守が記憶を語った。その時から、ずっと葉佩に疑問が渦巻いている。
 《墓守》が隠し持つ物は、いずれも彼等の人間たる証だったように思う。大切な物。想う気持ち。自分の根拠。安らぎ。決意。その中で、皆守だけが傷なのは何故だろう。まるで、過ちを覆い隠すように封印されていた。思い当たり、葉佩がもう一度、砕けそうな足で立ち上がった。大声で、もう馴染んでしまった名前を呼ぶ。
 本気で、葉佩は救えると思っていた。自分にはその力があると、そう思っていた。こんなにも無力で幼い自分が、どうしてそんな勘違いをしたのか。悔しさに、また涙が溢れる。それを拭う事はせず、ただ泣きながら彼の名前を叫んだ。
 轟音に掻き消されたその声に、鈴のような音が混じった。葉佩が訝しんで顔を上げる。

 亡霊が何事か語るのを、呆然と見上げた。静止した崩壊の中、皆守が呆気に取られて口を開けたのが見える。邪魔をするな、と、この期に及んで葉佩は歯噛みした。あいつを救うのは俺だ。唇に流れた涙を飲み下し、葉佩が吠える。愚かに加えて狭量な自分を認識し、自己嫌悪に吐き気がする。
 視界が光に包まれた。嫌だ。こんな終わり方は、絶対に嫌だ。自分ではない誰かが彼を助けるなんて、もう耐えられない。上げた声は、誰にも届かず光に飲み込まれた。












 地上の風を受けて呆然と立ち竦む皆守に、葉佩が走り寄った。そのままの勢いで衝突し、思わずよろけた皆守ごと地面に転がる。葉佩がその腹に乗り上げて、皆守の襟を強く掴んだ。落ちてくる水滴が、痛いほど温かい。嗚咽に混じった罵倒が自分に向かっているのだと気付き、皆守が助けを求めるように阿門を見上げた。目が合った阿門が、無言で視線を逸らす。そのまま立ち去ろうとしたので、皆守が慌てて阿門の名を呼んだ。その瞬間、葉佩が皆守の胸に体重を掛けた。息苦しさに呻き、腹の上で喚く葉佩を退かそうと、その首に手刀を入れる。葉佩は一瞬だけ揺らいだが、しかし体勢を立て直して眼光を鋭くした。
 自分の行動が予想以上の効果を発揮していた事に、皆守は漸く気付いた。

 傷付けばいいと思った。痛みに泣けばいい。消えない傷を、死ぬまでその体に貼り付けていればいい。後悔と痛みで、いつか壊れてしまえばいい。だって、そうでもしないと、お前は俺を忘れるだろう?

 期待どおり、葉佩は深く傷付いたようだ。嗚咽のような唸り声のような音を発しながら、葉佩が皆守の顎を掴んで固定する。抵抗しようと上げた腕は、鋭く叩き落された。あの激戦の後でこれだけの余力を残していたとは。見開こうとした目蓋に、またしても温かい水が落ちてきた。咄嗟に目を閉じてしまったのは、どう考えても失敗だ。

 ああ、失敗だ。何もかも。
 きっとこの後、死んだ方がマシな目に遭う。
 手負いの獣の下で、皆守は自分の浅はかさを恨んだ。