その男が窓からやってきたのは、蓬莱寺がそろそろ寝ようかと思った時だった。全身を黒い忍者装束で包んだその青年は、無言で木刀を構えた蓬莱寺を見て、唯一そこだけ露出した目を涼やかに細めた。 「やあ、京一君」 「・・・如月か?」 「他の誰だと思ったんだい」 「いや、不審者かと」 「うら若い女性の部屋ならまだしも、どうして不審者がこんなむさい男の部屋に侵入すると思うんだ」 「不審者つってもいろいろあるだろ」 「たしかに、君の言う事ももっともだ」 「うん」 「納得したところで、君にプレゼントがあるんだ」 「ちょっと待て俺にも納得させてくれ」 蓬莱寺の主張はさらりと無視され、忍者装束の男もとい如月は、どこからともなく金色の鈴を取り出した。鼻先でちりんと小さく鳴ったそれを、蓬莱寺が疑問符を浮かべて、手には取らずに見詰める。 「なんだこれ」 「これで龍麻に可愛がってもらうといい」 「いや、どっちかっつーと俺は可愛がりたい」 「奇特な人だね君も」 「うるせぇよ」 目だけで微笑み、忍者装束の如月は闇に消えた。蓬莱寺の手に残されたのは、真冬の寒風に吹かれて可憐な音を出す小さな金色の鈴。 どうしろと。 問いかける機会を逸してしまった事を漠然と後悔しつつ、蓬莱寺は友人のプレゼントを目の高さまで上げてみた。よく磨かれたそれは、部屋の明かりを映してきらきらと輝いている。振れば琳と涼やかな音色を発し、耳を心地好く刺激する。 まあいいか、と安易に結論づけ、蓬莱寺はそのプレゼントと称された不思議な物体を傍らに置いて布団に入った。 目覚めても、特に異常はなかった。いつもどおり目を覚まし、蓬莱寺は特に理由もなかったが学校へ向かった。 鞄も持たずに家を出て、3分ほど歩いただろうか。はたと気付き、足を止める。学校へ行く理由は、今はもうない。それがいつだったのかは思い出せないが、蓬莱寺はもうとっくに高校を卒業していた。習慣というのは厄介なものだと口中で呟きつつ、進路を変更する。 過たず辿り着いたのは、見慣れたアパートの一室の、窓の前。ガラスを爪で引っ掻くと、緋勇が怪訝そうな顔でこちらを見下ろした。開けてくれと声ではなく告げると、どうして通じたのかと不思議に思う間もなく窓が開く。 するりとすべり込んだ室内には、たった今まで寝ていたような顔の緋勇がひとり佇んでいた。その横には、まだぬくもりの残る布団もある。蓬莱寺は遠慮なくその布団に潜り込んだ。 しばらくうとうとして目を開けると、緋勇がすぐ横に座り込んでいるのが見えた。意味はないがすり寄ってみると、耳の後ろを撫でられた。思わず喉を鳴らして、大きな手の平に額を押し付ける。彼の手は、あたたかくて心地好い。 尻尾の毛を整えるついでにその手も舐めてやると、びくりと震えて離れていった。遠くなった手を追って、緋勇の膝に乗り上げる。少しだけ困ったように、緋勇が眉尻を下げた。珍しくためらった後、小さな声で、問いかけるよう蓬莱寺を呼ぶ。 「京一?」 「なんだよ」 「いや、なんか、今日は、どうした?」 「どうって、何が」 「・・・」 言葉に詰まったのか言葉を濁したのか、緋勇は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。いつもつまらない事ばかり考えているか、あるいは何も考えていないのが緋勇という男である、とよく知っていたので、蓬莱寺は気にせず膝の上で居心地の好い位置を探り当てるのに専念した。 やがて落ち着いた蓬莱寺が丸くなると、緋勇は諦めたように溜息をついた。落ちてきた吐息がやけに優しげで、蓬莱寺は訳もなく嬉しくなる。甘やかされるのは、嫌いではない。 気紛れに触れてくる手がくすぐったくて、反撃という訳でもないがその手に噛み付いてみると、容赦なく鼻をはじかれた。 「いてーな何しやがる!」 「こっちの台詞だ」 「ちょっと噛み付いただけだろ」 「噛むな」 「痛かったか?」 「痛くは、ないが、なんとなくやめろ」 よく分からなかったが、物凄い眼光で睨まれたのでおとなしく丸くなる。そうすると、緋勇がまた背中を撫でてくれた。たったそれだけの事で、すべての憂いが跡形もなく流れ去る。単純なものだと自嘲する意識が、まどろみに溶けてゆく。 不意に奇妙な音が聞こえて、蓬莱寺の液状化した意識が固体に戻った。顔を上げるのは億劫だったので、耳だけをそばだてる。すると、同じ音がもう一度。緋勇の腹のが鳴ったのだと、今度は理解できた。 「なんだよひーちゃん、腹減ってんのか?」 「減ってる」 「飯、まだだったのか」 「食べようとしたらお前が来たんだ」 「別に、俺が来たって食えばいいだろ」 「そうだな」 緋勇が呟き、そのまま蓬莱寺をじっと見下ろす。 蓬莱寺は少し硬い膝の上で丸くなり、彼が撫でてくれるのを待った。しかし、いつまで経っても緋勇は撫でてくれない。不満もあらわに緋勇を見上げ、それでも落ちてこない手に焦れて、とりあえずすり寄ってみた。上着に爪を引っ掛けないよう気をつけながら、伸び上がって緋勇の胸に手をかける。 近くなった黒い瞳は、ただ無表情にじっと蓬莱寺を見詰めた。なんだか責められているように感じるのは何故だろう。そういえば、彼は腹が減ったと言っていた。そうか、腹が減ったから不機嫌なのか。 「飯、食えば?」 「だからお前がそこにいると動けないんだ」 「なんで?」 彼ならば、誰が膝に乗っていようと、立ち上がれないという事はないだろう。素直な疑問を返した蓬莱寺に、緋勇の瞳がわずかに苛立ちを含んだ。音もなく右手をかざし、それを数秒だけ空中で静止させて、ゆっくりと蓬莱寺の肩の辺りに触れて、すぐに離す。次に、やはりゆっくりと、蓬莱寺の顔を手の平で覆う。 不可解な動作に、蓬莱寺が首を傾げた。 「何やってんだ?」 「どけ」 「ん?」 「そこをどけ」 「やだ」 「なんで」 「あったかいから」 正直に答えると、緋勇は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。いつもなら、彼の邪魔をすると何をどうしているのかも分からないほど鮮やかに転がされるのに、今日はそれもない。どこか遠慮がちに、つたなく触れてくるだけだ。蓬莱寺には、それがたまらなく甘く感じられてならない。今日の彼は、どうしたというのだろう。もしかして、死期が近いのだろうか。 「ひーちゃん、死ぬのか?」 「!?」 「死なねぇよな、お前は」 「え、いや、ええと、どうした?」 「死ぬなよ」 「あ、ああ、まあ、努力する」 どうやら死なないようなので、安心して丸くなる。明日の事など知らない。今ここで死なないのなら、それでいい。思考ではなくそう結論づけ、蓬莱寺は目を閉じた。 緋勇はまた溜息をついた。 「京一」 「んー?」 「お前がどいてくれないと、俺は飯が食えない」 「あ、そういや俺も飯まだだった」 「食べていくか?」 「うん」 「だったらどけ」 「やだ」 緋勇が、遠い目をして黙った。しばし沈黙し、やがて意を決したように視線を鋭くして、腰を上げる。急に揺れた寝床に驚いて、蓬莱寺は慌てて緋勇の服にすがり付いた。どうにか肩までよじ登り、体勢を安定させる。 「おい、急に動くなよ!」 「耳元で喚くな」 「押すなよ落ちるだろ!」 「落ちろ」 「尻尾は触るな!」 「うるさい」 「あ、ばか引っ張んな!」 泣きそうになりながら緋勇の肩に爪を立てると、尻尾を引っ張るのはやめてくれた。代わりという訳ではないだろうが、手の平ですくい上げられて床に下ろされる。そうすると、急に部屋の寒さが体に染み込んだ。床は冷たいし、何より彼に触れていないのが寂しい。 そう訴えながら緋勇の裾を引っ張ると、またしても重たい溜息が落ちてきた。 「飯はいらないのか」 「いるに決まってんだろ」 「だったらおとなしくしてろ」 「だって、でも、寒い」 「・・・」 緋勇が小さく舌を打ったのが聞こえた。ほぼ同時に大きな手で持ち上げられて、布団に落とされるというにはあまりに丁寧に置かれる。「そこにいろ」と短く言い捨てて、緋勇は台所に消えた。 布団はもう冷たくなっていたが、かすかに彼の匂いが残っている。蓬莱寺は仕方なく丸くなって目を閉じた。 本当はずっと触れていたいのだが、彼がそれを許さないのなら仕方ない。 あの大きなあたたかい手に撫でてもらいたいのだが、忙しいのなら仕方ない。 どうせあの手は自分のものなのだから、いつかは戻ってくるだろう。 でもあまり多くの事は憶えていられないから、なるべく早く戻ってきてくれないと、忘れてしまうかも知れない。 それは嫌だ。忘れたくない。だから早く戻ってこい。 胸中で呟く言葉が散漫になってきて、やがて消え失せるまで、蓬莱寺はあのあたたかい手の事ばかり考えていた。 緋勇がレトルトの雑炊を手に部屋に戻ると、蓬莱寺はすっかり眠り込んでいた。まるで猫のように体を丸くして、布団にくるまっている。 両手が塞がっていたので、足で覚醒を促した。それでも起きないと見ると、緋勇はせっかくあたためた雑炊を台所に置いてきて、眠る蓬莱寺の隣に座り込んだ。 そっと、手を伸ばしてみる。髪に触れても、耳に触れても、頬に触れても、鼻に触れても、蓬莱寺は目を覚まさない。小さな声で呼んでみても、穏やかな寝息しか返ってこない。 それなら、何も問題はない。彼が安らかにあるのなら、何も。 蓬莱寺が目覚めると、緋勇は窓辺に座ったまま目だけこちらに向けて、「やっと起きたか」と独り言のように呟いた。 なんだ夢かと口中で呟いて、さてどんな夢だったかと思い出そうとして、しかしさっぱり思い出せなかったので蓬莱寺は諦めた。幸せなような、寂しいような、嬉しいような、悲しいような、変な感触だけが心臓の近くに残っている。 不意にちりんと音がした。身を起こすと、ポケットから小さな鈴が落ちた。目に入った金色の鈴に、昨夜の不審者みたいな友人との一件を思い出す。どうやらあれは夢ではなかったようだ。なんとなく手に取って、目の高さまで持ち上げてみる。 可愛がってもらうといい。如月は、そんなような事を言っていた。緋勇はこちらを見もしない。 呼び慣れた愛称を呼びながら、どこか物憂げな顔をした緋勇に手を伸ばす。しかしその手が触れるより早く、緋勇はすいと立ち上がった。無為に虚空を泳いだ手を、ゆっくりと引き戻す。よくある事なのだが、やはりちょっと切ない。 気を取りなおして寝乱れた布団をたたんでいると、緋勇がレトルトの雑炊を片手に戻ってきた。 急に空腹を覚えて物欲しそうにそれを見ていたら、「もうひとつあるから自分であたためてこい」と、早くもレンゲを口に運びながら緋勇が言う。しかし、蓬莱寺の腹はあたためる間も待てないと主張している。ひとくち、と言って顔を近づけると、顔面をはたかれた。 言われたとおり、冷たい床を踏んで目当ての物を見つけ出し、そういえばこれを買ってきて冷蔵庫に入れたのは自分ではなかったかと思い出す。だからどうしたと言われても困るが、なんともなしに自分ばかりが彼を甘やかしているような気分になってきた。別にいいけどさ、と口中で呟き、ビニールの包装を切る。 パックの中身を鍋に移して火にかけて、ふと蓬莱寺は自分の頬に手を当てた。 ところで、眠っている間に熱くてやわらかいものが頬に触れたような気がするのだが、これは気のせいだろうか。 |