滝音が聞こえてきて、葉佩はやっと喉が渇いているのだと自覚した。汗を含んだシャツが気持ち悪い。葉佩が休憩しようと言う前に、「あつい」と一言つぶやいて皆守が動かなくなった。そんな季節かと、葉佩が額の汗をぬぐおうとしてゴーグルをぬぐいつつ胸中で舌を打つ。
葉佩の相棒は、暑いと動かなくなる。かといって寒ければよく動くという訳でもなく、要するに快適な環境でないとやる気を失うという怠惰の見本のような男だった。
ゴーグルを首に掛けなおして皆守を見る。宣言どおりに動かなくなった彼は、長い脚を投げ出して滝の近くの木陰に寝そべっていた。カレーをちらつかせても片目をわずかに上げるだけだ。こうなったら本当に動かないだろう。溜息をつく以外に為す術を持たない葉佩は、せめてもの意思表示として溜息をついた。もちろん、伝わるなどとは思っていない。
「ねえ皆守」
「ああ、分かってる」
「分かってないのは分かってるから、せめて街まで歩いてください」
「俺が信用できないのか?」
「信用してるよ」
皆守が目を開けた。ちらりと葉佩を見て、口元のパイプを人差し指と中指で持ち上げて、ポケットから取り出したライターで火を点ける。やっと動いたが、立ち上がる気配はない。ふ、と甘い煙を吐き出して、薄く笑みを浮かべた。
「夕方まで待たないか?」
「早く帰りたい」
「どこに?」
「どこって」
「お前に帰る場所なんてないだろ?」
「ないけど、でも」
時々、不意に皆守はそんな事を言う。口の端を歪めて、重たそうな目蓋をゆるりと持ち上げて、葉佩が何も言えなくなるような事を、何故か少しだけ嬉しそうに。
そのたびに葉佩は誇りを失う。世界の広さが怖くなる。誰も自分を知らないのだと、そんな世界にひとりきりなのだと、そうして死ぬまで歩き続けるのだと、心細くなる。せめて地球に果てがあったら、そこで終わりにできたのに。ひとりでどこまでも行けるのが、葉佩の唯一の誇りだったのに。
泣きたくて笑った葉佩に、眠たげな声が届いた。この声がなかったら、生きてゆく事さえできないかも知れない。そんな事を、葉佩はいつも思う。
「夕方になったら、いいもん見せてやるよ」
「すげぇ積極的な皆守とか?」
「見たいなら見せてやる」
「いや、やっぱいいです」
「根性なしが」
そう言って目を閉じた皆守は、今度こそ一分たりとも動かないと全身で表明していた。葉佩はせめて溜息をつく。短い影が足元で、同じように溜息をついた。
滝音が聞こえる。生い茂った木々の葉が、飛沫を受けて跳ねるようにきらめく。5月はそんな季節だったと、葉佩はぼんやりと思い出した。ほのかな風が心地好い。汗に濡れたシャツを脱ぎ、パンツも脱いで滝壺に飛び込んだ。そうだ、夏はこんな季節だった。
「日本では、梅雨が明けないと夏とは言わないんだがな」
「なんだってー?」
「いや、存分に遊んでこい」
「なんでそんな遠い目してんの」
「まぶしい」
「なるほど、俺がまぶしすぎて」
「あ、サメ」
「淡水にサメはいないよ」
「じゃあ河鮫」
「なんて読むのそれ」
「淡水に棲息するサメの記録もあるぞ」
「へー」
川岸から聞こえる眠たげな声が、本当に眠ってしまわないうちに水から上がる。皆守がすかさずタオルを投げてくれた。タオルくらい自分で取り出せるし、急いで体を拭くほど凍えてもいなかったので、本質的にそれは葉佩にとって必要な行為ではなかったが、礼を言って受け取った。その行為が葉佩にとっては必要ない事を、皆守は知っている。
体を拭いて服を着て、荷物をソファ代わりにしている皆守へと向きなおる。
「一服したら行こうか」
「まだ待て」
「なんで」
「まだ日が高い」
「たぶん夜になったら寒いよ」
「今が暑いんだから、そのぐらいで丁度いいんだ」
「なんの話だよ」
どうにも動こうとしない皆守を動かそうとするのは諦めて、葉佩も腰を下ろした。
皆守が目を閉じる。ああこれは寝るな、と葉佩が胸中で呟いて間もなく、眠りに落ちた。とはいえ本当に眠っているのかは、葉佩には分からない。寝たふりをしてこちらの動向を窺っている事が、葉佩が気付いただけでもわりとよくある。もしかしたら、今も本当は起きているのかも知れない。確かめる事も不可能ではないが、葉佩は黙ってその横顔を見つめた。
彼が眠っていると、なんとなく嬉しいような気がする。本当に眠っていればいいと、自分でもよく分からない心が密かに願っていた。意味は、いつもどおり分からない。そもそも意味があるのかさえも。
皆守が目を開けたのは、そろそろ日が傾く頃だった。しばらくは傍に座っていた葉佩がおもむろに立ち上がって歩き出す気配を感じたところまでは憶えているが、その後の記憶はない。どうやら本気で寝入ってしまったようだ。
初夏の陽光でぬくまった地面は心地好く、まるで世界に受け入れられているかのように錯覚する。幸福な幻は、皆守の愛するもののひとつだった。それが真実であればと願うほどには強欲でいられないのが、少しばかり悲しいのだが。
「あ、やっと起きた」
「そろそろか」
「おう、晩飯もゲットしたぜ」
「ん?」
「今日のご飯はキノコだよー」
「それはやめとけ」
葉佩の手の中のキノコを一瞥し断じると、不満そうな声が上がった。
食べられる物と、食べられない物。その違いを、葉佩は知っているのだろうとは思う。一般的ではない食材でも、葉佩が食べられると判断した物は、基本的に毒ではない。毒ではないのだが、食材とは店で購入する物だという固定観念を払拭できない皆守にとっては、やはりそれは蛮勇のように見えてしまうのだ。
そんな皆守を、彼はいつも笑った。そのたびに、自分と彼は根本的に違うのだと突き付けられたような気分になる。肩を並べていても、最後には違う場所に辿り着くのだと、漠然と感じる。それが寂しいなどと、絶対に口には出さないが。
「じゃ、行きますか」
「あーだるい」
「キノコご飯あげるから頑張れ」
「お、おお、もう炊けてんのか」
「サワガニのから揚げもあるよー」
「さすがは《宝探し屋》だな」
「まあね!」
「カレーは?」
「あ、忘れてた」
「俺はお前のそんなところが不安なんだ」
「え、なんで座りなおすの」
「お前は、俺がいなかったらどうなってたと思う?」
「えーと、なんかうまくやってたと思うよ」
「傷付いた!」
「なんで?」
「という訳で、俺は寝る」
「どういう訳だよ、ちょっと待って寝ないで!」
幼い子供でもあるまいし、ひとりで帰ってもなんら問題はなさそうに思えるが、葉佩はそうしない。皆守が座り込めば立ち止まり、はやくはやくと急かしつつも先には行かない。歩いている時も、不意に振り返って背後を確認する。斜め後ろを歩く皆守を見て、そうしてからまた前を向いて歩き出す。
その行動の意味を、心配だとか気遣いだとか、そのように考えていたのはもう遠い昔だ。葉佩はもう、ひとりでは旅をしないだろう。寂しいという事を、知ってしまったから。
「葉佩」
「なんですか?」
「後ろ見てみろ」
「?」
疑いもせず背後を振り向く葉佩に、思わず手を伸ばす。背中を押すか、引き寄せるか、一瞬だけ迷った。
葉佩が声を上げたのには、背後から荷物ごと覆いかぶさってきた皆守に驚いたのと、もうひとつ理由がある。滝が燃えていたからだ。正確には、入日を受けた滝が赤く染まり、燃えているように見えたからだ。
「あ、え、ええと、皆守さん?」
「すごいだろ」
「え、ああ、うん、そうだね」
「これをお前に見せたかったんだ」
「あ、そうなんだ、ありがと」
「山間から西日が入るのは、この時期だけらしい」
「へー」
「お前に観賞するという行為を期待した俺がバカだった」
「いや、あのね、それ以前に」
「そもそも情緒が存在しないお前に」
「そんな風に思われてたの俺!?」
「景観を楽しむって発想ないだろ」
「あの、この体勢について、何かコメントは?」
「特にない」
「そっかー」
皆守が好む夕暮れを、葉佩は嫌いだと言った。赤と金色の雲も、紫色の空も、一番星も、見るたびにやるせなくて、とても悲しい気持ちになるから。空も星も花も風も、本当は嫌いなのだと、そう言った。悲しくなるから。
「葉佩、悲しいか?」
「いや、ええと、どんな感想を期待されてるのかな?」
「悲しくないならいい」
「あー、うん、悲しくは、ない、かな」
「ならよかった」
夕焼けの雲や星が綺麗なのだと、葉佩は知らなかったのだ。ただ夕焼けの雲や星を見ると訳も分からず悲しくなって、だからずっと夕焼けの雲や星が嫌いなのだと思っていた。それなのに見たくなるのは何故なのかと、ずっと考えていた。悲しくなっても目を逸らせずに、いつだって考えていた。どうして見上げるのかと。皆守には、それが憐れでならなかった。
みなかみ、と呼ぶ声がする。きれいだね、と思い出したように言う。
葉佩はもう、夕焼けを見ても悲しくならない。
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